14 二人目の被害者

 教室に入って、廊下側の最前列の机の上に置かれた花瓶を見て、それから俺は目を閉じて深呼吸をした。


 死亡した翌日の朝からもう花瓶が用意されているとは、このクラスにも殊勝な生徒がいるようだ。


 ……いや、翌日からこれみよがしに花瓶を置いておくのは、殊勝と言っていいのかいささか微妙な気もするけれど。


 俺の席がある窓際最後列の席に移動して、そして席に座って鞄を脇にひっかけた。すると同時に、前の席の佐倉がこちらに振り向いた。


「おはよう少年。……あらら、昨日と変わらずまた死人みたいな顔になってるよ。大丈夫かい?」

「まあ、大丈夫だけど……」


 昨夜発見された二人目の銃殺死体は、俺のクラスメイトの女子だった。俺と深い関わりがあったわけではないが、毎日顔は合わせていたので、その人がもう二度と帰らぬ人となってしまったかと思うと、肺を圧迫するような言いようのない感情が沸々とわきあがってくる。


 ……だが、そんな感情を胸に抱いているのは、どうやらこの教室では俺だけらしい。


「ん、どうしたんだい。教室中をゆっくり見渡すなんて、周りの人間に興味がないキミにしては珍しいね」


 佐倉のお小言は一旦聞き流して、俺は教室内をぐるりと見渡して、クラスメイトひとりひとりの様子を窺う。


 彼らはいつもと変わらぬ様子だった。あの花瓶が置かれた机が視界に入っていないだけなのだろうか。皆が偶然、今朝のニュースを見逃したのだろうか。誰にも気落ちした様子は見られない。


 いつも笑顔で明るい人は今日も友達と談笑して笑っているし、いつも暗い雰囲気の人はその表情の暗さが一層深まっていたりもしない。


 昨日と同じ。西川美香が殺されたときと同じ。


 佐倉も含めたクラスメイト達は皆、同じ教室で過ごしていた人が昨夜殺されたというのに、誰も普段と変わった様子はない。至って平静で、いつも通りだ。


 ……さすがに、なにかおかしくないか。


「……佐倉は、今朝のニュースは見たか?」

「ああ、見たよ。川崎さんが殺されていたニュースのことだろう? 全くいたましい事件だよね」


 全然いたましくなさそうに言う佐倉。


 佐倉も、いつもと変わったところはなく、俺のような死人の形相になっていない、つまり気分が落ち込んでいる様子も見られないし、困惑したり戸惑うような様子もない。


 そんな様子を見せているのは、俺だけだ。


「お前は、なにも思わないのか?」

「ん? 思わないって、何を?」


 佐倉は、俺が何を訊いているのか本当にわからないといった風に、小首を傾げた。


「いや、だから、半年も同じ空間で過ごしてきたクラスメイトが、昨夜突然帰らぬ人と化したんだから、なにか思うところはないのかって、そういうことだよ」

「ああ、そういうこと。……んー、まあ、ないことはないけど」


 虚空に視線を向けて、なにかを考えるようにする佐倉。


「でも、そんなことを考えていたって仕方なくないかな?」


 虚空から視線を外して俺を向いて、佐倉は俺の予想の範疇外、ただ範疇外なのではなく、範疇の大きく外側に位置する内容を、口にした。


「死んでしまったんだから、もうこの世からいなくなってしまったんだから、もう川崎さんに会うことはできないし、川崎さんと話すこともできない。一緒に何かをすることもできない。そんな人のことをいつまでも考えていても、なにも進展しないよ。川崎さんと二度と会えなくなってしまったことは本当に悲しいし受け入れがたいのはわかるけど、そうなってしまったものは仕方がないんだよ。だから、いつまでも川崎さんのことを考えていても埒が明かないし何も生まれないし、そんなことに価値はないよ」

「…………」


 まさか、佐倉がそんな血の通っていない人のようなことを言うとは俺は思っていなかった。


 消えてしまった人間について考えたり思ったりするのは、もう消えてしまって二度と会えないのだからやめるべき。死んでしまった人のことを考えるのには意味も価値もない。


 だからといって、そのまま死んだ人のことを忘れていってもいいのか。


 西川美香のことを、脳内から消し去ってもいいのか。


 俺たちの手で二度目の死を与えてもいいのか。


「……お前、それ、本気で言ってるのか?」

「……ん」


 佐倉は、きょとんとした目で俺を観察した。


 そうして俺と目を合わせたまま、数秒間。俺はまるで時が止まってしまったかのような感覚に陥った。


 やがて、佐倉は俺と目を合わせたまま、きょとんとした表情から笑顔へと表情を崩した。


「いや、ごめんごめん。これは極論だよ。もちろん、そうやって意味がないからといって、その人のことを忘れてしまうのはよくないことだ。それはその人の二度目の死を意味するからね。わたしたちは殺人犯と同じことをしてしまったことになる。うん、それはよくないことだ。わたしだってわかってるんだよ」


 まるで俺をとりなすような言い方だった。


 佐倉は俺の表情から何を読み取ったのか。


「でもね、人っていうのは案外、みんなが思っているよりも簡単に死んでしまうんだよ。それこそ、人に向かって銃の引き金を引く、これって行動としてはほんの一瞬の出来事だよね。一秒にも満たないと思う。でも人っていう生き物はその一秒にも満たない時間の間に命を失ってしまうんだよ。そういう事実を、キミは知っていたかい?」

「まあ、知って」

「知らないよ。知っているはずがない。キミがそれを知っていたなら、わたしに向かって『本気で言ってるのか?』なんて言うはずないから」


 俺が言い終わる前に、佐倉は食い気味に言った。


 佐倉は微笑んだままで、俺には今佐倉が何を考えているのか見当もつかない。


「わたしは、その人の命の儚さを知っていたから、ああいうことを言ったんだ。人の命っていうのは、みんなが考えているよりも脆弱で、簡単に潰れてしまうものなんだよ。だから、死んだ人に対していちいちキミみたいに気を落ち込ませて懊悩していたら、すぐに精神の限界がきてしまうよ。世界中で人が一人も死なない日なんてないんだからさ。いちいちもう消えてしまった人間に構ってなんかいられない。わたしが言いたかったのは、そういうこと」


 佐倉の言う、『そういうこと』とはどういうことなのか、俺にはよくわからなかった。


 俺は、佐倉がまたなにやら難しいことを言っている、くらいにしか思わなかった。


 ここで俺がもっと深く、佐倉が言ったことについて思考していれば、未来は変わったものになったかもしれない。佐倉のいささか異常な考え方を、深く理解しようとしていれば、未来は変わっていたかもしれない。


「……ま、まあわかったよ。お前にもお前なりの考え方があるんだよな。俺は少し誤解していたみたいだ。ごめん」

「いや、わたしが誤解を招くような言い方をしたのが悪いんだよ」


 佐倉は依然として微笑んだまま。何を考えているのかわからない。


「でも、人間ってのは本当に簡単に死んでしまうんだよ。あたりまえのように周りの人間が生きているから、みんなあたりまえのように人間はちょっとやそっとのことじゃ死なないって思っているけれど、実際はそうじゃない。人間はちょっとやそっとのことで死んでしまう。銃弾一発で簡単に死んでしまう」

「……お前は、周りの人間が死んでしまった経験があるのか?」


 ここまで強調して、人の命の脆さを滔々と語るのには、なにか理由があるのではないか。


「ん、と…………まあ、それと似たような経験ならあるよ」


 少しだけ言いにくそうにして、佐倉は微笑みを苦笑いに変えて、俺から視線を逸らしながら言った。


「ほーん……」


 俺は佐倉にいったいなにがあったのかを深堀することはなかった。深堀してはいけないと、思ったからだった。


 それと似たような経験。


 その言葉に含まれる意味から、俺は目を背けたのだった。

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