三章 三日目 疑惑と正義。

13 後輩と通学路

 前方を歩いているあの女子生徒は、新条だろうか。


 朝の通学路の、周りを歩く人間が皆一様に紺色のブレザーを身に着けている雑踏のなか、新条のものらしき後姿を発見した。


 背中の肋骨あたりまで伸びた明るめの色の髪に、新条特有のあのちんたらした歩き方。うむ、あれは間違いなく新条だろう。昨日俺が保健室のベッドで添い寝した、あの新条だろう。


 新条は、ちんたらと遅く歩いているものだから、周りを歩く生徒たちにどんどん追い越されていっている。そうすれば、自然と新条の後姿が俺にだんだんと近づいてくるわけで。


 ここで俺はひとつの選択を強いられる。


 新条に声をかけるか、あるいは新条に声をかけずにそのまま他の生徒たちと同じように追い越すか。


 俺は今朝、昨日の夜更かしのせいで気分が悪い。今にも吐きそうなくらいに気分が悪い。だから、できるだけ、人と会話するというエネルギーを消耗してしまいがちな行動は避けたい。体調が悪いのにも関わらず人と会話したら、言葉がとぎれとぎれで会話がうまくかみ合わずに、そもそも会話自体が成立しないかもしれない。それは新条にとっても不都合だろう。


 だから、俺は新条の横を素知らぬ振りで通り過ぎる。


 いやに緊張しながら新条を追い抜いて、そして心中だけで安堵のため息を吐く。ここまで離れれば、新条はいつもぼやーっとしていて注意力が散漫だから、前を歩いている人になんて注意を向けていないだろうから、俺が逆に新条に後ろから話しかけられるなんてことはないだろう。


 と、思っていたのもつかの間。


 後方から聞こえる足音のテンポが一気に速くなった。


「っはざーっす、せんぱい。今わたしのことを盛大に無視しましたよね? 見えてますよー」

「…………あーいや、ごめん、気付かなかった」

「せんぱい、わたしの横通り過ぎるときがっつりわたしに視線を送ってましたよね。ちゃんと全部見えてますよー」

「…………あー、いや、実はさ、新条が今話しかけるんじゃねぇぞオーラを出していたような気がしたから、俺は新条に気を遣って無視したんだよ」

「そんなオーラ出してませんよー。なんですかそのものすごくいい加減な言い訳は。せんぱい、年下だからってあんまりわたしのこと舐めないほうがいいですよ? わかりました?」

「……わかったよ」


 新条は眠そうにあくびをしてから、「ならばよろしい」といつもよりも気だるげな声色で言った。そしてもう一度、口元を手で隠しながら、新条は大きくあくびをして、目元の涙を拭った。


 新条は朝に弱いのだろうか。いままで朝の通学路でこんな風に新条と会うことは一度もなかったから、新条が毎朝ここまで眠たげにしているのかはわからない。もしかしたら、昨夜、俺と同じように夜更かしをして、それで今朝に限ってひっきりなしにあくびをしているのかもしれない。


「ふぁあ~。……せんぱいって、いつも一人で学校行ってるんですか?」

「……まあ、基本的には一人だな」


 一昨日は、例外的に一人ではなく西川美香、幼馴染と二人で登校したが、その西川美香はもうこの世にいない。何者かによって心臓を撃ち抜かれたから、幼馴染はもうこの世にいない。


「へー、そうですか……」


 言ってから、またあくびをする新条。一言いうたびにあくびをしている。


「それがなんだ?」

「別になんでもないですけぉ……」


 俺よりも新条の方が、今人と話せる状況にではないんじゃなかろうか。ただ単に体調が悪いだけの俺よりも、あくびが止まらない新条の方が、あくびをしていたらまず声が出ないのだから、よほど深刻だ。


「……お前、昨日あんま寝てないとか?」

「え、なんでですか?」

「さっきからずっとあくびばっかりしてるから」

「せんぱいは、わたしにあくびをやめてほしいんですか?」

「え、いやまあ、そりゃ話しにくいしやめれるんだったらやめてほしいけど……」

「じゃあやめてあげます」


 と言うと、新条はさっきまでの眠たげな雰囲気を一変させて、重そうだった瞼はしっかりと開き、背筋はしゃきっと伸びた。


「えぇ……。あれ、意識的にやってたのか?」

「そうですよ。眠そうな女の子ってかわいいじゃないですか。かわいいですよね?」

「まあ、そりゃあそうかもしれないけど……」


 だからといって、あそこまで自然な演技ができるものなのだろうか。昨日の神崎先輩といい、最近の女子高生にはそれなりの演技力が求められているのだろうか。ああやって自然と、なんのことわりもなく俺の前で演技を始められると、俺が色々と誤解してしまいそうになるから勘弁してほしい。


「女の子の演技も見抜けないなんて、せんぱいはだめだめですね~」


 演技を見抜けない人のほうがだめだめなのだという。


 無知で無垢な男子高校生には世知辛い世の中になったものだ。


 それから無言で、学校の下駄箱まで続いている大名行列のような生徒の群れを新条と隣り合って歩いていると、しばらく歩いて、もうすぐ学校の校門が見えてこようというとき、新条が突然立ち止まった。


「あ…………」


 新条の様子に気付いた俺も、新条の数歩先で立ち止まる。


「どうした?」

「………………いや、すいません、なんでもないです」


 それから何事もなかったかのように新条はさっきまでと変わらぬ様子で歩き始めて、そしてこれも突然に俺に訊いてきた。


「せんぱいは、この学校にいるとされている催眠の天才の話を知ってますか?」

「催眠の天才? いや、聞いたことないけど」

「学校の七不思議的な、都市伝説的な話なので、本当の話なのかはもちろんわからないし、ソースもはっきりしてないんですけどね」

「ほーん……」


 急に都市伝説の話か。雑談のネタとしては最適だけれど、どうして突然そんな話を持ち掛けてきたのだろう。


 ……いや、考えすぎだ。ただ単に、新条は俺と雑談がしたいだけなのだ。


 …………ん、待てよ。


 ――


 白く輝く糸が、脳内に現れた気がした。


 俺は何か、重大なことを忘れてしまっている。でもそれは、重大ではあるけれどそこまで大したことではなくて、少し頭を回せばすぐに考えが至るような極々単純でわかりやすいことで、俺はそれをただ見落としているだけで……。


 だめだ、思い出せない。


 俺の記憶力が悪いせいだ。


「その催眠の天才は、正式なこの学校の生徒で、年齢も高校生と同じで、自分が催眠の天才であることを隠してごく普通な学校生活を送っているらしいですよ」

「ほう。じゃあ今、俺たちの周りを歩いている人のなかに催眠の天才がいるかもしれないってことだ」

「まあ、話をそのまま信じるならそういうことになりますね。全部嘘の作り話かもしれないのでなんとも言えませんけど」


 催眠。日常生活ではほとんど聞かないような言葉だけれど、ものすごく最近のある日のいつかのどこかで、催眠という言葉を聞いたような、聞かなかったような、デジャビュがある。


 催眠、催眠、催眠……。


 ……また俺はなにかを見落としているのではないか。


「でも、その人に催眠されたーって言ってる人が結構な数いるんですよ。気が付いたら半日分の記憶がなかったみたいな。なんか怖くないですか?」

「そうか? 催眠されても、記憶がなくなるだけなんだろ? 危害を加えられるわけじゃないし、別に怖くはないだろ」

「いやだって、記憶がなくなってた間に自分がなにやってたのか全くわからないんですよ? 知らないうちに勝手に自分の身体が乗っ取られて、自分の意志に関係なく第三者に好き放題されてると思ったら、めっちゃ怖くないですか?」

「……うーん。まあ、好き放題操られたところで、俺を操作することでできることなんてなにもないし、むしろ俺を操る側のほうが困るんじゃないかな。だから俺はその催眠の天才には目を付けられないだろうし、もし仮に操られたとしても怖くないし困らないな」


 俺でなければできない、というものは存在しない。俺でなければ絶対に無理だとか、俺が必要不可欠だとか、俺抜きでは到底不可能だとか、そういう事柄は存在しない。俺ができることは大抵の人間ならできる。俺ができて他人はできないことなど存在しない。


「へーはー、せんぱいはすごいですねー」

「うわめっちゃ雑だな」

「雑にじゃないとせんぱいのことは褒めれないですよ」

「……貶してるのか?」

「……貶してないですよー」


 わざと、俺に嘘だとわかるような言い方で言う新条。


 俺という人間を、度数の良い眼鏡で細部にわたって丁寧に観察すると、俺という人間にはどこにも褒められるような箇所がないということに気付いてしまうという事実は、俺も自覚している。


「もしわたしが催眠されたら、せんぱいはわたしのこと守ってくださいねー」

「まあ、お前のことを守ってくれそうな人なんて、俺くらいしかいないからな」

「はぁ? なんですかそれ。あんま調子乗らないでくださいよ」


 新条は俺のことを頼りにしているのかしていないんだか、よくわからない。


 いや、そもそもどだい、新条は俺のことをそういう場面で頼りにするような酔狂な人間ではない。





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