10 年上からの説教

「おっそーい! ……ねえ雨宮くん。あのね、『早く来てね』って言ったら、『四十秒で支度しな』っていう意味なんだよ? 知ってる? 知ってて遅れてるわけないから知らないよね?」


 冬特有の、ちりちりと頬を焦がすような陽光が熱い。


 校門で待っていた神崎先輩の表情は憤怒に満ちていた。さっき、廊下で俺に話しかけてきたときは満面の笑みを浮かべていたのに、少し時間が経てば、神崎先輩の表情はこのように様変わりしてしまう。神崎先輩は感情の変化が激動すぎる。


「支度ならゼロ秒の時点で完了してましたよ」


 既に荷物をまとめて鞄を背負っているのだから、支度ならとっくのとうにできている。


「屁理屈はいらなーい! 早く来いって言ったら早く来るんだよー! これ人生の常識! わかる?」

「……へーい、わかりましたー」

「わかった!?」


 俺が気のない返事をすると、神崎先輩はずんずんと俺に近寄ってきて、そして俺の胸ぐらをぐいっと掴みあげてきた。目の前の至近距離にある神崎先輩の顔の目には、紅い炎がめらめらと燃えていた。俺はその熱気に気圧されてしまった。


 火は苦手だ。


「わ、わかりました。わかりましたわかりましたわかりました」

「……ほんとにわかってんの? あたしはさ、かわいい後輩くんが将来女の子と付き合ったときに恥ずかしくないように、雨宮くんのためを想って言ってるんだよ?」

「わ、わかってますわかってますわかってます」


 先輩の声色は先程よりは幾分か落ち着きを取り戻したが、瞳に宿る炎はまだ勢いが衰えていない。


「……まあ、それならいいけど」


 神崎先輩は俺から目を逸らしつつそう言って、俺の胸ぐらを掴んでいた手を離した。


 俺は掴まれてよれたワイシャツを直しながら、先輩に訊いた。


「で、ゲーセン行くんすよね?」

「うん」

「どこのゲーセンですか?」

「別にどこでもいいけど」


 神崎先輩は俺に背を向けたまま俺の質問に答えるのみで、こちらを向いてくれないし、こちらを向こうという素振りも見せない。


 さすがに機嫌を損ねてしまったか。


「……神崎先輩、時間に遅れた俺が全面的に悪いですし、俺は別に胸ぐらつかまれたことも気にしてませんから、機嫌直してくださいよ」

「……そういう、平坦で感情が乗ってない声で言われてもさ、いまいち信じられないんだよね」

「そ、そんなこと言われても、自分の声なんて即席でどうにかなるものじゃないんで……」

「ふーん」


 言うと、神崎先輩は腕を組んでからくるりと身体を反転させて、射抜くような視線を俺に浴びせた。


「じゃあ鞄持って」

「え」


 神崎先輩は、握り拳と鞄を俺の目の前に突き付ける。


「今日あたしが帰るまでこの鞄持っといて。そんで許してあげる」

「はあ、わかりました……」


 まだ不機嫌な顔をしている神崎先輩に、俺は一抹の不安を覚えながらも、神崎先輩の手から鞄を受け取った。


 腕がもげるかと思った。


「おっっっっも……!」

「はぁ~? 別に重くないでしょー。男の子だったらそれくらい持てないとねー」


 神崎先輩はさっきまでこれを片手で軽々と持ち歩いていた。俺に鞄を突き付けるときに、神崎先輩は俺の目の前までこの死ぬほど重い鞄を素早く持ち上げていた。


 それに、この鞄は外見では、あまり中身が入っているようには見えない。やる気のない学生特有の、中身の容積が少なそうなぺらぺらに凹んだ鞄に見えるのだけれど、なぜ米俵のような重みがあるのだろうか。


「それじゃあ、行こうか。ゲーセンでぱーっと遊べば、雨宮くんのその平坦な声もみるみるうちに起伏を取り戻すだろうからさ」

「いや、もうそれどころじゃないんすけど……」


 神崎先輩は手ぶらとなって、張り切って腕を回している。いつの間にか神崎先輩の表情は明るくなっていた。


「ぐちぐちうっさいなー。そんなに重くないはずなんだけど?」

「この中に何入ってるんすか、マジで」

「教科書とか筆箱とか、あと香水とかそこらへんのものとか」


 飄々とした様子でなんでもないことのように話す神崎先輩。


 どうやら、『香水とかそこらへんのもの』というのがこの重さの主犯のようだけれど。神崎先輩が教科書を何冊も持って帰るほど勉学に真面目に取り組んでいるはずがないし。


「香水とかそこらへんのものって、なんすか?」

「えー? それ訊いちゃう? あーあ。ホントダメダメだなー、雨宮くんは。ほんとデリカシーの欠片もないなー、雨宮くんは。女の子には持ち歩くべきものが色々とあるんだよ、わかる? ああ、ごめん。童貞の雨宮くんにわかるわけないかー。こりゃ失敬失敬」


 言い終わって、神崎先輩はにやにやと邪悪な笑みを俺に向ける。


 表情が戻っただけで、神崎先輩の機嫌はまだ直っていないようだ。


「オレハドウテイジャナイデスケド」

「あはは。別に拗ねなくてもいいじゃん。童貞は悪いことじゃないから安心なさい」

「拗ねてないっすよ」

「え、じゃあほんとに童貞じゃないの?」

「……どっちでも良くないすかね、そんなこと」

「んー……いやでも、あたしは気になるなー、雨宮くんのそういう事情」

「どうしてですか」

「どうしてだろーねぇ?」


 いひひ、と子供っぽく笑う神崎先輩。そして俺から逃げるようにして、大荷物を担ぐ俺を置いて神崎先輩は早足で歩き出して言ってしまった。


 その神崎先輩の笑みまでもが邪悪に見えてしまうのが、俺が俺たりえる所以なのだろうと、ひとりで思った。

 

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