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 真希まきが大学の講義こうぎを終えて家に帰ると、リビングのソファでパラパラと漫画をめくっていた弟の姿があった。


「おかえり。お姉ちゃん」


「ただいまぁ~」


 その一言で一日の疲れが抜けていくのを感じる。一日とは言ってもまだ十七時過ぎだが。そして何となしに周囲を見回すが母と妹の姿がない。そういえば玄関げんかんくつもなかったような気がする。


「お母さんと杏奈あんなは?」


「お母さんは買い物。杏奈は遊びにさそわれたからちょっと遅くなるって」


「ふぅん」


 ソファのわきかばんを投げ出して冷蔵庫をあさる。なるほど、確かにスカスカだ。常備じょうびしてあるピッチャーから作り置きの麦茶をコップにそそぐ。もちろん二杯分にはいぶん


「新しい学校でもちゃんと友達ができたみたいでよかったよ。登下校とうげこうも僕と一緒の時が多かったからちょっと心配だったんだ」


 コトリと麦茶の入ったコップを日葵はるきの前のテーブルに置きつつ、当然の権利として弟のとなりすわる。他にも座るところはあるが、日葵の隣が空いているのならそこに座らない道理は姉にはない。


「一緒に住む都合つごうで転校することになっちゃったもんねぇ」


 杏奈は現在中学二年生。同居どうきょの開始を四月の新学期にさだめたのは彼女に無理なく学校をうつってもらうためであった。ただ、どうしても一年からの友達がぜろの状態から二年生開始にはなってしまう。杏奈が新しい学校に馴染なじめるかどうかというのは家族全員の心配事しんぱいごとであった。


(あの子可愛いからなぁ……変な難癖なんくせ付けたりされないといいけど)


 くぴりと麦茶の入ったコップをかたむけながら姉はそんなことを思う。容姿ようしととのっていることは必ずしもメリットをもたらすだけではない。それは同じく容姿が整っている真希の経験則けいけんそくもとづく心配である。女子の世界というのは男子の世界よりも複雑ふくざつ面倒めんどうだ。


(ふむ……ということは、今は家にハルと私の二人だけか……)


 となれば。


「ハル」


 真摯しんし声色こわいろで日葵に向き合った真希。


「?」


 漫画まんがを手にきょとんと首をかしげる弟。姉は半分ほど中身の残ったコップをそっとテーブルに置いた。


 空いた両手を、最愛さいあいの弟へ。


「お姉ちゃん、もう、我慢できない……!」


 そして、血のつながった実の姉弟していの顔がぐっと近づき、そのまま――


 真希は日葵の腰をがっしりと抱きしめてそのおなかに顔をめた。


(ああ~~~やっぱ大学から帰ってきたら弟をうにかぎるぜぇ~~~)


 すーはーすーはー。


「もう、あついよ~」


 突然の姉の奇行きこうに暑いよ~と抗議こうぎはしたものの抵抗ていこうはしない。れとはおそろしいものである。


 思えば弟を吸うのもひさしぶりな気がする。やはり家族とはいえ第三者の目があると真希も気が引けていたのだろう。杏奈達と同居する前は、父が仕事で家を空けがちであるがゆえに日葵と二人きりなのがつねであった。誰の目も気にすることなく弟を放題ほうだい。あのころに戻りたいというわけではないが、こういう時間も少しはあってしかるべきである。


 最初の抗議以後こうぎいご、日葵は特に文句もんくも言わずまた姉の頭の上で漫画をめくる。読みづらい上に先ほど言ったように暑いだろうに、姉を無下むげに振り払ったりはしない。


 姉が姉なら弟も弟。もはや日葵にとっても普通の姉弟の距離感きょりかんというものはこういうものだとり込まれているのかもしれない。他に人の目がなければ恥ずかしくもない。


 果たして、それを第三者はどう思うのか。


「ただいまー」


 ガチャリと廊下ろうかからとびらを開けて入ってくる小さな人影。別にやましいことをしているつもりはなかったのだが、なぜか真希の身体からだ強張こわばった。


「あ……おかえり。早かったね」


 一方、少し苦笑しつつ日葵がそう返すと、


「うん……放課後ほうかごにちょっとクレープ屋さんにっておしゃべりしてきただけだから……」


 声色こわいろ若干じゃっかん困惑こんわくが聞いてとれる。そりゃそうだろう。家に帰ってきたら兄のお腹に姉がひっしと抱きいているのである。


「お、おかえり~」


 日葵の腹からくぐもった声がひびいた。


 その声が響いた方にとてとてと足音が近づいていく。


「……………」


 動くに動けない真希は無言の視線をひしひしと感じた。見られている。


 無音の圧力あつりょくに真希の背中に冷や汗がにじむ。


(いや、なんで私、こんなに緊張きんちょうして……別に変な事してないし……)


 少なくとも真希の基準きじゅんでは。


 そしてようやくその沈黙ちんもくやぶられた。


「――えいっ!」


「わわっ!」


 不意ふいに感じた衝撃しょうげきに真希が顔を上げると、頭上に杏奈の顔があった。杏奈がソファの背もたれ側から日葵に抱き着いたのである。


「ちょ、ちょっと!どうしたの?」


 突然抱き着かれた日葵が目を白黒させると、


「お姉ちゃんだけお兄ちゃんとくっついてずーるーいー!」


 そんな駄々だだをこねる声を上げながら、ますます杏奈は日葵の頭を抱え込む。上と下から抱き着かれた日葵は流石さすがに苦しそうにもだえた。


「んもー!流石にこれは暑いよー!二人とも離れて!」


 たまらず姉と妹の抱擁ほうようから抜け出した日葵は胸元むなもとをぱたぱたとあおいで別のソファへと移動した。今は六月が終わろうかというところ。クーラーもつけずにこの密着度合みっちゃくどあいはキツいものがある。


「えー、お姉ちゃんはいいのに私は駄目だめなのー?」


「そういうことじゃなくて……流石に二人同時は暑いっていうか……」


 くすりと杏奈が悪戯いたずらっぽく笑う。


「じゃあ次は私ね!」


 そして杏奈は移動した来春にまた駆け寄ってその隣に腰掛こしかける。そのまま兄の腕をとってぴとりと寄りう。


「ちょ、ちょっと!」


 久々ひさびさの日葵との密着みっちゃくタイムを邪魔じゃまされた真希がたまらず声を上げた。だが、なんと言うべきかまよって二のげない。


(ハルを返して……?いやいやそれは一番駄目でしょう。だってハルは確かに私の弟だけど杏奈の兄でもあるわけだし……。でもこれが続くようじゃもう満足にハルのかおりを堪能たんのうすることができないし……)


 弟成分が不足すれば姉は死ぬ。


 そう、つまりこれは真希にとって死活問題しかつもんだいなのだ。


「お、お姉ちゃんもさっき帰ってきたばっかりだから……その、もうちょっと……」


 弟を吸いたい。


 そのみょう切実せつじつな姉の様子に杏奈は、


「えー、でも私も今帰ったところだし……」


 ふーむと杏奈は思案しあんし、やがてすぐ側にある兄の顔を見やった。


「そうだ!お兄ちゃんに決めてもらえばいいよ!」


 突然とつぜん提案ていあんに日葵は目をぱちくり。


「お兄ちゃんは、私とお姉ちゃん、どっちがいーい?」


 息がかかりそうなほどの至近距離しきんきょり硝子玉がらすだまのようにきらめく血のつながらない妹のひとみに見つめられて、日葵は、


「どっちがって……どっちも暑いよ~」


 特に何か感じ入るでもなく苦笑した。妹とはいえ血のつながらない杏奈に密着みっちゃくされて、おどろきこそすれ必要以上にドギマギすることもなく。姉の真希としてはその鈍感どんかんさはいらぬ心配をしなくていいのでこのましい。それは幼少時ようしょうじより姉弟は密着するものだ教え込んだ真希のブラコン英才教育えいさいきょういく賜物たまものなのかもしれなかった。


「もー、それじゃあ決められないでしょー」


 じゃあ、とばかりに杏奈はさらに日葵に身をせる。


「私の方が小さいからくっついてても邪魔じゃまにならないでしょ?」


「それは……そうかも……」


 まるで猫が飼い主に頭をり付けるように、日葵に顔を寄せる杏奈。その小動物然しょうどうぶつぜんとした様子に、日葵もなし崩しで許容きょようするようなそぶりを見せる。


「いやいやいや!ほら、確かに私のほうが大きいけど、なんていうか、こう、やわらかいし……!」


 言い終えてから気付く。


(何言ってんだ私……)


 妹に張り合おうとしているのもどうかと思うし、そのアピールポイントが柔らかいとは。


 ちなみに身体全体のことであり、一部分にかぎったことではない。確かにそこは杏奈よりも真希のほうがはるかに大きくて柔らかいが、そこを弟にアピールするようではいろいろとよろしくない。


 しかし杏奈はそうは思わなかったようで。


「……私まだ成長期せいちょうきだもん」


「違う……!違うの杏奈……!」


 くちびるとがらせてねてしまった妹と狼狽ろうばいする姉。兄および弟はよく分からずにぽかんとしている。


「あー、うー……今回は私の負けかな……!あ、ははは……」


 これ以上この話をするのはよろしくない。名残惜なごりおしいが、ここは妹に勝ちをゆずるとしよう……。


(いや、負けってなんだ……何の勝負だったんだ……)


 自分に心でツッコミを入れる姉。


 しかしそれでは杏奈の気はおさまらないようで。


「むー……私が大学生になったら逆転するから……」


 姉の一部分に視線を注ぎ再戦に闘志とうしやす妹。


(気にしてるんだ……まだ中学二年生なんだし気にすることないと思うけどな……)


 実際じっさい成長期だというのは事実であるし、この年齢差ねんれいさでは杏奈が勝てないのは当然なのであるが、お年頃というのはむずかしい。


 しかし再戦をちかってなお、え上がった闘志はそう簡単には収まらなかったようで。


「……ねぇお姉ちゃん、勝負しよっか」


「ふぇ!?」


 突然の提案に頓狂とんきょうな声を上げる姉。猫を思わせる動作から一転、小悪魔チックな微笑びしょうを杏奈が浮かべた。


「どっちがお兄ちゃんにより気に入ってもらえるか。勝ったほうはたぁくさんお兄ちゃんと一緒にいれるの!」


「別に勝負なんてしなくても僕は……」


 一緒にいてくれる。それはそうだ。家族なのだから。だがここでの一緒にいれるとはそういうことではないのだ。


 どちらがより、日葵をでられるか。そして杏奈は言っているのだ。愛でたくばおのれでその時間を勝ち取ってみろと――!


 少なくとも真希はそう理解した。


 であるならば、その勝負、ブラコンをきわめし真希が乗らない道理どうりはない!


 一度下げた頭を上げた時、最近の弟成分不足で我慢がまん限界げんかいだった真希の顔には不適ふてきな笑みが浮かんでいた。


「……いいよ。でもその勝負、お姉ちゃん負ける気がしないなぁ……。杏奈がハルと一緒にいられる時間っちゃうかもよ……?」


 今まで遠慮えんりょしていたが、杏奈の方から言ってきたのであれば問題あるまいと、負けるはずがないと確信かくしんがある姉は挑発的ちょうはつてきに言った。


 伊達だてに十五年姉をしてきたわけではない。それがいかに日葵に気に入ってもらえるかの勝負で負けるわけがない。いな、負けるわけにはいかない。


「大丈夫だもんっ。私、お兄ちゃんのこと大好きだし!」


 そして自分のものだとアピールするかのように日葵の腕をぎゅっと抱きしめる。


「二人ともどうしちゃったのさ……なんかよく分からないけど……恥ずかしいよ……」


 自分を取り合って火花を散らす姉妹にいたたまれない様子の日葵はもぞもぞと身体を動かすが、その腕をがっしりと杏奈が抱きしめてはなさない。


 姉にしろ妹にしろ、度をしたレベルのブラコンの境地きょうちだが、当人達とうにんたち羞恥心しゅうちしんなどはまるでない。


 全てはこの可愛らしい日葵を愛でるため。そのためであれば姉妹であれ刃(?)を交えよう……。





 このような些細ささい顛末てんまつから姉妹は日葵をめぐって事あるごとにり合うようになったのだった。


 それは姉妹の間で遠慮えんりょというかべが取りはらわれた瞬間しゅんかんでもあった。そういう意味ではより真希と杏奈が本当の家族に近づいた瞬間であるとも言えるかもしれない。


 そして時間は冒頭ぼうとうへと戻る――。

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