2 同級生

 幼馴染とは下駄箱で別れて、俺は一人で廊下を歩き、既に開け放たれていた教室の扉をくぐり、自分の席へと向かった。


 自分の席に深く腰掛けて、ふぅっと息を吐く。


 やっとあの、身体が張り裂けそうなほど張り詰めた空気から脱却することができた。


 幼馴染との登校はあまりにも気まずすぎる。確か、小学生の頃は、あんな雰囲気になることなく、自然に、気を楽にして会話することができていた気がするのだけれど……。まあでも、小学生と高校生とじゃ、考え方も価値観も精神構造もなにもかもが違うから、その分関係性が様変わりしてしまう相手というのもいてもおかしくないのかもしれない。


 ……懐かしいな、小学生のころの幼馴染。


 名前こそ忘れてしまっていたけれど、俺は幼馴染のすべてを忘れてしまっていたわけではない。幼馴染との思い出や、たまたま記憶に残った何気ない一瞬とかは、脳内に映像としてちゃんと残っている。


 小学生のころの幼馴染は、控えめでおとなしめな女の子だった。少し乱暴な言い方をすれば、根暗。昼休みはいつも教室の隅っこで本を読んでいるような、三つ編みで眼鏡をかけた女の子だった。そして小学生の頃の俺は、休み時間のたびに校庭に出てドッヂボールをするような、比較的活発な男の子だった。


 そんな、一見すれば何の接点もなさそうな、そして卒業まで何も接点をもつことがなさそうな俺たちが、なぜ幼馴染と言える関係にまでなったのか。そこにどのようなきっかけがあったのか。


 それは……忘れてしまった。


 名前と同じく肝心なところは忘れてしまう俺である。


 多分、印象的な、決定的なきっかけがあったことで、俺たちは仲良くなったわけではなかったと思う。そんな、なにか劇的な出来事があったならば、さすがの俺でも覚えているはずだ。


 小学生の頃の俺たちは、いつの間にか、朝に挨拶を交わしてからその延長で朝礼までずっと雑談をしていたし、掃除の時間でもサボりがてら雑談をしていたし、校外学習の班決めではなんとなく同じ班に入っていたりした。


 だから、俺の小学生時代の記憶の映像には、幼馴染がかなりの頻度で映り込んでいる。


 そしてそれは幼馴染の方も同じなのだろう。だから、今朝、幼馴染は俺と目を合わせた途端に声を出した。


 だが、俺は咄嗟には声を出さなかった。出せなかった。なぜなら、幼馴染の見た目は小学生のころとはかなり変わってしまっていたから。


 小学生のときの幼馴染は、三つ編みに眼鏡の、いかにも委員長といった風情の女の子だった。実際に幼馴染が委員長を務めていたことは一度もなかったけれど。そして今朝、道でばったり会ったときの幼馴染は、髪型は三つ編みではなくハーフアップだったし、眼鏡はかけていなかったし、制服を着崩していた。髪型と眼鏡はともかく、幼馴染は制服を着崩したりするような不真面目な人ではなかったはずだけれど……、いやでも、制服を着崩すくらい、今時の女子高生ならば、たとえ真面目な人であっても普通に当然のようにすることなのかもしれない。


 といっても、俺から見た幼馴染の印象は、小学生のときとはずいぶんと変わったことは確かだ。


「おはよう少年。……あれ、なんか元気ないね。覇気がないよ」


 俺の前の席の佐倉が、身体を横に向けて、首を俺の方に向けていた。


「ん、別にそんなことはない」

「そんなことはないって言っても、目が死んだ魚の目みたいになってるよ?」

「それはいつものことだろ」

「なはは、そういえばそうだったね。確かにキミはいつも、そういう胡乱な目つきをしていたな」


 目を細めて、白い歯を見せて控えめに笑う佐倉。


 そういえば俺は、佐倉とこうして軽口をたたく仲になったきっかけさえも、忘れてしまっている。


 どこまで物忘れが激しいのだろうか、俺は。


 俺の前の席に座る彼女、佐倉さくらさき。やや中性的な口調で、そして身なりにしても身長が百七十五センチだから、やはり男っぽい部分がある。だが、彼女が男っぽいばかりであるかというとそうではなく、それ以外の部分は内面にしても女の子としての恥じらいや品位があったり、外面でいうのなら出るところがしっかり出ていたりと、女の子らしくなっている。中性的な女の子というのは、俺は今までの人生で佐倉一人しか出会ったことがないし、結構稀有なタイプの人間だろう。だからなんだという話だが。


 佐倉と俺は、今でこそこうしてひとつ前の席とひとつ後ろの席として丁度良い席におさまっているけれど、俺たちはこうして席が近くなる前でも、席替えをする前でも、俺たちはそれなりに仲が良かった気がする。


 はて、それで、俺はなぜ佐倉と親しくなったのだっけ……。


 ……やはり、全く全然これっぽっちも思い出せない。


 なにかがあったはずのきっかけを、思い出すことができない。


「……お前はさ、幼馴染とかっている?」


 思い出せないことはいくら頭をこねくり回したところで思い出せるようになるはずがないので、一旦そのことは頭の隅に投げ捨てて、他愛ない話題を佐倉に投げかけた。


「んー、それは、家が隣同士だったことから、お互いにものすごく小さいときから家族ぐるみの付き合いがある、とかそういうことかな?」

「いや、そこまで限定しなくてもいい。ほら、小学校から高校までずっと一緒の学校だった、とか、そんなんだよ」

「んー、それだったら、二人くらいいるなあ」


 二人。俺の場合は、俺の知る限りではあるが、小学校から高校までずっと一緒の学校だった、という人は今朝会ったあの幼馴染しかいない。


「お前は今その人と、どんな感じ?」

「どんな感じって?」

「お前とその人の関係性、っていうか、その人とお前の間にある空気感、みたいな」

「うーん、でも、その人たちとは高校に入ってから一回も話してないし、そもそも、学校が同じってだけで、小学校のころも中学校のころもその人たちと特別仲が良かったわけじゃないからなあ」

「……そうか」


 佐倉のその幼馴染は、なにやら奇縁じみたものによる力で今まで同じ学校だった、というだけなのだろう。そういう不思議な縁は、俺にも経験がある。学校で特別仲が良いわけではないのに、なぜか休日にばったり遭遇する機会が多い人とか、なぜか席替えで隣同士になる回数が多い人とか。


「なになに、もしかして今日キミに元気がないのは、突如として数年ぶりに美少女の幼馴染が現れて、それでその変化に戸惑っていたからとかなのかい?」

「なんでわかった?」

「お、おお。あたりなのか」


 にやにやと不敵な笑みを浮かべて訊いてきたのに、俺が答えると、予想外の答えが返ってきて驚いたのか、佐倉は目を丸くした。


 あの幼馴染が美少女なのかどうか、俺の今の精神状態は戸惑っていると言えるのか、そういう不確かな部分はあるけれど、大方は佐倉の言ったことであたりだ。


「本当になんとなくだよ。キミみたいな人間が突然幼馴染なんてワードを発したら、ちょっとは勘繰ってみたくもなるだろう」


 キミみたいな人間というのが、具体的にどういう人間のことを指すのか訊いてみたかったけれど、やっぱりどうでもいいと思いなおす。


「それで、その幼馴染っていうのは、どういう人なんだい?」

「幼馴染、ねぇ……」


 俺は両手を頭の後ろに回して、佐倉の言葉を適当に受け流す。いや、受け流すというにはいささか適当すぎるか。


 俺はあの人のことを、今まで名前がわからないから便宜上幼馴染と呼んでいたというだけで、実は幼馴染というほどには理解していないのだ。漫画やライトノベルに出てくるテンプレの幼馴染のように、それこそ家が隣同士で昔から家族ぐるみの付き合いがあり、二、三歳の頃から子供同士でも関わりがあった、とかだったならば、俺たちは自信を持って幼馴染という関係性であると断言できるのだが、実際はそうではない。俺たちは小学生になってから出会ったので、俺は彼女と外で遊んだことはおろか、そもそも学校の外で彼女と個人的に会うなんてことは一度もなかった。そういう薄い関係性だった。


 幼馴染というより、腐れ縁。いや、ただの昔の知人。


 考えてみれば、俺は彼女の小学生時代の姿を知っているという、ただそれだけなのだった。


 だが、だからといって、実は俺はほとんど彼女のことについて何も知らないからといって、せっかく久しぶりに言葉を交わした彼女と、また中学のときのようにだんだんと疎遠になって、以前までの曖昧でなあなあな関係に逆戻りさせていいものだろうか。


 それは、あまりにもったいないことだ。


「じゃあ、その幼馴染はかわいいかかわいくないかで言ったら、どっちなんだ?」

「見方によっては美少女に見えなくもないけど、特別アイドル級にかわいいとか、そんなんでは決してない」

「それはつまり、かわいいってことだ」

「……まあ、そうかもな」

「なはは、キミもつくづく素直じゃないね」

「つくづくって?」

「だって、キミはいつも素直じゃないだろう」

「いや、そんなことは……どうなんだろう」


 俺は素直に生きようと意識したこともなければ、素直じゃなく、天邪鬼に生きようと意識したこともない。


「キミは基本的に感情表現が苦手だろう? 基本の表情が完全なる無だし、いつも目に光が灯ってないし、声にも起伏がない。だからさっきも、素直に肯定することなく、曖昧に自分の言葉を濁したよね。キミは素直じゃないし、かといって天邪鬼でもない。なんとも形容しがたい無属性だ」

「いやあ、別に、そんなこと、ないだろ」


 苦笑いして佐倉から目を逸らしながら、俺は曖昧に答える。


 俺はなんとも形容しがたい無属性。感情や自分軸が無に近い、無きに等しいということか。


 ……なるほど、案外的を得ているかもしれない。


「勘違いしないでほしいんだけど、わたしは別にキミのことを責めてるわけじゃないんだよ。それは決して悪いことではないし、それはそれで、ひとつの多様性として認めるべきだからね」

「悪口だとは思ってないけどさ……」


 軸がぶれていて、自分の意見や感情や想いがもやもやとしていて輪郭がぼやけていて曖昧模糊としているから、そうやってふらふらと、ちょっと指先で押してしまえば簡単にすべてが崩壊してしまいそうな生き方をしているから、俺は記憶力が悪いのだろうか。


 ……いや、関係ないか。


 しかし、話が大きく派手に脱線してしまった。一体幼馴染の話はどこへ行ってしまったのだろう。


 佐倉と話していると、こういうことがよくある。いつの間にか、今まで話していた話題とはなんら関係がなさそうな話題に話がすり替わっていることがよくある。


 そして、そのすり替わったあとの話題は、大体いつも、こういう何かの真理をつくような話題なのだ。今の話題で言えば、佐倉は俺という人間の真理をついた。


 佐倉は、俺という人間と親しくありながら滅茶苦茶に頭が良いから、本当はこういうものの真理をつくような話題を延々としていたいのだろうか。本当は、俺が提供した幼馴染の話題は、佐倉にとってはひどく退屈なものだったのだろうか。


 ……考えても仕方がないか。


「キミは思春期の高校生であることを考慮したとしても、あまりに自分という存在が曖昧すぎるよ。ほら、もっと、自分で考えて発言するってことをしていかないと、将来誰かの傀儡として一生こき使われることになってしまうかもしれないよ」


「かいらい?」


 かいらいって、なんだ。聞いたことあるような、ないような。


「操り人形ってことだよ」

「……いや、操り人形って、それは大げさだろ」


 操り人形。自分の意見を持たない人間は、血の通っていない人形と同等。


「大げさじゃないよ。実際、ブラック企業の社員とかは、傀儡みたいなものじゃないかな」


 ブラック企業の社員。不当な労働環境に対して不平不満を言わず、毎日与えられたハードな仕事やスケジュールをこなしていく。確かに、穿った見方ではあるが、操り人形に見えるかもしれない。


 だが、それを言ったら、ブラック企業に限らずとも、あらゆる企業の社員たちは、上層部の傀儡ということになるのではないだろうか。


「そんなことはないよ。ブラック企業っていうのは、誰もその環境をおかしいって言って声をあげないからこそブラック企業たりえているんだよ。普通の企業だったら、おかしい環境にはたとえ平社員であってもおかしいって言うんじゃないかな。社会人の経験がないから詳しいことはわからないけど」


 おかしいことをおかしいと言わないのが傀儡。感情を持たない操り人形。


「だからさ、要は浮かんだ疑惑を浮かべたまま放置するなってことだよ。浮かんだ疑惑はちゃんと外に出す。そうすれば、誰かの傀儡になることはないし、いずれ自分の軸も見えてくるよ」

   

 何か説教じみたことを言われているけれど、俺は自分が同級生から説教をたれられるほどに劣悪な人間であることを自覚しているので、別になんとも思わない。


 それから、担任が教室に入ったところで、佐倉の説教は自然消滅的に終わった。


 教室の喧騒の中では、同級生から説教される覇気がない男子高校生という滑稽な構図はあまり目立たなかった、ということだけが、唯一の救いだった。



 



 

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