5 一日の終わり

「ただいまー……、え?」


 家の玄関の扉を開けると、そこには半裸の女の子がいた。


 ピンク色の下着が、上半身と下半身にひとつずつ。それ以外の衣服を身に着けていない。その白い肌を晒しながら、手を腰にあてて、余裕そうにぐびぐびと牛乳を飲んでいる。


「おかえりー、にーちゃん」


 その女の子は、俺という異性にあられもない姿を見られているというのに、全く恥じらう様子を見せず、俺を一瞥して牛乳をごくりと飲み込んでから、気の抜けた声で言った。


 ……まあ、妹だから、俺に下着姿を見られたところで恥じらうはずがないのだけれど。


「お前、服くらいちゃんと着ろよ……」

「別にいーじゃん。家んなかくらい好きにさせてよ」

「いや、目のやり場に困るというか……」

「は?」


 目を丸くして口を間抜けにぽかんと開けて、きょとんとする妹。下着姿の女の子が全く恥じらいもせずそういう表情をしていると、なんだかちぐはぐな印象を受ける。


 俺が三和土から上がると、妹の丸くなっていた目は冷酷な蔑視に変わり、キッと俺を睨んだ。


「にーちゃんまさか妹に欲情してんの? うわ、きっしょー」

「ぐ……。いや、そんなわけないだろ」


 いくら妹とはいえ、同年代の女の子から「きっしょー」とか言われたら、心に思いっきり槍をぶっさされたように傷ついてしまう。傷程度では済まないほどに傷ついてしまう。心から血が噴き出てしまう。


「下着で家の中を歩き回るって、やってることおっさんと同じだぞ。いいのかそれで」

「家んなかだったら別におっさんと同じでもいいでしょー。女の子には肩の力抜きたいときがあんのー。彼女いない歴=年齢のにーちゃんにはわかんないかもしんないけどさー」


 吐き捨てるように俺を貶し、牛乳に口をつけたまま妹はリビングへと入って行った。あのままソファにどかっと寝転んでだらだらとテレビでも眺めるんだろうか。まんまおっさんじゃないか。


 ふぅっと嘆息してから、俺は二階へと続く階段を昇り、自分の部屋へと向かう。


 ああいう女の兄弟がいると、どうしても女の子に対して幻想を持つことができなくなってしまう。妹は家のなかではあんな風でも、外ではあの五億倍くらい女の子らしくて清潔感がある。その妹の家と外での落差を知ってしまうと、妹に限らず、他の女の子にもそれがあてはまるのではないかと勘繰ってしまう。外では恥じらいも品位も清潔感もある女の子でも、家のなかでは妹のように自堕落にだらしなく、さながら仕事で疲れ果てて気力を根こそぎ奪われてしまったおっさんのような振る舞いをしているのではないかと、おそらく事実なのであろうことを考えずにはいられないのだ。普通の男子高校生が妄想するような、ふわふわもこもこのパジャマを萌え袖で着ていて、しっとりと湿った髪からはほんのりとシャンプーの香りがする風呂上りの女子、というような幻想は、俺のなかではあの妹に打ち砕かれてしまう。実際には下着オンリーで豪快に牛乳を飲んでいるのだという現実を無情にもつきつけられてしまう。萌え袖もシャンプーの香りも庇護欲をくすぐる眠そうな表情もないのだということをつきつけられてしまう。


 全く罪深い妹を持ってっしまったものだ、と心中で呟いて、俺は自分の部屋に入ってからバッグをそこら辺に放り投げ、ベッドにぼふっと飛び込んだ。


「疲れたな……」


 俺の理解者のひとりである枕に向かって、言った。


 今日は疲れた。なぜならいつもとは違うことをしたから。


 今日は人と会話しすぎた。それも女子ばかりと。


 登校中の幼馴染から始まり、佐倉に、新条に、神崎先輩。ざっと四人か。簡単な受け答えを含めればもちろん四人では到底済まされないが、それでもちゃんと会話したのは四人。


 佐倉は席も近いから普段から日常的に話しているとしても、新条や神崎先輩は、日常的に話す機会がそこまであるわけではない。たまたま校内でばったり遭遇したときとか、今日の新条のようになにか用事があるときでないと、会話したりしない。会話するためだけにわざわざ二人で集まるなんてことはない。それが今日、たまたま新条とも神崎先輩とも会って、話した。それに、なぜか今日に限って、数年ぶりに幼馴染と再会した。そういう偶然に偶然が重なりあって、一日に四人もの女子と二人きりで話すという、非モテの俺にはほとんどありえないはずのことが起きた。


 なぜか今日は、俺の女子の知り合いたちが、まるで何かの引力に引っ張れるようにして、俺の目の前に現れた。


 ただの偶然だろうか。ただただ、今日の俺が低確率を引き当てただけだろうか。


 ……あるいは、何かの予兆。


 …………何の予兆だ?


「…………ん?」


 すると、瞬間、パン、と何かが破裂したような音が窓の向こうから聞こえてきた。ちょうど、今日の昼に新条と撃ったエアガンの銃声を、そのまま肥大化させたような音だった。


 俺はうつ伏せになっていた身体を起こして、すっかり闇に支配された外の様子を窓を覗いて窺ってみた。


「なんもない、な」


 誰かが近くの公園で打ち上げ花火を上げたりしているのだろうか。いやでも、市販の打ち上げ花火だとか、そんな程度の低い、ある種かわいらしいタイプの破裂音ではなかったような……。じゃあ、近所のヤンキーどもが爆竹で遊んでいるのだろうか。それならありえそうだ。そうだ、確かにあれは爆竹の音だった。考えてみれば、あれは爆竹の音にしか聞こえなかった。


 それにしても、ヤンキーどもは、爆竹なんかで遊んで何が楽しいのだろうか。光って破裂するだけの代物を眺めていて、何が楽しいのだろうか。俺には皆目理解ができない。


 まあ、それを理解できなくても、なんら困ることなどないのだけれど。


「……俺も風呂入るか」


 うずたかく蓄積した疲労を取っ払うためには、こうしてだらだらとうつ伏せで寝っ転がっているよりも、風呂でさっぱりしてきたほうが手っ取り早いだろう。


 俺はベッドから降りて、自室から廊下に出た。すると、ちょうど自分の部屋に入ろうとしている妹がそこにいた。相変わらずの下着姿だった。俺が扉を開けた音に反応したのか、妹は「ん」と俺を横目で見て、


「にーちゃん、今から風呂入んの?」

「おう」

「そっか」


 と言って、部屋に入って行った。


 ……今の会話、必要か?


 いや、家族同士の会話に、必要不要を唱えるなんてのは野暮か。不要な会話でも、会話が一切無いよりは断然いい。


 そんな、それ自体が野暮なことを考えながら、俺は階段を下りて、風呂に向かった。


 途中で、とてつもなく大切で重要で重大な何かを自室に忘れてきてしまったような、妙で嫌な寒気がしたが、俺は踵を返すことなく歩を進めた。

 

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