四章 四日目 真実と結末。

20 疾走

 一時限目の古典の授業。


 年配の女性教師の声が弱々しく響く教室内には、気だるげな、生ぬるいような独特の空気感が漂っていた。


 ある者は机に突っ伏して眠り、ある者は真面目にノートにペンを走らせ、そしてある者は机の下でスマホをいじり、またある者は隣の席の女子にノートの切れ端を渡していた。


 そんな中で俺は、前述のどの行動もとっていなかった。俺は、ただある一点だけを見つめていた。まるで何かに取り憑かれたかのように、ただひたすらにそれを見つめていた。


 それはもちろん黒板に書かれた丁寧な白い文字列ではないし、はたまたクラスのマドンナ的美少女でもない。


 俺のひとつ前の席の、つまり佐倉が座っていた席に置かれている一輪の花が挿さった花瓶を、俺はただただ見つめていた。


 昨夜、何者かに銃で撃ち抜かれ死亡した女子高生、佐倉咲。


 二人目の被害者である川崎さんの机と同じく、佐倉の机の上にも、これみよがしに花瓶が置かれていた。


 花瓶を見つめるという行為に、なにひとつ意味はない。どれだけ花瓶を見つめ続けたところで、佐倉が生き返ったりはしないし、瞬きをしたらそこには当然のように佐倉が座っていたなんて超常的展開は起こらない。


 だけれど俺は、教師の声を右から左へすべて聞き流し、黒板は一切見ずに、ノートを広げずに、ペンすら持たないまま、机の下で膝を貧乏ゆすりしながら、花瓶に目をくぎ付けにしていた。


 なぜそんなことをしているのか、自分でもわからない。


 幼馴染が死んで、佐倉が死んで、俺はなにがしたいのだろう。


 俺は何をするべきなのだろう。


 佐倉が殺されて、俺は何がしたいのだろう。


 依然として、俺の膝の揺れは激しくなる一方だった。


 昨夜、俺は佐倉が殺されているとはつゆしらず、悠々と風呂に入ってからベッドで寝息をたてていた。俺が間抜けに眠っている間に、佐倉は殺されてしまった。


 もし俺が眠っていなかったら、佐倉を救えたのかといえばそうではない。


 では、あのとき、俺が西川(仮)と三時間を浪費してから教室に戻ってきたとき。もし俺があそこで佐倉について行っていたならば、殺されるその直前まで俺が佐倉の傍にいたならば、結果はどうなっていただろう。


 一秒間に三回、踵を床に打ち付ける。


 頭がおかしくなりそうだ。


 俺があのとき佐倉を見送っていなければ、昨夜の殺人は防げたんじゃないのか。


 俺があのときなにもしなかったせいで、佐倉は殺されてしまったんじゃないか。


「……いや、そんなことはない……」


 俺は主人公ではなく一般人Aだ。一般人がいくら事件の被害者に干渉したところで、なにか状況が変わったとは思えない。


 主人公ではない俺には、何もできない。


 …………いや。


 俺は本当に主人公じゃないのか?


 ぴたり、と膝の揺れ動きが止まった。


「なにをしていたんだ」


 気が付いたときには、俺は立ち上がっていた。がたりと大きな音をたてて椅子を乱暴に後ろに押して、立ち上がっていた。黒板の前に立つ古典教師は俺を見て目を丸くして、チョークを取り落しそうになっている。教室にいる人間の八割が俺のその立ち姿を見ている。好奇の視線、興味の視線、呆れの視線、驚愕の視線。様々な色の視線が俺の身体中に集まっているのを感じる。


 だが、俺はそんな視線にひるむことなく、一歩一歩確実に踏みしめて教室の後ろ側まで歩いて、そして勢いよく乱暴に扉を横にスライドし、廊下に出て、走った。


 走った。駆けた。疾風のごとく、風と一体化するかのごとく。走って走って、階段を駆け下りて、下駄箱まで走って、靴は踵を踏んで履いて、外に出て、校門まで走って、道路まで出た。頭がどうにかなりそうだった。


 自分の呼吸音がいやにはっきり聞こえる。心臓の音も、駆ける足音も。


 自分がどこに向かっているのかわからない。


 いや、わかっている。


 わかってはいたが、それがどこなのかがわからない。


 わからなくてもいい。


 とりあえず走っていれば、大陸は無限ではないのだから、いつか辿りつく。


 もうそれでいい。


 それでもいいじゃないか。


 いつか確実に辿り着けるのならば、それでもいい。


 だから俺は、脇目も振らずに、一心不乱に、一直線に集中して、走り続けるべきなんだ。


 ……と、急に現れた人影によって、俺は転びそうになった。


「おっと雨宮くん、こんなところで何してるの? 今は授業中だよ」


 俺の目の前に現れたその女の子によって、俺は走るのを辞めざるを得なかった。走り続けることができなくなった。


 俺の目の前に、手と足を広げて大の字のようなポーズで立ちふさがったその女子高生は、走る俺の肩を正面からがしっと受け止めて、そして微笑んだ。


「雨宮くん、青春っぽく走りたくなるのはよくわかかるけどさ、ルールは守ろうよ。今は授業中だし、それに放課後になるまでは無断で学校の外に出ちゃいけないっていう校則があるんだよ? 知ってる?」

「西川……」


 謎の女子高生。


「まあでも、これから学校に戻って、先生にお叱りを受けてから教室に戻ってみんなに白い目で見られてこいなんて酷なことは言わないよ。そんな、学校側からした『適切な処置』を受けてこいなんて言わない。全然適切じゃないしね。それに、わたしは品行方正って言葉が大っ嫌いなんだよ」


「どいてくれよ」


「ところで雨宮くん、キミは今からどこへ行くつもりなの? 青春を謳歌せしめんとする男子高校生が走って走って、最終的にいったいどこへ行きつくのか、とても気になるな」


「青春を謳歌しようとしてるわけじゃない」


「ほーう? 走っている男子高校生はみんな青春を謳歌するために走っているものだと思ってたよ。ほら、いかにも青春っぽいサッカー部や野球部の連中は、いや別にそこで走らなくてもいいだろって場面でもやたらと走りたがるじゃない? 対して雨宮くんみたいないかにも灰色の高校生活を送っていそうな人は、走るべき場面でもなかなか走りださないでしょ。でもその灰色の雨宮くんが走りだしたということは、ついに雨宮くんも高校生活に青色のインクを落とし始めたのかと思ったんだけど、違ったのかな」


「いいから早くどいてくれよ」


「どいてどいてって言うけどさ、わたしは雨宮くんの前に立ち塞がっているわけじゃないよ? わたしはただ雨宮くんの対面に立っているだけ。わたしは雨宮くんの進行を妨げるつもりはないし、雨宮くんの進路を塞ごうという意図もない。わたしはただ雨宮くんの対面に立って、こうしてお話しているだけだよ」


「じゃあまず肩を放してくれ」


「やだよ。雨宮くんともっとお話ししたいもん。だからわたしは手を離すわけにはいかないよ」


「言ってることの意味が分からん」


「雨宮くんがわたしの言ってることの意味を理解したことが一度でもあったかな?」


「ない」


「なら、今更わたしが意味不明なことを言ってもなんら問題はないよね?」


「いや、ある」


「あらら、雨宮くんまで言ってることがわけわかんなくなっちゃった。おーい、しっかりしてー?」


「しっかりしてるよ。さっきからずっとあんたのほうがわけわかんないんだろうが」


「うーんと……よし、ここは大胆に話の方向をごきゃっとばきゃっと変えちゃおうか。このままいっても堂々巡りになっちゃうだろうからね。えーっと、ところで雨宮くんは今なんで走ってたのかな?」


「犯人のところに行くため」


「おっと。話を変えると言って質問の文章を変えて、でも結局は同じことを訊いているっていうわたしの小学生レベルの罠にひっかかったね、雨宮くん。そっか、犯人のところね。犯人っていうのはもちろん、昨夜佐倉さんを殺した犯人のことだよね?」


「ああ、そうだ」


「おお、急に素直になられるとなんだか不気味だよ……と、ちょーっと目が泳いできちゃってるね、雨宮くん。なんか眠くなってきちゃった? それなら、ほら、昨日みたいにまた立ち直ってみせてよ」


「別に眠くなってない」


「あれれ、ほんと? じゃあ素でそんな顔してるんだ、雨宮くん。だいぶ精神的にまいっちゃってるみたいだね。やっぱり深い知り合いが二人も死んじゃうと、そうなっちゃうのも仕方がないのかな?」


「知らない」


「幼児が駄々こねてるみたいなしゃべり方になってるよ。しっかりしてよ、雨宮くん」


「知らないから。もうどっかに失せてくれ」


「あーああーあ、そんなこと言うんだったら、もう犯人のいる場所教えてあげないよー?」


「は?」


 今、なんて言った?

 

 犯人のいる場所?


「犯人って、あの犯人、か?」


「もちろんそうだよ。昨日までの三日間で三人もの人を殺した犯人のこと」


「居場所を知ってるのか?」


「知ってる知ってる。わたしはなんでも知ってるからね。いやごめんなんでもは知らない」


「どこだ?」


「河原だよ」


 あっさりと、それが最初から周知の事実であったかのように、西川はそう言った。


「ほら、この学校のすぐ近くにさ、まあまあ大きくて有名な川があるでしょ? よく高校生カップルが何を血迷ったのかその河原に行って、それで二人でぼーっとその川の流れを眺めていたりするでしょ。そんな無意味なことを延々としているなんて、あの人たちはバカが極まりすぎてしまったウルトラアルティメットバカップルに他ならないんだろうね。そんな馬鹿たちが普通の高校に普通に通えていることがわたしは不思議でならないよ。雨宮くんもそう思うでしょ? …………と、あれ?」


 俺は西川の手を無理やり引っぺがし、その河原へと全力疾走した。

 

 西川が俺の後ろを追ってくることはなかった。

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