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「あー……日本はいいなぁ……」


 と、父は氷の入った麦茶片手かたて縁側えんがわに腰かけてしみじみとつぶやいた。夜風は生ぬるいが、風呂上りの身体からだ過度かどに冷やすことはなく冷たい麦茶のおいしさをより一層いっそう引き立てる。確かに日本以外ではこの心地良さはそうそう味わえまい。


「今回はどれくらい日本にいるの?」


 父より先に風呂ふろを済ませていた真希まきが同じく麦茶片手にそのとなりに腰掛ける。もうすっかりかわいた黒髪が風にたなびく。二人の話声以外にはもう家に物音はしない。二人で話をするからと母と日葵はるきは先に寝てもらい、杏奈あんなはあれ以降部屋から出てこなかった。


「しばらくは日本にいるぞ。一週間ほど休んだら次は北海道だ。シマフクロウをねらう。日本最大にしてアイヌでは神と呼ばれたふくろうだ!さぞや神々こうごうしい姿に違いない」


 実に楽し気に語る父の話をふーんと聞き流し真希は麦茶をくぴりとのどに流し込む。


 父に好きな仕事を続けてもらいたいのは真希も日葵も同じだが、日葵と違って真希は特別動物が好きなわけではない。


 動物より日葵の方が可愛い。


「……真希には苦労をかけるな」


「やめてよ。その台詞せりふはもう聞ききた」


 何度も、何度も。耳にタコができるほど聞いた。自分の好きな仕事のために、家をけがちな父のい目。


 何も気にすることはないというのに。背中を押したのは真希と日葵だ。


「そうか……。それで、最近どうだ?少しはれたか?」


「……………」


 くぴり。


「ま、それなりに。家事かじやらなくてよくなったから、ひまなぐらい」


「そうか……」


 しばし、遠くを走る車のタイヤが路面ろめんこする音とお隣さんの軒下のきしたられた風鈴ふうりんがちりんちりんと鳴る音がひびく。


「でも杏奈ちゃんとはうまくいってないようだな」


 コトリと父は麦茶の入ったコップをわきに置いた。


「まだ日本に帰ってきてから一度も杏奈に会ってないのになんでそう思うの?」


「せっかくお父さんが帰ってきたっていうのに、誰も杏奈を呼びに行かなかった。そういう雰囲気じゃなかったんだろ?」


 その時はまだ寝るには早い時間だった。普通なら、出迎でむかえに出てくるかどうかは別にして一声はかけるはず。あんな無邪気むじゃきな様子で母の料理を喜んでいたが、よくみんなの様子を見ている。


「――そういうのすぐ分かるの、ちょっと気持ち悪い」


「気持ち悪いとはあんまりだな……観察かんさつ考察こうさつくせみたいなもんだ」


 ある意味職業病しょくぎょうびょうと言えるのかもしれない。本能のままに生きる生き物たちの一瞬の表情を見逃さないための洞察眼どうさつがん。もっとも、分かりすぎても人間社会ではあまり良い結果を生まないとは父のだん


「何があったんだ?ほら、話してみろ」


 おそらく話すまで父は真希を開放しないだろう。仕方なく真希は口を開いた。


「――普通の兄妹ってさ、なんだろうね」


 それを聞いた父はフッと鼻で笑った。


「……部屋戻る」


「すまんすまん!まぁすわりなさい」


 真希が上げかけた腰を再び降ろす。


「普通の兄妹かぁ。そんなもん誰にも分からんぞ。まぁお前とハルは仲が良すぎる気もするが」


「そんなこと分かってるよ」


 そういうことではなく。


「なんというか……それでも適当な距離感ってあるじゃない?いくら仲が良くってもさ、例えば、このとしで一緒にお風呂入ったりとかは変じゃない?そういうさ、適切てきせつな距離感っていうか……。ともかく、そういう感覚かんかくが杏奈はよく分かってない気がして……」


「なるほど」


 ふぅむと、父が思案しあんするようにあごを左手ででる。


「そういう一般常識的な話なら、杏奈ちゃんが分からないわけないと思うけどなぁ」


「それは……私もそう思ってたけど……」


 それが分からないからあんなことになってしまったわけで。


 ふと、何かに気付いたように父が左手を顎から離した。


「ところで、さっきから姉妹しまいじゃなくてって言葉を使ってるな?つまり、杏奈ちゃんが距離感を分かっていないとお前が思っているのは、杏奈ちゃんとハルの距離感のわけだ」


 何を当たり前のことを、と真希はうなづく。


「つまりお前は、杏奈ちゃんとハルの距離が近すぎるのを心配しているわけだ」


 話しながら父が思考をまとめていく。


「お前はそれが恋愛的なものだと思うのか?」


 父の問に真希はうぅーんと唸った。その心配をしていたのは確かだ。だが、そうなのかと言われると……。


「どうだろう……ちょっと、違うような気がする」


 家族愛ではなく、異性にいだく愛情。そういったものとはどこか違うような気がする。過剰かじょうなスキンシップは、そういった感情のあらわれではないような気がする。恋愛経験にとぼしい真希では確信することはできなかったが。


「なら違うんだろう」


 真希の迷いを父は一言で断じた。


「だったら――」


「あんまり飲み過ぎはよくないな。そろそろ寝るか」


 不意に立ち上がった父に真希は抗議こうぎの視線を向ける。


「なぁ真希。律子りつこさんを見てどう思う?」


 律子。それは、今の母親の名前だ。


 少しでも距離をちぢめるため、真希はその名前では呼ばずお母さんと呼んでいる。


 突然話題が母のことになったの怪訝けげんに思いつつも真希は、


「どうって……頑張ってくれてると思うよ。一生懸命いっしょうけんめい頑張がんばりすぎなぐらい」


 そうかそうか、と父は目を細めて頷いた。


 れない量の家事に母が悪戦苦闘あくせんくとうしているのは明白だが、それでも真希の手伝いをこばむ。真希に気をつかって欲しくないと思っている。


「律子さんと杏奈ちゃんは、とてもよく似てるよ」


「そりゃそうでしょ。血がつながってるんだから」


「そうだな。外見も、そして性格もそっくりだ。何事にも一生懸命で、少し思いめてしまうところも」


 父が杏奈と過ごした時間はまだそう多くはないはずだ。


 だが、少なくとも父の目には真希よりも杏奈についての多くのことが見えているようだった。


「ともかく、だ」


 父が真希の頭に手を置いて乱暴らんぼうでた。


 普通にいや


「杏奈ちゃんのことはどうやらお姉ちゃんにまかせたほうがよさそうだな。お父さんじゃどうしようもない」


「話してみろって言ったのに……」


「解決するとは言ってないだろう?」


 真希がぐちゃぐちゃにされた髪を手櫛てぐしなおしている時に、その手の上に、父の大きな手が乗せられた。今度は髪をみだしたりはしない。優しく、包み込むように。


「真希。お前は、だと思っているようだがな。それは間違いだぞ。よぉく考えてみるんだ」


 どういう意味、と真希が問いかけるよりも早く、父はその場を後にした。


(言いたいことだけ勝手に言うんだから……もう……)


 釈然しゃくぜんとしない気持ちのまま、真希は自分以外に人の気配の消えたリビングにごろんと上半身を投げ出した。ひんやりとしたフローリングが心地良い。


 日葵と杏奈の問題ではない。それはいったいどういう意味だろう?


 しばらく考えたが分からず、床の上で寝てしまう前に真希は思考を中断して身体からだを起こした。


 麦茶の残りを一気にあおる。小さくなった氷がカランとすずな音を立てた。


(……ちゃんと片づけてよね)


 父の放置ほうちしていった空のコップをつかんで真希は立ちあがる。コップの置いてあった場所には結露けつろした水滴すいてきが小さな水たまりを作っていた。


 寝る前にもう一度考えよう。そう思った真希だったが、ベッドに横になり意識が眠りという水底みなそこしずんでいくまでに答えが出ることはなかった。

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