9 先輩との遭遇

「ヘーイ、コウハイクーン! ハウづーづーづー?」


 放課後に廊下を歩いていると、突然背後からばしーんと背中を叩かれ、日本語と英語の中間のような言語で話しかけられた。


 俺は背中をのけぞらせながら、後ろを振り向いた。満面の笑みの神崎先輩がそこにいた。


「やっぱり神崎先輩っすか……」

「ハウづーづーづー?」


 怖いくらいに綺麗な満面の笑みのまま、俺の気分を訊いてくる神崎先輩。


「はあ、トゥーバッドって感じっすかね」

「そうだねー。目が死んだ魚みたいになってる。いや腐った魚の目のほうが近いか」


 満面の笑みを維持したままで、日本語で冷静に俺の目を喩える神崎先輩。


「はあ、そうっすか」

「なんだ、反論してこないんだ」

「まあ、事実ですからね」

「雨宮くん、アニメに出てくる天才ハッカーみたいな声になってるよ。生きることそのものに全くやる気がないみたいな声」

「生きるやる気ならありますよ。人生のやる気を失ってしまったら、俺はもうこの世にいませんよ」

「あはは。でもね、雨宮くん。生きるやる気がなくても生きてる人間っていうのが、世の中にはたくさんいるんだよ」

「はあ、そうなんすか。じゃあその人たちはなんでまだ生きてるんですかね」

「死ぬ勇気がないだけなんじゃないかなー。死ねないからとりあえず生きてるって感じ。死ねないなら生きてろ、なんて名言もあるくらいだからね。でもさ、そんなスタンスで生き続けるのは、死ぬよりも辛いことに違いないと、あたしは思うんだけどなー。死んだら全部終わりだから死ぬなーとかもさ、全部終わらせて全部消してしまった方が事態が好転する場合だってあるのに、無責任だよね。こういうことを言っている人たちは、みんなお酒を飲みながら名言を考えていたのかな?」


 にこにこと穏やかな笑顔でまくし立てるように話す神崎先輩。


「……いや、そんなことないと思いますよ」

「そうだよねー。じゃあみんな頭が悪いだけかー。あっはっは、世の中みーんな馬鹿ばっかりだね」


 俺たちは、そんな会話のなかで、自然に隣に並んで、そして自然に下駄箱へと向かっている。一緒に帰ろうなんて一言も言っていないのにも関わらず一緒に帰ろうとしている。


「いやでも、大体の名言にはそういう穴があるもんすよ。完全無欠で全く隙の無い言葉なんて、存在しませんよ」

「ん? そう? じゃあ、『天才とは、一パーセントのひらめきと九十九パーセントの努力である』っていうやつは?」

「そんなの簡単ですよ。本人が否定したっていう有名な話じゃないですか。この名言は、天才とはいえ努力が大切なんだって言っているのではなく、一パーセントの才能によるひらめきがない限り、百二十パーセントでも二百パーセントでも努力したところで無意味だっていう、そういうことです。美談なんかではありませんよ」

「へーそうなんだ。確かに、そういう解釈の仕方のほうがしっくりくるね」


 放課後の廊下はどこまでも人気が無くて、陽光を反射して輝いている埃しか、俺たち以外にはいない。


「じゃあさ、『諦めたら、そこで試合終了ですよ』っていうやつは?」

「諦めずに頑張ってもいずれ時間がくれば試合は終わるし、最後まで諦めなかったところでどうにもならないものはどうにもならない。絶対に超えられない壁というのは確かに存在するんですよ。それなら、適当なタイミングで諦めてしまったほうが、身も心も傷つかずに済むってものです」

「あはは。雨宮くんはひねくれものだねー」

「神崎先輩も大概じゃないっすか」

「えー? そんなことはないでしょ」


 昨日は、嬉々として人殺しの話題を振ってきたくせに。


 ……そういえば、俺が幼馴染を最後に見たのは、昨日の放課後、この校舎と校門の間で、幼馴染が校門を通っていくのを見かけたときだった。


 あのとき、俺が幼馴染に声をかけていれば。思春期の男子特有の気恥ずかしさなんて投げ捨てて、神崎先輩をさしおいて真っ先に幼馴染のもとに、西川のもとに駆け寄っていれば、未来は変わっていただろうか。


 ……後悔なんて、無意味なのに。


「てか、そんなクソどうでもいいことはさておいてさ、雨宮くん。今日は先輩とどっかに遊びにいかない?」


 神崎先輩は少しだけ首を傾けて、そして俺に期待するような目を向けた。ずっと見つめていたら吸い込まれてしまいそうになる瞳だった。


「どっかって、どこっすか?」

「あーんと」顎に人差し指をあてて、左斜め上を見やる神崎先輩。「じゃあゲーセンで」

「はあ、まあ、いいっすけど、どうして突然?」

「この麗しき少女であるあたしと二人きりできゃっきゃうふふと遊べば、雨宮くんも元気出してくれるかなーっていう、素晴らしきあたしの素晴らしい気遣いだよ」

「神崎先輩がただ遊びたいだけではなく?」

「そんなわけないから、先輩の気遣いくらい素直に受け入れなさーい!」


 言いながら、神崎先輩は俺の額を指で強く押しのけた。俺の首ががくんと後ろ向きに倒れる。


「うあ」

「わかったー?」

「……わかりました」

「ならばよろしい。あたしは先に下駄箱行ってるから、雨宮くんも早く来てね」


 と、それだけ言い残して、神崎先輩は走り去っていった。下駄箱までなら一緒に行けばいいのにとは俺は思わなかったし、言わなかった。


「……素直になれ、か……」


 先輩からすれば、俺は素直じゃない天邪鬼で生意気な後輩なのだろうか。俺は、素直か素直ではないで言ったら、素直ではないほうになるのだろうか。


 俺はなんとも形容しがたい無属性。感情も意見も自分軸も、曖昧で希薄。


 そういうことで納得していたけれど、それは違うのだろうか。


 見る人が違えば、俺のこの無個性無属性無性質な人格にも、何かが付与されるのだろうか。


「どうでもいい」


 客観的視点とは一体何を指す言葉なのか、俺にはよくわからない。第三者からの視点という意味ならば、その第三者とは誰のことなのだろう。第三者と一言で括っても、この世には実に様々な人間がいる。考え方も価値観も精神構造も多種多様で十人十色だ。だから、第三者の立場に立つ人が変われば、その客観的視点というのもまた変わってしまうのではないだろうか。そうなると、客観的視点は、自分以外の人の数だけ存在してしまうことになる。


 佐倉から見た俺は無属性。神崎先輩から見た俺は素直じゃない。じゃあ、俺はどんな人間なんだ?


「あーあ」


 そもそも、こんなことを考えてしまうということは、つまり俺には自分の軸がないということだ。常人ならば、自分の軸がしっきりとしている人ならば、第三者からの評価に頼らなくても、自分はこういう人間であると自分ではっきりと断定できるだろう。


 それになにより。


 自分の人格なんて、この世で一番どうでもいい。

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