8 後輩と添い寝

 目を開くと、視界には見知った白い天井が映った。


「保健室、か……」


 俺はベッドから身を起こして、瞼を擦る。


 どうやらここは保健室のようなのだけれど、はて、俺はどのようにして保健室に来たのか、その道中の記憶がない。まあでも、廊下を歩く以外に保健室に向かう方法はないのだから、俺はここまで歩いてきたのだろうけれど。


 それと、さっきまで普段は見ないような、奇妙で摩訶不思議な夢を見ていたような気がするけれど、俺の記憶がないこととその夢に何か関係があるのだろうか。


 保健室内はがらんとしていて、人はいなかった。授業中だから廊下から聞こえる音は一切なく、室内は不気味なほど静かで、そしてあの薬品独特の匂いが充満していて、それによって俺はなんだか気分が浮ついて、そわそわして落ち着かない。保健室の先生はどこに消えたのだろう。


「ふわぁ~……」


 目元の涙を拭いながら、もう片方の手を天に向かって伸ばした。こきこきと骨の鳴る音がする。


「まあいいや。寝よう」


 ベッドの周りの仕切りのカーテンを閉めて、もう一度ベッドに身を沈めて、掛布団を首元まで寄せた。今日は、あらゆるやる気というやる気が俺の中から全て消え失せているようだ。ベッドから立ち上がる気力すら湧いてこない。最低でも保健の先生が帰ってくるまでは、こうして横になっていよう。そして保健の先生が帰ってきたら、適当に体調不良を訴えて、また眠ろう。


 ……ああ、なんにもしたくない。


 心にぽっかりと穴が空いてしまったように、その穴から俺の気力が滝のように流れ出してしまったかのように、本当に全くこれっぽっちも力が湧いてこない。呼吸することさえ億劫に感じる。


 俺が目を閉じて、まどろみに身を任せようとしたその瞬間、がらがらがらがらと保健室の扉が開く音がした。もう先生が帰ってきたのだろうか。


 まあいい。カーテンが閉め切られているから、ある程度の時間までは俺がここで眠っていることはバレないだろう。俺は開きかけた目を閉じた。


 すると、その瞬間、カーテンがしゃーっと勢いよくレールを疾走する音が聞こえ、俺は驚いて目を開いた。


 そこには新条がいた。


「え……せんぱい?」


 新条は驚いた顔で、ベッドに横たわっている俺の顔を見下ろしている。


「え、お前何してんの?」


 普段自分が見下ろしている相手に見下ろされながら、俺は訊いた。


「せんぱいこそ。今授業中ですよ?」

「お前だって、今は授業中のはずだろ?」

「わたしは朝から体育とかマジだるいんでサボりに来たんですよ」


 そういえば、窓の向こうの校庭からかすかに、ぴーぴーと笛の音が聞こえる。


「俺も一時間目から数学とかだるいからサボりに来たんだよ」

「お、せんぱいもサボりですか。じゃあおあいこですね」

「おあいこって?」

「お互いの仮病をバラすなってことです。まさか本気で体調悪いわけじゃないですよね?」

「……ああ、それはわかってるよ」


 すると、新条は俺が寝そべっているベッドに腰かけて、文庫本らしきものを俺の身体の上(正確には掛布団の上)にのせた。


「それにしても、普通数学の授業でサボりますかね。体育は身体動かさなくちゃいけないですけど、数学だったらただ席に座ってぼーっとしてればその内終わるじゃないですか。せんぱいってホント変な人ですよねー」

「なあ、なんなんだこの本は」


 俺のふとももの付け根あたりにのっかっている文庫本を見ながら言った。


「ああ、ただ時間が経つの待ってるのも暇なので、その間に読書でもしようと思って、持ってきたんですよ」

「え、お前って読書とかするの?」

「あれ、言ってませんでしたっけ」


 新条の目が一瞬だけ丸くなる。が、すぐに戻る。


「わたし読書が大好きなんですよ。特に小説が。あれです、文学少女ってやつです。かわいいでしょ?」


 新条は自分の胸に手を当てて、ウインクをして得意気に言った。


「いや、別にかわいくはないけど」


 文学少女といったら、胸にハードカバーの本を三冊ほど抱えていて、三つ編みで眼鏡で、いつも伏し目がちな女の子、という漠然としたイメージしかない。いわゆる地味っ娘だ。俺の好みではない。新条からはそんな地味な雰囲気はないけれど。


 三つ編みで眼鏡。


 小学生のころ。


 ――あーあ。


「はぁ~? せんぱい何様なんですか? 腕ねじ切りますよ?」


 新条が有言実行して掛布団の中に手を入れて本当に俺の腕をねじ切ろうとしてきた。両手で無理やり関節を一回転させようとしてくる。


「痛い痛い痛い痛い」

「ほら、せんぱい。読書好きな後輩はかわいいな~って、言ってくださいよ」

「読書好きな後輩はかわいいなぁ!」

「ふふふ、よろしい」


 すると、後輩は俺の腕から手を離して、掛布団の中から手を抜いた。俺も掛布団から腕を抜いてみると、腕の大部分が赤く変色していた。力を入れすぎだ。


「いってえ……。お前力入れすぎだろ」

「女の子に向かってかわいくないとか言うのが悪いんですよ。もしわたし以外の女の子に向かってそんなこと言ってたら、その場で腕を切り落とされててもおかしくないですからね。むしろこのくらいで勘弁してあげたわたしに感謝してほしいくらいです」

「…………」


 それはいくらなんでも横暴というものだろう。俺のイメージする文学少女は絶対にこんなことはしないし、そんなことは言わない。


 新条は本当に文学少女なのか。


「……でも、小説って言っても、お前が読んでるのはどうせライトノベルなんだろ?」

「なっ……。今日のせんぱいは底抜けに失礼ですね。ライトノベルなわけないじゃないですか。わたしが読んでるのは折り目正しいきちんとした小説ですよ」


 本当だろうか。勝手な想像だけれど、新条には、魔法のアイランド文庫とか読んでいそうな雰囲気がある。


「じゃあ、ちょっとそこの小説、どんなのか俺にみせてくれよ」

「ええ、別にいいですよ」


 言って、新条は仰向けになっている俺にその文庫本を差し出した。

 その文庫本は、紙のブックカバーに包まれているので、表紙を見るだけではタイトルや作者名を知ることはできない。見開き一ページ目を開いて、タイトルを確認する。


「流血と肉片の青春。芦名夏希」


 なにやら興味深いというか、好奇心を掻き立てられるタイトルだった。いったいどうしたら、青春に流血と肉片が出てくるのだろう。流血と肉片の物語に、どうのようにして青春要素が絡み合ってくるのだろう。青春小説において流血と肉片が出てくる場面とは、いったいどのようなものなのだろう。ここまで、特に普段小説を読まない非読書人であるところの俺の興味をひかせるとは、この本のタイトルはよくできているのだろう。


 ただ、本のタイトルは良いのだけれど、こんなタイトルの小説、漠然と想像する限りグロテスクな描写が多そうな小説を、なぜそんなこととは無縁そうな、のほほんとした普通の女子高生である新条が読んでいるのだろうか。


 頭の悪そうな恋愛もののライトノベルという俺のイメージとは、この小説は全くの別ベクトルだ。


「……これ、おもしろいのか?」

「うーん、まあぼちぼちってところですかねー。」


 ぼちぼち。少なくとも、つまらなくはないらしい。


 新条は流血と肉片の物語をつまらないとは思わないらしい。


「文章が綺麗だし、展開も綺麗にまとまってるし。わたしは綺麗なものが好きなので」


 そういえば新条は、俺と同じ美化委員会に所属している。俺はただなんとなく余っている枠に適当にねじ込んで美化委員になったのだけれど、新条の場合は、綺麗好きであるという確固とした理由があったのだろうか。


 新条は綺麗好き、か。


「う~、なんか最近地味に寒くないですか?」


 両手で自分の二の腕をそれぞれ掴んで、それをすりすりと擦って寒そうにする新条。


「……てか、せんぱいだけベッドに入ってるのずるくないですか? わたしも入れてくださいよ」

「は?」


 さっきから、新条はイライラしているように見える。俺が、文学少女なんて別にかわいくないと言ったあたりから、ずっと新条は頭に血が上っているように見える。


 新条は立ち上がって、ベッドをまわり込んで横たわっている俺の背中側に移動して、あろうことかベッドの中に身体を入れてきた。


「せんぱい、もうちょっとあっち寄ってくださいよ。狭くて入れないので」


 もぞもぞと衣擦れの音が響いて、そして俺の背中に新条の手の感触が伝わってくる。


「あの、なにをしていらっしゃる?」

「だから、身体が入りきらないから、せんぱいはもうちょっと右に寄ってくださいって、そう言っているんですよ」


 そういうことを訊いているんじゃない。


「ごめんな新条。このベッド、一人用なんだ」

「そんなスネ夫みたいなあしらい方されても諦めませんよ。わたしはのび太くんじゃないので」


 ついに俺は観念して、身体をベッドの中心から少し右寄りの位置に動かした。


「そうそう、それでいいんですよ。……よいしょっと。ふー、せんぱいの体温あったけー」


 俺は長いこと布団の中にいたから、今の布団の中は俺の体温によって温められた空気に満ちているけれど……。新条と体温を共有していることがなぜこんなにも俺の心を逆立たせるのだろう。


「あー、このまま一日中寝ていたくなりますねー。せんぱいもそう思いますよねー?」

「……あのー、なぜ君は俺の足に足を絡ませてくるの?」


 新条は布団のなかでもぞもぞと足を動かして、新条の足は俺の足の自由を奪うようにして巻き付いている。新条の、この寒空によって冷えているタイツ越しの足が、俺の足に絡みついている。お互いの足の体温が交換されている。


「先輩の足があったかいので」

「……できればやめてもらえると助かるなぁ」


 だんだんと心拍が早くなってきている。さっきから、頭のてっぺんから足の指の先までを電撃のごとく走る悪寒がひっきりなしにいくつも走っている。身体全体が強張って、手の指先が震えている。だから、できれば、いやできなくても早急に身体を密着させるのをやめてほしい。


「あれ、せんぱいもしかして照れちゃってます? さっきはかわいくないとか言ってたくせに、照れちゃってます?」


 半笑いの声が後ろから聞こえてくる。うっすらと後頭部に新条の生あたたかい息がかかる。


 新条に背を向けているから今新条がどんな表情をしているのか俺にはわからないが、その声から、新条の子供のようないたずらっぽい笑みが容易に想像できる。


「……別に照れてない」

「照れてますよね? その言い方は絶対に照れてますよね? あっはっは~、せんぱーい、年下の後輩に欲情しちゃっていいんですか~?」


 言いながら、後輩は絡みつけた足を上下に動かして、俺の足と新条の足をすりすりこすり合わせてきた。はじめは冷えていた新条の足は、だんだんと生々しい体温を取り戻しつつある。


「あんまり調子に乗るなよ。俺だって、その、男なんだから」

「あは。せんぱいに後輩を襲えるほどの甲斐性があるんですか~? ないですよね~?」

「はぁ? あまり先輩のことを舐めるな。それくらいあ」

「ないですよねぇ? あったら殺しますよ?」


 急に、新条の声のトーンが氷点下まで落ちた。殺すというのが冗談に聞こえないほど、その声は冷え切っていた。


「あ、あるわけないっすよーはははは」

「ですよねぇ~」


 その間にも、新条は休むことなく足の上下運動を続けている。時折、新条の膝が俺のあれにあたってあれがあれであれになりそうでマジやばい。


「……ん。あれ、なんか硬いものが……」


 新条が言いかけたその瞬間、がらがらと保健室の扉が開く音がした。ベッドの仕切りのカーテンは新条が開け放ってからそのままになっていたので、保健室の扉を開けた人物と俺は目が合ってしまった。


「……あんたたち、なにしてんの?」


 保健室の主だった。


「えっとー……」

「あ、先生! おはようございます! いやー、今日もいい天気ですね!」


 そう、爽やかに快活に言った新条の精神のあまりの図太さに、俺は言葉を失ってしまった。保健室の主も同く言葉を失ってしまったようだった。


「…………」

「ベッド使わせてもらってます! 先生には一切迷惑かけませんので、どうぞお気になさらず!」


 よくまだそのノリを続ける気になるな……。


 すると、女性の養護教諭は、腕を組んだままふぅっと息を吐いて、言った。


「……今すぐ出ていきなさい。他の先生には黙っててあげるから」

「はい! わかりました!」

「……うっす」


 新条は百パーセント作り物の快活さで返事をし、俺はいたたまれない気持ちで返事をした。


 もしここに新条が現れていなかったら、もし、こうして男女がひとつのベッドに入っているという状況を目撃されていなかったら、俺は今日一日丸々サボることができていたかもしれないのに。もしここに俺一人しかいなかったら、養護教諭が現れても、適当に仮病を訴えてそのままサボることができたかもしれないのに。


「……あー、ちょっと待って」


 言うと、養護教諭は俺たちのベッドに近づいてきて、そして掛布団を勢いよく引っぺがした。


 俺と新条の足の絡みつきが、養護教諭の視線にさらされる。


「ふーん……まあいいや。ほら、早く出てって出てって」


 養護教諭はベッドから視線を外して、しっしっと手を振るジェスチャーをして、気だるそうに言った。新条はあっさりと足の絡みをほどいて、ベッドから降りた。俺も少し遅れて、ベッドから降りる。


「どうせ体調不良ってわけじゃあないんでしょう? なら、二時間目からちゃんと授業受けてきなさい。ほら、今ちょうど休み時間になったから、教室戻っといで」

「はい」

「はあ」


 俺と新条は横並びで保健室を出て、そしてほぼ同時に、二人ともため息を吐いた。


「お前のせいだぞ」

「せんぱいのせいですよ」


 それだけ言い残して、俺たちはお互いに全く逆方向へと歩き出した。


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