15 西川美香

「…………ん?」


 昼休み。西川美香という名のアカウントから、俺のスマホに一通のダイレクトメッセージが届いた。


『今すぐ、三階奥の階段下の廊下まで来てください』


 たった一文、それだけ。


 三階の階段下といえば、よく俺が新条と落ち合うために使っている待ち合わせ場所だ。この前新条にエアガンを見せられたのも、三階から四階へと続く階段の踊り場だった。


「なんだ、これ……」


 西川美香はもう死んでいる。あの世へと旅立っていて、既にこの世には存在しない。それなのに、このアカウントの名前は西川美香だ。


 どういうことだろう。


『あなたは何者ですか?』


 そのままこの謎のアカウントに従って、三階奥の階段下に素直に赴くというのは、なんだか恐ろしかったので、とりあえず俺はそのダイレクトメッセージに返信をしてみた。


 すると、数秒とたたずに返信があった。


『質問は受け付けません。早く三階奥の階段下の廊下まで来てください。事態は一刻を争います。できるだけ早急にきてください。お願いします』


「んー……?」


 一刻を争うような事態に俺を呼びつけるとは、いったい何がどうなっているのだろう。なぜ、一刻を争うような事態に、俺のような何の役にも立たないであろう人間を呼び出すのか。俺が必要な事態とは、どんなことだろうか。


『なにが起こっているんですか?』


 俺がそう返信すると、またすぐに返信があった。そのチャットの、返信が来るまでの時間と全く見合わないその文字数に、俺は少し戸惑う。


『質問は受け付けません。何度も言わせないでください。事態は一刻を争うのです。早急に三階の奥の廊下まで来てください。もう一度言います。早急に三階奥の階段下の廊下まで来てください。お願いします』


「強情だな……」


 人のことを呼び出している立場だというのに、何の情報もこちらに明かそうとしないこの態度。あまりに厚顔無恥が過ぎるのではないだろうか。


 俺が顔をしかめてスマホを眺めて、このチャットの言う通りに三階の廊下まで行こうかと逡巡していると、また新しい吹き出しが届いた。


『さっきから何をうだうだしているんですか? 何度も言いますが、事態は一刻を争うのです。あなたに迷っている時間などありません。今すぐ椅子から立ち上がって、駆け足で三階奥の階段下の廊下まで来てください。お願いします』


「なんか怖いな……。行けばいいんだろ、行けば」


 なぜこの謎のアカウントが、俺がまだ教室の自分の席に座っていることがわかったのかがわからない。その理解不能が俺の恐怖心を煽り、そしてその恐怖心は俺を立ち上がらせた。


 俺は席から立ち上がって廊下に出て、言われた通りに駆け足で三階の奥まで向かった。


 三階奥の階段下の廊下に着くと、そこには、昨日ゲームセンターで、俺にユーフォ―キャッチャーのエアガンを自分の代わりに取ってくれと懇願したあの女子高生が立っていた。


 満面の笑みだった。


「やあ雨宮くん。ごきげんよう」


 や、とその女子高生はちょいと片手を挙げた。そして、細めていた目を開いた。


「いやはや、まずは来てくれてありがとう。とりあえず座ろうか」 


 俺は促されるまま、階段の段に座った。あとからその女子高生が俺の隣に座ってきた。


 この人が、俺にあのダイレクトメッセージを送ってきた張本人なのだろうか。西川美香を騙ってダイレクトメールを送ってきた張本人なのだろうか。


「あなたが、あのチャットを送ってきたんですか?」

「うん、そうだよ。わたしが西川美香だよ」

「は?」


 この女子高生が西川美香? 


それは、あのアカウント名でいうところの西川美香を指して言っているのだろうか。それとも、俺の幼馴染であるあの西川美香を指して言っているのだろうか。


 ……いや、そんなはずはない。だって西川は、西川の髪型は、目の前の女子高生のようなショートボブではなくハーフアップだったし、もう少し身長も高かったし、

声質ももう少し細かった。


 俺の隣に座るこの女子高生は、俺の知っている西川美香とはなにもかもが違う。


「ん? どうしたの?」

「いや、だって、西川は、もう……」

「……ん、ああ、そうか、そうだったそうだった。雨宮くんが知ってる西川美香は、もう死んじゃってるんだったね」


 パンと手を叩いて、西川を名乗る女子高生は得心いったという風に言った。俺の方は全然得心いってないし理解も追い付いていない。


「さあて、じゃあ本物の西川美香は、わたしか、もう死んでしまったほうか、果たしてどちらなのでしょーか?」

「え」

「雨宮くんならわかるんじゃないかなぁ。いやでもわかんないかぁ。そうだよねわからないよね。いくら考えてもわからない質問をするなんて、わたしは底抜けに性格が悪いね。ごめんごめん」 


 なにがなんだか、なんなんだか。


 わからない。


「まあとりあえず、雨宮くんのなじみ深いほうの西川美香はもう死んじゃってて今いないからさ、わたしのほうを西川って呼んでくれないかな? いつまでも謎の女子高生じゃわたしも嫌だし」

「……わ、わかりました……」


 西川(仮)の言葉を首肯するほかに、俺にできることはなかった。


「まあホントは本名を名乗るのが嫌なだけなんだけど」

「え?」

「それはそうと雨宮くん。わたしになにか訊きたいことがあるんじゃないかな?」


 なにか重要なことを雑に流されたような気がするが、やっと質問の機会を与えられたので、流されたままにしておいた。


 とりあえず、直近で感じた疑問を口にしてみる。


「……えーっと、なんで俺を呼び出したんですか?」

「雨宮くんとお話しがしたかったから」


 即答だった。


 それならば、なぜ俺をいっそ恐怖まで覚えるほどに急かしたりしたのだろうか。


「急かされた意味が分からないって顔してるね」

「いや、別にそんなことは……」

「わたしが雨宮くんと一刻も早く会いたかったからだよ」


 訊いてもいないのに勝手に答えられた。


「この高鳴る気持ちを抑えられなくて、ついああいうことをしちゃったんだ。メンヘラ女みたいで怖かったよね。でも仕方ないよ。わたしはそこらのメンヘラ女の持つ異常な愛情よりももっともっと異常な愛情を雨宮くんに向けているんだから。雨宮くんもそれで許してくれるよね?」


「……………………………………あの、……は?」


「ありがとう! やっぱり雨宮くんは優しい男の子だなぁ~。優男優男~」


 一人で勝手に俺を褒めて、勝手に俺の肩をばしばし叩く西川(仮)。


 さっきからずっと勢いに呑まれっぱなしだ。話し方が独特すぎる。『ずっと私のターン』みたいな話し方で一方的に自分の言いたいことを好きなだけ言ってくる。


「それで、他に訊きたいことは?」

「えーっと……」


 訊きたいこと、といわれても、俺には西川(仮)に対する疑問があまりにも多すぎる。俺の視点では、西川(仮)という人間の全部分が謎によって覆い隠されている。西川(仮)のなにもかもが黒い霧によってもやもやとぼやけて見える。


「ああわかった。わたしが雨宮くんと初めて会ったときのことが聞きたいんだね!」

「え」

「わかったわかった。今からあのときのことの真相を全部話してあげるから、そう焦らないで」


 俺は全く焦っていないし、そんな質問は投げかけていない。


 俺が西川(仮)と初めて会ったときの話、というのは、昨日廊下で話したときに言っていた、あの『それはそれは印象的な思い出』だとか、意味深長な含みを持たせて言っていた『あんなこと』が指し示している出来事だとか、そういう俺が忘れてしまっている過去の話のことだろうか。


「真相を言うとね、わたしがあのときあの廊下で言ったことはほとんど嘘だよ。わたしと雨宮くんは過去に出会っていたりしないし、わたしはあのとき雨宮くんと初対面だったから」


「え……と言うと?」


「いや、と言うと? なんて言われても、それ以上の意味はないよ。ついでにあの廊下での会話も、ほとんど意味はない。だって全部嘘で虚構でまやかしなんだから。雨宮くんは馬鹿みたいにあのときの会話で得た情報から、わたしがどういう人間なのかとか、わたしと雨宮くんは過去になにがあったのかとか、そういうことを悶々と考えていたのかもしれないけれど、それは完全なる無駄だからね」


「……なんでそんなことを?」


 さっきから、西川(仮)がなにをしたいのかが全く見えてこない。なぜそんな嘘を言う必要があったのか、そもそも、なぜ俺という特に取るに足らない人間にやたらと近づいてくるのか。


「うーん、特に理由はないんだけど、これはわたしの話し方の癖みたいなものなんだよ。虚言癖……とはちょっと違うんだけど、うーん、なんて言ったらいいんだろう。とにかくわたしの無意識下の癖みたいなものだから、そこに理由も意図もないよ」


 なんだそれは。


 なにを言っているんだ。


 なにを信じたらいいんだ。


 いよいよもって俺には、この西川(仮)という人間のことが理解できそうにない。


「あはは、もー、そんな顔しないでよ、雨宮くん。なんでもかんでもそれらしい理由があるわけないでしょ? ことごとく運命が噛み合わないのがこの現実っていう世界なんだからさ」


 まあ、それはそうだ。この世界は作り物ではない。この世界は誰の都合にも合わせてはくれない。理屈と摂理とことわりに従って無感情に流動していく。皆に平等に運命は存在しないし、ご都合主義的展開は用意されていない。死に際にちょうどよく旧友が助けに来てくれたりはしてくれないし、たとえ自分と距離感が近い、自分にとっての重要人物であってもあっけなく何の救いもなく死んでしまう。


 それはわかっている。


 現実にはくだらない動機で殺人を犯す人間がいる。推理小説の真犯人ようなもっともらしい高尚な動機でもって人を殺す人間なんて現実にはほとんど存在しない。


 現実に、辻褄も伏線もありはしない。


 そんなことはわかっている。


 だけれどキミはあまりに、合理性を無視しすぎだ。


「合理性とか、雨宮くんらしくもない冷たい言葉だね。わたしは、目の前にあるものは合理的とか非合理的とかそんなことに関係なく何も考えずに受容するのが雨宮くんという人間だと、そう思っていたんだけどな」


「俺はそんな人間ではありませんよ。なにもかもに疑問を持って、まず何事にも裏がないかを探すのが俺という人間ですから。なにも考えずに受容するなんて、勘違いも甚だしいですよ」


 本当にそうなのか?


「本当にそうなの?」


 俺は、疑問を――


 黒い、世界が。


「雨宮くん、よく今の自分を振り返ってみてよ。ここ最近の、自分の身の回りで起きた出来事を、もう一度思い出してみてよ」


 反転して。


 夢に誘われて。


 身体から力が抜けていく。


「雨宮くんの近くにいる人のこと。雨宮くんに構う人のこと。よーく考えて」


 このまま溺れていけば――


 いやだめだ。


 はっとして、また視界が黒く染まりかけていたことに気付く。ぼやっとしていた頭のエンジンをかけなおして、あたりを見回す。そこは学校の廊下の階段。隣には西川を名乗る謎の女子高生。目の前には埃の浮いた空気。


「雨宮くんは本当に、今自分の目の前で起きていることに疑問を感じているのかな? 感じた疑問を、都合が悪いからって放置したままにしていたりしないかな?」


 そうだ。その通りだ。


 やはり俺はなにかを見落としている……。


 それは、まるで俺を嘲笑うかのような、俺を馬鹿にしているとしか思えないような、ひどく簡単なこと。

 

 簡単なことだからこそ、俺は見落としてしまっている。

 

 いや、見落としたふりをしている?


 見て見ぬふりを、しているんじゃないのか。


 実は、ずっと前から気付いていたんじゃないのか。


「……なーんかまた眠くなってきちゃったみたいだね、雨宮くん。なんだかぶつ切りみたいになっちゃうけど、今日のおしゃべりはここら辺で終わりにしようか?」

「…………今、何時ですか?」


 あと昼休みの時間がどれほど残っているのか、確認しておきたかった。


 もっとも、昼休みの時間が残っていたところで、俺は西川(仮)ともう少し話をしようとは絶対に思わないが。


「ん、えーっと……もう放課後だね」

「は?」


 耳を疑った。言葉を疑った。


「だから、もう五限目も六限目も七限目も終わって、放課後だよ」


 俺も慌てて、わざわざ人に尋ねたのにも関わらず自分のスマホで時間を確認する。


 十六時四十五分の表示。


「……いつの間に……」


 俺と西川(仮)が話していた時間は、十分にも満たない短い時間だったと思うのだけれど……。


 なにが起きた?


「さあねぇ、いつの間にそんなに時間が経ってたんだろうねぇ。本当に不思議でならないよ。あはは」

「あんたは……」

「んー? わたしはなにもしてないよー。そんなことよりさぁ、雨宮くん、なんか体調悪そうだね。顔が青白いよ。また昨日みたいに保健室まで連れて行ってあげようか?」

「…………別に、そんなことはしなくていい」


 俺は階段の段から立ち上がって、そして階段を下りて、西川(仮)に背を向けた。


「ありゃ、聞いたこともないような冷徹な声。怒らせちゃったかな? あのさ、多分、雨宮くんは今、三時間もの時間を無駄に過ごしてしまったと考えているのかもしれないけど、こうは考えられないかな? 三時間もの間、自分は辛く苦しい現実を視界に入れずに済んだ。おまけに、三時間分のつまらない授業を受けずに済んだ。そう考えると、時間を無駄にするっていうのも案外無益なことじゃないのかもって思えるよね」


「……そうっすね」


「わーお。……ねえ雨宮くん、人の言っていることを否定するよりも、人の言っていることに無関心なほうがよっぽど話者のことを傷つけるっていうオックスフォード大学の論文のことを知っているかな?」


 そんな、人があたりまえに知っていることをわざわざ論文にまとめたりはしないだろう。


「じゃあ俺はもう帰るので」

「うむうむ、既に時間割が終了した学校にとどまり続ける意味なんて絶無だよね。わかるわかる。雨宮くんらしくもない合理的な判断だけれどね」


 いつまでも口数の減らない西川(仮)のことはいい加減無視して、俺は自分の教室へと向かった。


 窓の外に目をやると、ほんの十分くらい前ではどこまでも綺麗に青い空だったのに、なるほど確かに、地平線の輪郭は橙色に色づき始めていた。


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