4 先輩

「よっす、後輩。元気してる?」


 昼前から現れた雨雲により、薄暗くて陰鬱な雰囲気が漂っている廊下を歩いている途中、何者かに後ろからばしーんと強めに肩を叩かれた。


「……神崎かんざき先輩っすか」


 軽く肩をさすりながら後ろを振り向くと、そこには神崎先輩がにやにやといたずらっぽい笑みを浮かべて立っていた。


 神崎かんざき真姫まき。俺の唯一の三年生の知り合いであり、なぜかなにかと俺のような特徴のない平々凡々な男子につっかかってくる謎の女子高生。


 謎の、というのは、俺個人がそう思っているだけで、神崎先輩は多くの人に謎多き人として認知されているわけではない。むしろ、神崎先輩のことを謎の多いミステリアスな女性だと認知しているのは、世界中で俺ひとりくらいのものだろう。


 というのも、俺は神崎先輩がなぜこうも俺につっかかってくるようになったのか、そのきっかけを憶えていないからだ。


 新条に関しては、多分、俺の所属する美化委員の集まりのときに出会って、そこで俺が新条の頼み事をひとつ聞いてやったら、それから新条が良いカモを見つけたとばかりに次々と俺に面倒ごとを持ってくるようになった、というのがきっかけだったような気がする。それが俺と新条の関係の始まりだったような気がする。


 だが、神崎先輩に関しては、最初にどこで知り合ったのかも、どのような過程を経て今のような関係性になったのかも、なにもかもが思い出せない。謎が多いというより、謎しかない。


 俺の記憶力はどこまで悪いのだろうか。


「相変わらず覇気がないなー。男子高校生ならもっと元気出しなよー。精力枯れてんの?」

「枯れてないっすよ。まだまだ全然現役っすよ」

「あっはは。なんかキモいね」


 軽く笑い飛ばされてしまった。


「雨宮くん、今帰りでしょ? 先輩と一緒に帰ろーよ」

「はあ、まあ、そうっすね。帰りますか」

「……ねえ雨宮くん。こういうときはね、『はいよろこんでご一緒させていただきます! いやー、先輩は美人さんだから、そんな先輩と一緒に帰れるなんて俺めっちゃ嬉しいっすよ! さあ、早く行きましょう! 先輩!』って言ってあたしの手を握るべきなんだよ。わかる?」

「はあ、よくわかんないっす」


 俺がそう言うと、神崎先輩はわざとらしくため息をついた。


「はあーあ。本当に全くどうしようもないよね、雨宮くんは」


 どちらがよりどうしようもないことを言っているのかはさておいて。


 神崎先輩は拗ねたように唇を尖らせて先へと歩いて行ってしまう。だが、一緒に帰るにしてもどうせ下駄箱で一度別れることになるので、俺は神崎先輩を追うことはしなかった。


「……おいおい後輩! かわいい先輩が拗ねてたらすかさず駆け寄って宥めるべきだろー!」


 神崎先輩は前を向いたまま、つまり後ろを歩いている俺を見ずに、意味不明な指摘を大声で言い放った。幸いにも廊下には俺と神崎先輩以外に人はいなかった。


 神崎先輩はいつも、俺に対してこういう面倒くさくて厄介な絡み方をしてくる。俺としては別にそこまで不快なわけではないが、神崎先輩とのこういう会話を面倒だと思っていることは確かだ。


「……え、神崎先輩拗ねてたんすか?」


 精一杯の超絶嘘くさいおとぼけをかます。


「そんなにあたしが面倒くさいかね、後輩よ」


 そんな俺のおとぼけはさすがに嘘だと見透かせるらしく、なぜか老人のような口調で、声質も老人に寄せて、神崎先輩は俺を振り返って言った。


「ちっとも面倒くさくなんかないっすよーはははは」


 世界一乾いた笑いを飛ばして、俺は言った。


「……それ、面倒くさいって言ってるのと同じだよ?」


 神崎先輩は怪訝そうな顔で俺を睨んでいた。


「……それ、神崎先輩も自分が面倒くさいってわかってるって言っているのと同じっすよ」

「だってわかってるし」


 自分で自覚しているのなら、なぜわざわざ自分の評価がマイナスに向かうようなことをするのか。


「こんなことをするのは雨宮くんだけだから、あたしがみんなに嫌われるとかそういうのはないから」

「じゃあなんで俺にだけそんなことをするんですか」

「雨宮くんなら、この程度のことであたしの評価を下げたりはしないでしょ?」

「いや、まあ、それはそうっすけど……」


 俺は、そもそも人に対して嫌な奴だとか良い奴だとかそういう評価をはなからしない。いちいち評価をつけるほど他人に興味がないし、俺は勝手に他人を評価できるほど大した人間ではないことを自覚している。


「別にいいじゃん。後輩にくらい甘えさせてよ」

「普通は逆だと思うんすけどね……」

「年上が年下に甘えてはいけない法律はどこにもないでしょ?」


 レベルの低い屁理屈だった。


 いつの間にか神崎先輩の口は、拗ねたようなそれから子供がいたずらを策謀するときのようなにやけたそれに変わっていた。神崎先輩は表情がころころ変わる。そして多分感情もころころ変わっている。


「まあまあいいじゃない。こうやって面倒くさい女の子の扱い方を学んでおいたら、いつかそれが役に立つ場面が来るかもしれないでしょ? つまりあたしが雨宮くんに甘えてるのは、一周回って雨宮くんのためを思っての行動なんだよ」

「ほー、そーっすか。神崎先輩はすごいっすねー」

「うわめっちゃ嘘っぽい」

「嘘なわけないじゃないっすかー。やめてくださいよー」

「うわもっと嘘っぽい」


 と、そんな会話を交わしていたら、いつの間にか俺たちは下駄箱までたどり着いていた。そこで一旦神崎先輩と別れて、そして靴を履き替え、また神崎先輩と合流した。


 そして傘をさしてから、校門までの道のりを歩いている途中。


「…………あ」


 今朝出会った幼馴染が、校門を出ていくのが見えた。


 今日は、俺はホームルームが終わってからすぐに教室を出ず、教室内で適当に佐倉と駄弁りながらスマホをいじってだらだらと過ごしていた。つまり今、校舎内には部活やら委員会やら生徒会やらの何かの用事がある人しか残っていないほど、もう放課後になってから時間が経っているから、いつも自分に甘くだらだらしていそうな神崎先輩ならまだしも、俺の記憶の中の真面目な幼馴染ならばもうとっくに学校を出ているはずなのだけれど、幼馴染は今、俺の視界の中で校門を通った。


 幼馴染は、ハーフアップの長めの黒髪をなびかせて、少し物憂げな表情で、早足で校門を通って行った。


「ん。なに、どしたの?」 


 神崎先輩が俺の顔を覗き込みながら訊いてきた。


「あ、いや、知り合いがいたんで」

「知り合いがいたんなら、声かけたほうがいいじゃない?」

「いや、声をかけるほどの知り合いじゃないんで」

「なにそれ。雨宮くんってたまになんか変だよねー」


 俺と幼馴染が、出会ったら声をかけるほどの関係であるかは微妙なところだけれど、俺は、本当は、関係値の問題で幼馴染に声をかけられなかったのではなかった。


 幼馴染の表情。あの、物憂げな表情。


 いや、物憂げな、と一言で描写してしまえるほど、彼女の表情は単純なつくりではなかった。確かに物憂げではあるけれど、しかし物憂げなばかりではなく、彼女の表情は焦っているようにもみえたし、今にも泣きそうにもみえたし、何かに怒っているようにもみえたし、そして絶望したような表情にもみえた。少なくとも、あの表情からプラスの感情を読み取ることはできなかった。


 あんな幼馴染の表情は、俺の記憶の中にはない。あんな表情、何か特別なこと、いや、何かとんでもないことが起きない限りは、控えめだけれど基本的には明るい性格の幼馴染が、するはずがない。


 ……俺の勝手な決めつけだろうか。


「そういえば、最近知ったことなんだけどさ、本物の銃って、意外と簡単に買えるらしいよ」

「え?」

「本物の銃って、意外と簡単に買えるらしいよ」


 神崎先輩は得意気に言った。


 幼馴染のことを考えていた頭の中に、突然「本物の銃」と物騒な言葉が入り込んできて、俺は一瞬困惑してしまった。


「本物の銃、ですか」


 今日は、新条からも銃を拾ったと相談を受けたし、先輩もなぜか急に銃の話題を出してくるし、なにかと銃に縁がある日のようだ。最後には銃で撃たれたりするんだろうか。


「そうそう。割と簡単に、誰でも裏ルートで取引できるらしいよ。それこそ、あたしたちみたいななんにも裏社会とつながりがないただの高校生でも、ちょっとした手順を踏むだけで簡単に本物の銃が手に入っちゃうんだってー」

「そうなんすか。物騒っすね」

「お、なんだ。興味なさそうだね」

「いや、まあ、別に、本物の銃を手に入れたところで、何もすることなんてないっすからね」

「そんなことはないでしょーよ」


 すると、神崎先輩は、にやり、と嫌な感じに微笑んだ。


「雨宮くんは、人を殺したいとか、思ったりしないの?」

「……思わないっすよ、そんなこと」


 またか。


 新条も、今の神崎先輩と同じようににやにやと笑いながら、愉快そうな様子で人殺しの話題を振ってきた。なんだ、今時の女子高生たちは皆、殺したいと思う人が一定数いることがステータスなのか。


 ……そんなわけないか。


「ホントに? そんなことがあり得るかな?」


 殺したい人間がいないわけないだろ、とでも言いたげな物言いだった。


「……思ったとしても、その人を先輩に教えたりはしませんよ」

「あはは。信用ないなー。いや、信用とかの問題じゃないのかもね」

「……そうっすね」


 どれだけ信用している相手であっても、それほどまでに人間的に汚くて醜い思想を他者にひけらかすことはできないだろう。


 人間は所詮どこまでいっても孤独だ。


「まぁ、雨宮くんの殺したい人リストにあたしの名前がないことを祈るよ」

「神崎先輩の名前があるわけないじゃないですかー、やだなーはははは」

「うわめっちゃ嘘っぽい」


 もちろん冗談だ。


 嘘ではなく、本当に、神崎先輩の名前はない。


 冗談だよ、本当に。





 



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