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杏奈あんな~ちょっといい?」


 千佳子ちかこに相談した日の夜、さっそく真希まきは行動を開始した。


 夕飯を食べ終えた後のどこか弛緩しかんした空気の中、杏奈はリビングでソファに身体からだゆだねてぽけーっとバラエティー番組のうつるテレビ画面をながめていた。今はそのとなり日葵はるきの姿はない。現在お風呂タイムである。特に話し合って決めたわけではないが、瀬野家せのけの一番風呂は日葵が使うというルールなのだ。


「ん~?」


 声をかけられた事で背もたれしに杏奈が振り向いた。日葵といる時は常にニコニコしている彼女だが、今はその笑顔はなりをひそめ、身体だけでなく表情筋ひょうじょうきん脱力だつりょくしている。


 初めのころは、真希もその落差らくさおどろいたものだ。杏奈はオンとオフのスイッチの切りえが明白なのである。


「あー、いや、ちょっとお話したいな~って……」


 我ながらもっと自然にはできないものかとは思いつつも、もう声をかけてしまった以上突き進むほかない。ポンポンの杏奈の頭をでつつ、その隣に腰掛こしかける。母親はキッチンで洗い物、日葵は入浴中にゅうよくちゅう、二人だけで話ができるとすればこのタイミングか、寝る前に部屋をたずねるかぐらいしかない。


 ソファに腰掛けて杏奈が見ていたバラエティー番組に視線を向ける。


「ごめんね、テレビ見てたよね」


「ううん、ひまだったからけてただけ」


 そう言ってニコッと微笑ほほえむ。隣に並ぶと杏奈の身体の小ささがよく分かる。真希が女性にしては高身長というのもあるが、その愛らしい容姿ようしと相まって本当に人形のようだ。体格的な面では真希よりも日葵と兄妹らしいと言える。


 真希の高身長とルックスはどちらかといえば父親似ちちおやにだ。一方で日葵は亡き母親似。遺伝いでんというものはかくも不思議なものである。


 隣にすわったはいいものの、さてどうしたものかと真希が考えあぐねていると杏奈がはてと首をかしげる。その動作一つが可愛らしい。


「どうしたの?」


「えーと……そろそろ三カ月ぐらいつよね。どうかなぁって……」


「どうって?」


「なんか、こう、なやんでることとかない……?」


 いざ話をこうと思ってもどうにも遠まわしに訊かざるをえないのがもどかしい。


 ただ、杏奈の方はその言いよどむ様子を心配してくれているととったのか、最初よりも幾分いくぶんやわらかな微笑ほほえみをかべた。


「――大丈夫だよ。お父さんとはまだそんなに話せてないけど、お兄ちゃんも、もちろんお姉ちゃんもやさしいし」


(う……)


 その優しい微笑みと言葉に思わず手がびる。


「お姉ちゃん?」


(はっ……つい……)


 思わずまた杏奈の頭をでていたことに気付く。日葵以外で不意に撫でたくなる衝動しょうどうられるとは真希自身思わなかった。


 それだけ真希にとって妹という存在が身近になったということなのかもしれない。であればなおのこと、この関係がこわれてほしくはない。


 いとおしいからこそ、はっきりとしておかなくては。


「ハル……お兄ちゃんのことどう思ってる?」


 一瞬いっしゅん、キョトンとした杏奈。


 しばしの沈黙ちんもくの後、杏奈は……。


「お兄ちゃんは……可愛いよねっ!」


「――そぉなんだよぉ!」


 思わず身を乗り出して同意する残念なお姉ちゃん。


「なんで男の子なのにあんなに睫毛まつげ長いの?肌もすっごい綺麗きれいだし、うらやましい~!」


「分かるぅ!お手入れしている感じもないのにねー!」


「あとやっぱり、ちょっと抜けてるところがある性格がまた可愛いっていうか……思わずお世話してあげたくなっちゃうっていうか……」


「うんうん。ハルの可愛さの一番は外見以上にその性格なんだよね。何かにつけて反応が可愛いんだ、うん」


 うんうんと何度もうなづく姉。


 この場に日葵がいればいったいどんな表情をしていただろうか。


 そしてくわしい事情を知らない第三者がこの様子を見ていれば皆一様¥みないちように同じことを思っただろう。血はあらそえないな、と。


「それで……そのお兄ちゃんがどうしたの?」


 ハッとして真希がわれかえる。


「はっ!なんというその、ハルと杏奈、最近仲いいなぁって……」


「そうかな?そうだったらいいんだけど……」


 そう言う妹の顔に他意たいは見受けられず。


(やっぱ考え過ぎだよ、うん。ハルが可愛い過ぎるから杏奈だって一緒にいたいだけだよね!)


 変に心配していたことが姉は少し馬鹿らしくなった。


 そうとも。我が弟にして杏奈の兄、日葵は可愛い。姉であろうが妹であろうが愛でずにはいられないのだ。


 ただ、目下もっか最大の懸念けねん杞憂きゆうだったとしても。真希と日葵の時間が減っているという現状をどうするかという問題の解決にはいたっていない。


「それでね杏奈、ハルは可愛い。だからできればお姉ちゃんにも……」


 と、もう一つの本題に真希が入ろうとした矢先やさき


「お風呂上がったよ」


 タオルを首からかけたパジャマ姿の日葵がリビングに戻ってきた。


 れた髪、火照ほてったほほ、萌えそで気味ぎみのギンガムチェックのパジャマ……残念なお姉ちゃんが何も感じ入らないはずもなく。


「ハルうぅぅー!こっち来て!髪かわかしてあげるっ!」


 異様に俊敏しゅんびんな動きでソファから立ち上がった真希が、背もたれの後ろに回り込んで自分の座っていた場所をパンパンとたたく。


「いいよぅ、髪ぐらい自分でかわかせるよー。それより、次どっちがお風呂入るの?」


 問われて同時に目を合わせる姉と妹。じゃあ、と妹のほうが名乗りをげた。


「先に入ってくるね」


 とてとてと着替きがえを取りにいった杏奈を後目しりめに、真希もそそくさとドライヤーの用意をする。


 いいよと断ったにも関わらず姉が世話せわを焼きたがるのはいつものこと。仕方しかたなく苦笑くしょうとも不満ともつかない表情で日葵はソファに腰掛けた。


「ふふふふふ……」


 ただ髪を乾かすだけだというのに、ドライヤーを右手に、左手は謎にわきわきさせてほくそ笑む姉。


 抵抗など無意味だと言う事を弟はよく知っている。


 結局その日はそれで満足してしまい、もう杏奈と話をすることはなかった。

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