17 向けられる疑念
警察を名乗る女性は、普通に当然のように駅前のスターバックスに入って行った。確かに学校から徒歩三分圏内のカフェではあるけれど、ガラス窓から透けて見える店内には、俺と同じ学校の女子生徒が談笑していたり、男子生徒がノートを広げて勉強していたり、かたやスーツ姿の男性がノートパソコンのキーボードを叩いていたりしている。この店ではとてもじゃないが密会なんてできそうにない。
いや、そもそもこれから俺たちがすることが密会と呼ばれるものなのかどうかは甚だ疑問だけれど。
「ここです、ここが私の行きつけのカフェ。重要な話はいつもこの店で行っているんです」
冷めた真顔で、口調だけは自信満々に言うから、冗談なのかそうでないのか判断がつかない。
「ひょっとするとあなたは、あまり重要な仕事を任せられていないんじゃないですか?」
とりあえず冗談だと受け取って、話にノッておいた。
「む。そんなことはないですよ。少なくとも今回の一件は、そこそこ重要な仕事です」
「今回の一件というのは、これからあなたが僕に話すことを言っているんですか?」
「そうですよ。私がキミに話すというより、キミに色々話してもらう形になりますが」
俺はなにか重要な事件に巻き込まれており、そして俺はその事件の重要参考人かなにかになっているらしい。
はて、そう言われても、俺には心当たりが全くと言っていいほどことごとくない。俺の身の回りで起きた事件、となればあの銃殺事件くらいのものだけれど、俺はあの事件について何の情報も握っていない。
本当に、これっぽっちも。
警察の女性が注文しに受付へと向かったので、俺もあとからついて行く。
それから、受付の店員に向かって、まるで呪文のようなカタカナ語の羅列を女性が話して、その呪文を店員も復唱した。
「注文をどうぞ。ここはお姉さんが奢ってあげます」
注文、と言われても、俺はスターバックスなんて今日まで一度も足を踏み入れたことがなかったのだ。だからもちろん、メニューにどんなものがあるのかなんて何一つ知らないし、メニュー名が異国の言葉のように聞こえるのだ。
「じゃ、じゃあ、この人と同じやつで……」
メニュー名を言わない注文の仕方でもって、俺はとりあえず飲み物を確保すること及び警察の女性の厚意を無碍にしないことに成功した。
ほどなくして、白いクリームがのっかったカフェオレらしき飲み物のカップを受け渡され、警察の女性が千円札を二枚支払った。
「え、これ、八百円もするんですか」
八百円もあれば、ハンバーガーが三つくらい買えてしまう。はたしてこのカフェオレにハンバーガー三つ分の価値はあるのだろうか。
「ええ。でもご安心ください。ここはお姉さんが奢ってあげますので」
真顔で淡々と言われると、こちらとしてはなんだか申し訳ない気分になってきてしまう。
そして警察の女性が窓際の一列になっている席に腰かけたので、俺もその隣に腰かけた。それから奢られたカフェオレを一口飲んだ。確かにおいしいのだけれど、八百円分の価値があるとは到底思えなかった。
「おいしいですよね、それ」
警察の女性が、正面の窓の向こうを眺めながら言った。正面を向きながら、左に座っている俺がカフェオレに口をつけるのに気付いたのか。視野の広さは警察という職業柄だからこそなのか。
「ええ、まあ、そうですね」
我ながら愛想がなさすぎるとは思うけれど、これは仕方がない。俺だって一介の男子高校生に過ぎない。こんな美人なお姉さんを前にしたら、このようにたじろいでしまうのは仕方のないことなのだ。
「……申し遅れました。わたくし、
「はあ。雨宮です」
「知ってます」
言って、上条さんはカフェオレのストローに口をつけた。
やはり、なんかこう、上条さんは無意識にこちらの勢いを殺してくるというかなんというか、そういう不思議な雰囲気がある。
しばらくストローを吸ってから、ストローから口を離し喉を鳴らし、そしてカップを置いてから、上条さんはおもむろに口を開いた。
「雨宮さんは、ニュースは見ますか? 新聞か、ネットでもいいですけれど」
「まあ、それなりには」
「じゃあ、ここら一帯で起きた、昨日と一昨日の殺人事件を知っていますか?」
「知ってますよ」
「昨日に一人、一昨日に一人、合計で二人の女子高生が銃で撃たれ、殺害されました。非常にいたましい事件ですね。いったい犯人は誰なんでしょう」
「そんなの、僕にもわかりませんよ」
「別に雨宮さんに犯人が誰なのかを訊いたわけではありません」
「…………」
俺はカフェオレを飲んで、飲み下して、それから一度深呼吸をした。イライラしてはいけない。
上条さんは冷めた真顔で窓の向こうを眺めたまま、こちらには一切目線をくれない。何を考えているのか全く見当もつかない顔だった。物憂げでもなければ楽しげでもない。そこにはありとあらゆる感情が一切含まれていない。
「それで、藪から棒にだしぬけに単刀直入に訊くのですが」
「はい」
「雨宮さんがあの事件の犯人ですよね?」
「…………単刀直入というより、ド直球ですね」
「どうでもいいですよそんなこと」
上条さんは事件の調査をする際、犯人候補に対していつもこんな風にド直球で疑いをかけているのだろうか。こんな風に訊かれて『はいそうです私が犯人です』と白状する人なんて、この世に一人も存在しないと思うのだけれど。
「それで、どうなんですか? 雨宮さんは犯人なんですか?」
「いや、違いますけど」
「そうですか、違いますか。私の推理は外れていたということですか。がっかりです」
と、落胆した様子もなくこれ以上俺に追及する様子もなくなんでもないことのように言って、またカフェオレのストローを吸う上条さん。
上条さんはなにがしたいのか、俺には皆目わからない。
あの人と同じ雰囲気。
「……あの、話は終わりですか?」
「でも私はまだ雨宮さんが犯人だと思っていますよ」
「……終わりじゃないってことですかね……」
「こんな一瞬で私の話が終わるわけないでしょう。せっかく八百円も払って雨宮さんを捕まえたんですから、ここで終わるわけがありません。まだ全然元がとれていませんので」
それは、上条さんにとって八百円の価値が高いからそう言っているのか、俺のような取るに足らない人間に八百円も払ってやったのだからという意味で言っているのか、どちらなのだろう。
……どうせ後者なのだろう。刑事ともあらさられる人が、男子高校生に八百円程度を払うことに渋るはずがない。刑事だって公務員だ。
「雨宮さんは、なぜ自分が殺人事件の犯人候補として疑われたのか、その理由を聞きたくはないですか?」
「……いや、別に、そこまで興味はないですけど……」
すると、上条さんは目を閉じて、「ふぅ……」と大きくため息を吐いた。美人はため息を吐くだけでも絵になってしまうからずるい。神は平等なんかではないことを再認識させられる。
「雨宮さんは、そのカフェオレを誰に奢ってもらったのかを忘れているようですね。それか、雨宮さんはとんだ非常識野郎なのか」
俺には上条さんに見とれている余裕などあるはずがないのだった。俺は今さっき、上条さんの癇にべたべたと触ってしまったのだった。
「雨宮さん、忘れてしまっているようなので優しいお姉さんがもう一度教えてあげますね。あなたが今おいしそうに飲んでいるカフェオレは、この私が、八百円も払ってあなたに買い与えた代物です。その事実をもう一度改めて見つめなおして、それから自分の態度をそれ相応のものに改めてください。いいですか?」
「は、はい。わかりました……」
俺はカフェオレのストローから口を離して、丁重に首肯した。カフェオレの中身はまだ半分以上残っているけれど、上条さんにあんな言い方をされてしまうとこれ以上カフェオレに口をつけずらくなってしまう。
上条さんにとっての八百円は、相当高い価値を持つらしい。
「はい、それで?」
と、一瞬だけ上条さんが横目でちらっとこちらに視線を寄越した。それで俺はすべてを察する。
「あ、ああ。なんで俺が犯人候補に挙げられたのか、ものすごく気になりますねー、はい」
「そうですよね気になりますよね。私も雨宮さんがそう言うと思ってたんですよ」
ひどい茶番だ。
いや、八百円も奢ってもらっている身としては、目を輝かせて迫りながら『わたし、気になります!』といかにも興味津々に言った方が良かったか。
「突然話が飛ぶのですが、実は私、雨宮さんの妹と非常に仲良くさせてもらっているのですよ」
「……え?」
「お、良い反応。ちゃんと驚いてくれましたね」
上条さんは冷めた表情で全然嬉しくなさそうにそう言うから、あまり驚いたかいがないけれど、そんなことはどうでもよくて。
俺の妹に、刑事と接点を持つような何かがあるとは思えない。なにかの事件に巻き込まれたというのも聞いたことがないし、そもそも妹はただの中学生なのだから、親戚でも腐れ縁でもない他人の大人と仲良くなるはずがないのだけれど。
「どこで僕の妹と知り合ったんですか?」
「それは諸事情につき言えません。家に帰ったら妹さんに訊いてみてください。多分妹さんも教えてくれないでしょうけど」
「……どうしても秘密ですか?」
正直、俺が事件の犯人候補に挙げられた理由よりも、断然こちらのほうが気になる。
「どうしても秘密です。内緒です。女二人の深くて硬い友情で守られた秘密です。兄だからって、雨宮さんにそうやすやすと教えるわけにはいきませんよ」
なんだ、それは。
妹が刑事の女性と知り合う理由。なにか深いわけがありそうで、でも案外蓋を開けてみればくだらないことのような気もする。
まあ、いくら家族とはいえ、妹の人間関係に兄が土足で足を踏み入れるのはよろしくないか。
家族とて究極的に言えば他人だ。
「それで、今日の朝、登校中の妹さんとばったり遭ったんですけれど、そのときに聞いたんですよ」
「…………」
「雨宮さん、そこは、もったいぶった私に『何を聞いたんですか?』って聞くべきところですよ。ほら、さんはい」
怪談話じゃないんだから。
「……何を聞いたんですか?」
「それがですね、昨夜、雨宮さんが深夜に家を出たという目撃証言です」
確かに俺は昨夜、なかなか寝付けなかったために、深夜のコンビニへと赴いた。そしてそれを妹に目撃されたことも事実だ。
「……それが、どうしたんですか?」
「そこから調べた結果、この地域一帯で深夜に外を徘徊していた高校生は雨宮さんただひとりだけでした」
「……だから、僕が犯人だと?」
「それだけじゃありません。妹さんは、兄のブレザーのなかに拳銃らしき黒光りしたなにかが入っていたとも言っていました。そして事件の被害者は二人とも銃殺です」
「ああ、それなら……」
言って、俺はブレザーのなかの、新条から譲り受けたエアガンを取り出そうとした。妹が見たその黒光りしたなにかの正体は、このエアガンのことだろう。
だが、ブレザーのポケットの中は空っぽだった。
「あ、あれ……」
「どうしました? 雨宮さん」
「あ、いや、なんでもないです」
どういうことだろう。どこかで落としたのだろうか。ブレザーのポケットにエアガンの全身がすっぽり収まっていたわけではないから、何かの拍子にポケットからころっと落ちてしまうことは十分にありえる。
「これが私が雨宮さんが犯人だと推理した根拠の全てです。さあ、どうでしょうか」
「どうでしょうかと言われても……。どのみち僕は否定しかしませんよ」
「そうでしょうね。まあ今日のところはいいですよ。私としてもまだ証拠が弱いと思っていますし」
弱い証拠しかないというのに、なぜ俺にド直球で疑いを向けてきたのだろう。
「今日は敵情視察だけで勘弁してあげます。今度強力な証拠を見つけてきたときはまた、雨宮さんのことを恋する女子高生よろしく校門の前でまっていますので」
「は、はあ……」
今日の上条さんは、敵情視察なんて穏やかなものではなく、思いっきり敵の喉元に切っ先を突き付けるようなことをしていたと思うのだけれど。
それに、そんな弱い根拠で俺を犯人だと決めつけるということは、つまりおそらくは事件の捜査が難航しているということだろうに、こんなところで男子高校生と優雅に悠々とお茶会をしていていいのだろうか。
「この年齢になるとですね、たまには八歳年下の異性とゆっくりコーヒーが飲みたくなるものなんですよ」
「は、はあ。よくわかりませんね……」
「雨宮さんみたいなクソガキにわかってたまるものですか」
少し拗ねたような言い方だけれど、上条さんは無表情で拗ねた様子は見受けられない。上条さんは、終始一貫して何を考えているのかよくわからない。見た目だけで言えば高校生くらいに見えるのに、そのミステリアスな雰囲気によって俺よりも年上なのだということを実感させられる。もし上条さんが子供っぽい無邪気な雰囲気で表情が豊かであったならば、そのスーツ姿からはちぐはぐな印象を受けただろう。
俺はカフェオレの液体を、ストローで底まですべて吸い取った。
「……あんまり長居しても仕方がないですし、そろそろお暇しましょうか」
「そうですね」
俺と上条さんは同時に席を立って、そしてごみ箱にカップを突っ込んで、それから店を出た。
店を出る前に、上条さんとの話の中で殺人事件だの犯人だのという言葉が出ていたので、一応周りの人の視線を確認してみたが、特にこちらに視線が集中しているということもなかった。
「それでは。私とはもう二度と会うことがないといいですね」
「……まあ、そうですね」
そんな別れの挨拶で、俺たちは別れた。上条さんは夕焼けの沈む方向に向かって、淡々と歩いて行った。俺はしばらくその後ろ姿を見て、上条さんが横の路地に逸れたのを確認してから、深いため息を吐いた。
それから、自分の家の方向、上条さんが歩いて行った方向とは真逆の、朝焼けが昇る方角に足を向けて、歩き始める。
歩く以外にやることがないので、頭の中で少し引っかかったことを整理してみる。
上条さんが俺を犯人だと推理した理由の一つに、俺が唯一深夜に外に出た高校生であるというものがあった。
そう、高校生。上条さんは、犯人は高校生であると言った。
ということはつまり、犯人の特徴が高校生であるということがわかっているくらいには、捜査が進んでいるのだ。犯人が高校生だとわかっているのならば、疑いの範囲はぐっと狭まる。殺人犯が捕まるその瞬間は、案外近い未来なのかもしれない。
まあ、なんにせよ、俺には関係のない話だ。
ふぅ、と嘆息してから、俯いていた顔を上げて、制服のポケットに手を突っ込む。
それにしても。
警察なんて。
まったく、危ないところだった。
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