7 謎

「おはよう少年。……あれ、昨日よりも一層覇気がないね。もはや死人の顔みたいになってるよ」


 俺が朝の教室で頬杖をついてぼんやりと窓の向こうを眺めていると、前の席の佐倉が俺を死人扱いしてきた。


 死人。


 本物の死人は――西川は、幼馴染は、今の俺のような表情をしていたんだろうか。


 ……いや、しているはずがない。


「俺はまだ死んでない」

「なはは、冗談だよ」


 佐倉は至って普通に、普段通りに、いつも通りの笑みをこぼした。佐倉には普段と今日で、特段なにかが変わった様子は見られない。


 佐倉に限らず、この教室、クラスメイトの三分の二くらいの人数が既に集まっているこの教室全体を見渡しても、誰にも普段と変わった様子は見られなかった。いつも明るい表情をしている奴はいつも通りに明るい表情をしているし、いつも暗い雰囲気を纏っている奴はいつも通りに暗い雰囲気を纏っている。


 俺だけが、俺だけしか、この教室には平素とは違う心境でいる奴はいないらしい。


「そういえば、今日のニュースは見たかい? うちの高校の名前が出てたんだけど」

「…………」


 知っていたのか、佐倉も。


 この高校から死人がでたということを知っていながら、佐倉は平静を保っていられるのか。いつもと同じように笑っていられるのか。佐倉がこの様子ならば、というかテレビのニュースで大々的に報じられたのだから、佐倉以外の他の生徒連中もそのことを知ってるのだろう。そして佐倉と同様に、他の生徒たちもそのことを知っていながら平静を保っているのだろう。


 大したものだ。


「なに、急に目を逸らしちゃって。どうしたんだい?」

「……いや、なんでもない。殺人事件だろ? 俺も見たよ」


 ニュースで報道された殺人事件。


 俺としばらく疎遠になっていた西川美香。俺と何年振りかの再開を果たしたその日の夜に、何者かに心臓を銃弾で打ち抜かれ、死亡した。


 ただ、これは俺にとっての殺人事件のあらましであって、佐倉やその他大勢にとってはこの事件はそこまでの意味を持たない。佐倉やその他大勢からしてみれば、この事件は、同じ学校に属する誰かが、なんだかよくわからない凶悪な人に銃で殺された、という意味しか持たない。


「なんだ、知ってたんじゃないか。…………あー。もしかして、あの被害者の人は、キミの知り合いだったりする?」


 控えめに、小声で、なぜか少し申し訳なさそうに、佐倉は言った。


 今日の俺は表情に気を遣っていなさすぎたようだ。


 全く、頭の回転が速い奴だ、佐倉は。


「……別に、そんなんじゃない」


 嘘を吐いた。


「そう? 本当に?」

「本当に」

「ならいいんだけどさ」


 すると、佐倉の目からは俺のことを心配するような不安げな雰囲気は消失し、佐倉は足をぱたぱたと振り始めた。多分、今までの経験からすれば、佐倉は俺が今嘘を吐いたことに気付いているのだろうが、それ以上俺を追及するつもりはないようだった。


「でも、物騒になったものだよね。まさか、自分が住んでいる地域で殺人事件が起こる日が来るとは夢にも思っていなかったよ」

「あー、そうだなぁ……」


 幼馴染がこの近くで殺されて、そして犯人は未だ捕まっていないということは、つまり俺もその犯人の標的となる可能性が少なからずあるということだ。殺人事件はもうテレビの中だけの話ではなくなった。そんなことはわかっている。すぐ近くで、俺のよく知る人が何者かに殺された。そんなことはわかっている。俺の幼馴染が銃弾で撃ちぬかれた。この近辺に住んでいるらしい犯人によって、幼馴染は銃弾一発で殺された。幼馴染は殺された。西川美香は殺された。この近辺に住む犯人が幼馴染を殺した。銃の引き金を引き、西川美香めがけて銃弾を飛ばし、そしてその一発で仕留めた。西川美香は銃によって殺された。凶悪な人殺しによって殺された。殺された。誰かが殺した。そう、殺したのだ。西川美香を殺した。誰かが、殺した。西川美香は何者かの手によって殺された。殺された。殺した。殺された。殺す。殺し、殺され、ころし、ころされ、殺す殺す。殺し殺す殺そ殺せ。殺した殺す殺せる殺したい殺せ殺せない殺し殺したくな。


「……どうしたんだい? 急に俯いて黙り込んだりして」


 無意識の内に閉じていた目を開き、俯いていた顔を上げると、佐倉が首を傾げて俺の顔を覗き込んでいた。その目には、さっき消失したはずの心配の色が宿っていた。


「……んあーいや、急に気分が悪くなっちゃって。今日はちょっと体調が悪いのかもしれない」

「そう言われてみると確かに顔色が悪いね」


 死人の顔のように見えるくらいなのだから顔色が悪いに決まっている。


 それに、さっきから下腹部に三トンの重りを抱えているような妙な違和感があるし、頭の中身の左半分がぺちゃんこに潰れてしまったかのような感覚もある。


 風邪でも引いたか? 今は季節の変わり目だし。


「えーっと、一時間目ってなんだったっけ?」

「確か、数Ⅱだったかな」


 数Ⅱか、だるいな……。


 ……サボるか。


「……体調悪いし保健室行ってくる」

「なんだ、サボりかい? キミも悪い奴だな~」


 佐倉はにやっとニヒルに笑って俺をからかってきた。だが、体調が悪いのは本当だ。俺は保健室に行く必要性があるから、これはサボりではない。


「サボりじゃないぞ。俺は体調が悪いから保健室に行くんだ。れっきとした口実がある」

「口実なんて言葉、サボるような人しか使わないんじゃないかな?」

「……そ、そんなことはないだろう」


 そんなことはあるだろう。


「なはは、まあいいよ。友人のよしみで見逃してあげよう。出席のときにはそれっぽい事情を伝えておいてあげるから、安心していいよ」

「おう、ありがとう」


 俺は席を立ちあがって、教室を出ることにした。持つべきものは悪友である。佐倉には今度なにかを奢ってやろう。


 廊下に出て、教室へと向かっている鞄を背負った生徒たちに逆行して階段を下り、保健室へと向かう。


 その途中の廊下。あと一階分階段を下りれば保健室のある一階にたどりつくというところの廊下で、俺は立ち止まった。立ち止まざるをえなかった。


「ねえ、雨宮くん」


 突然、音も気配もなく、誰かが俺の肩に手を置いた。いや、これは本当に人の手なのだろうか、と一瞬疑ってしまうほどその手は血が通っていないかのように冷たかったが、それでも五本の指が接触している感触があるし、同時に女性のものらしき人の声が聞こえてきたから、それはやはり人の手なのだろう。


 その手のあまりの冷たさに、俺の身体はびくっと跳ねて、そして俺は情けなく短い悲鳴を上げてしまった。


「うわぁ。びっくりしたなぁ。急に大きい声出さないでよ。心臓が止まりそうになっちゃったよ」


 その女性の声は、不思議な声だった。明るい印象も受けるし、そしてどこか暗い印象も受けるから、一言で明るい暗いと表現することができない。それどころか、声のトーンだとか、テンションだとか、そういうものが一切感じられない。声の起伏が、完璧なまでに直線。その声から女性の感情を推し量ることは全くできなかった。初めて聞く種類の、とても不思議な声。


「……ねえ、雨宮くん。わたしがわざわざ雨宮くんの肩に手を置いてまで呼び掛けてるんだからさ、さっさとこっちを向いてよ。それとも、雨宮くんが今見ている方向に、わたしよりも興味を惹かれるようななにかがあるの? そんなものあるはずないよね?」


 その言葉の内容は俺への怒りを表しているように聞こえるが、やはりその声のトーンは怒っている人のそれには聞こえなかった。


「雨宮くんわたしの声聞こえてる? もしかして今この瞬間突発的に鼓膜が破れたとか? そんなわけないよね?」


 とんとんとんとんと、もう四度俺の肩が叩かれる。やはりその手からはおよそ人が持っているはずの温もりが欠如していた。 


 あるいは、冷血なのか。


「おーい、いつまで身体を棒にしているつもりなのさー。あれか、焦らしプレイってやつ? でもわたしそういうのはあんまり好きじゃないなぁ。見ての通りせっかちだからさ」


 俺は覚悟を決めて、おそるおそる、その女性が立っているであろう後ろを振り向いた。


 するとそこには、至って普通の、あの不思議な声からは想像もつかないような(そもそもあの声からはなにも想像することができないが)、極々普通の、この学校の制服を着た女子高生がいた。


「お。やっとこっち向いてくれたね、雨宮くん」


 と言って、ショートボブの髪を揺らしながら、破顔一笑。


「あーっと…………あなたは誰ですか?」


 見た目は普通の女の子だったので、最低限の意思疎通なら可能だろうと、とりあえず素朴な疑問を口にしてみた。


「あれ、憶えてないの? それは悲しいなぁ……」

「え……」


 女の子はわかりやすくしゅんとして肩を落とした。


「わたしと雨宮くんは、それはそれは劇的な出会いをして、それはそれは印象的な二人の思い出をたくさん残したんだけどなぁ……。そっかぁ、わたしのこと憶えてないのかぁ……」


 女の子は俯いたまま、悲しそうなのかそうでないのかよくわからない声で、言った。


「あー、えーっと……ごめんなさい?」


 どうやら俺とこの女の子は過去にどこかで出会っているらしい。いや、出会ったどころか、俺はこの女の子と二人でそれはそれは印象的な思い出を残すほどの仲だったらしい。そうなると、これは俺の絶望的なまでに悪い記憶力が全面的に悪いだろうから、なんだかよくわからないけれどとりあえず謝っておいた。


 すると、女の子は胸の前で手を振って、「いやいや」と俺をとりなすように言った。


「別に謝らなくてもいいんだよ。見たところ、雨宮くんは昔よりも記憶力がとても悪くなってしまっているようだからね。それなら、わたしとのあれこれを忘れてしまっていても仕方がないね。雨宮くんが気にすることはないんだよ。人っていうのは日々変わっていく生き物だからね、何かを忘れてしまうことくらいはざらにあるさ」


 声の起伏が直線だから、淡々としゃべっているように聞こえる。だけれど無感情に聞こえるかと言ったらそうではなくて――不思議な声だ。


「それでも……、仕方がないんだけど、ねぇ。忘れてしまったなんて、寂しいよねぇ……」


 女の子は、廊下の窓の向こうの遠くを見つめながら、おそらくしみじみと言った。


「……あの、ご用件は?」


 この女の子が現れてから、俺たちが立っているこの廊下には人っ子一人通っていない。もしかしたらもう既に朝の予鈴が鳴る時間で、朝のホームルームのために教室へと向かう教師がここを通るかもしれない。そうなると、今からサボろうとしている身としては、結構面倒なことになってしまう。


「用件? それは、なんで雨宮くんに話しかけたのかってこと?」


 女の子はきょとんとして、質問に質問を返した。


「そうですね、はい」

「なんで雨宮くんに話しかけることにいちいち理由が必要なのかな?」


 女の子はきょとんとしたまま、こてんと首を傾げた。


「雨宮くんはいつからそんな冷酷でつまらなくてくだらない人間になってしまったの? いくら人は日々変化するといっても、そういう変化はよろしくないなぁ。わたしが雨宮くんに話しかけることにいちいち理由なんて必要ないでしょ? それでも理由が必要だって言うなら、そうだなぁ。強いて理由を挙げるとするなら、話しかけたくなったから話しかけた、ってところかな」


「そ、そうですね……ごめんなさい」


「いやぁ、別にあやまることないけどさぁ。わたしは少し幻滅しちゃったよ、雨宮くん。まさかそんな人格に変貌してしまっていたとはね。……まあでも、それも仕方がないか。あんなことがあったんだしね」


「あんなこと?」


「なんだ、雨宮くんわからないの? わたしたちの間で『あんなこと』って言ったら、あのことだよ。それが指し示すことなんてひとつしかないでしょ?」


「え、いや、そんなこと言われても、わからないですよ」


 なんだか地に足がついていないような感覚になってきた。頭がぼーっとして、今自分がどこにいるのかわからなくなってきて、自分という存在の輪郭がおぼろげになっていく。


「まさかそれも忘れてしまったって言うの? ははは、もうここまで来ると傑作だね。笑えてくるよ。そこまで記憶を失っているなんて、雨宮くんは誰かに脳をそぎ落とされたりでもしたのかな?」


「そんなグロテスクなことをされていたら、もう俺は死んじゃってますよ」


「はは、真に受けないでよ、本気で言ってるわけないじゃん。比喩だし冗談だよ」


「そうですよね。俺の脳の肉なんて食べても頭が良くなったりはしないし、むしろ頭が悪くなってしまいますからね」


 気が付くと、俺の周りの景色は真っ黒に染まっていた。世界が真っ黒に染まっていて、黒以外の色を持っているのは目の前の女の子だけだった。俺は廊下に立ってこの人と向かいあっていたはずなのに、そこには廊下のクリーム色の床はなくて、白くて所々塗装が剥がれている壁もなくて、窓の向こうの青空もなかった。俺の周りはどこまでも黒が広がっているだけだった。


「それは、頭の良い人の垢を煎じて飲むと頭が良くなる、みたいな話をしているのかな? まぁ、雨宮くんってあんまり頭が良くないから、雨宮くん脳の肉を食べたところで、頭が良くなったりはしないだろうね。でも、どうなんだろう。頭の良い人の脳の肉を食べたら、本当に頭が良くなったりするのかな。なんだか、古代文明の人の考え方みたいだけれど」


「でも、本当に頭が良くなったら面白いですよね。東大に受かりたかったら、東大生を殺してその脳を抉りだして、それからそれを口に運べばいいんだから。それで、暗記パンみたいにおもしろおかしく頭の中に知識が入ってきたら、この世の中はもっと簡単になりますよ」


「ははは。雨宮くんは人を殺すことにあまり抵抗がないんだね。そこは変わってないんだ。東大に受かるためだけに人を殺す、うん、やっぱりキミはわたしの知ってる雨宮くんなんだね。でも、今日みたいな日には、体調を崩してしまうほど心に衝撃を受ける。そこも変わってないんだ。雨宮くんのそういうところは、やっぱりわたしにはどうしても理解できないんだけれど」


「別に、理解なんて……しなくても、いいんじゃないですか。……どうせ、俺みたいな人格の奴は……いつも、ふが」


「ん、あれ」


 気が付いたときには、俺の膝はかくんと曲がっており、俺はその勢いを殺すことができないまま、眼下に広がる真っ黒に向かって倒れ込んでしまった。そして、瞼が鉛のように重くなる。


「ころ……す……」


「あーあ。また無意識に催眠しちゃってたか。……まあいいか。これも仕方ない。よっこいしょっと」


 これほどまでに気合の入っていない『よっこいしょっと』が果たしてこの世に存在するだろうか、いや、しない。


 そんなくだらないことを考えていたら、俺は意識をどこかに落としてきてしまっていたことに気が付かなかった。




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