第16話
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今日は部下が引き継ぎ損ねた仕事を一から確認してやり直したり、上司にどうでもいい仕事を頼まれ残業したりと、なんだか嫌な日であった。癒しが欲しいな、今日も電話で君の声を聞けたりして、なんて考えつつスマホを確認すると、今日はいつもの友達らとリモート女子会!なんてメッセージがきていた。きっと君は僕と電話するのが習慣になっていたからそう送ったんだな、と思うと、なんだか君の人生に少しだけ溶け込めた気がして気分が良かった。しかし、君の声は聞けないか、とまた肩を落として歩く。君の、いつもの仲良し組のうちの1人に彼氏ができたから、きっとその話をするんだろう。君は人が何かを好きだと語るのを喜んで聞くから、話はきっと大盛り上がりだろう。君は相槌も野次も上手だし。意識的にやっているものではないだろうけど。
君と初めて恋愛について話し合った日のことを思い出した。たしかよく行くバーだったかな、君はちびちびとハイボール、そしてサーモンのユッケをつまみながら話していた。どんな人がタイプだとか、恋人は何人いたかとかそんな簡単な質問から始まった話だった気がする。そしてたしか、何かの質問に少し言い淀んで、ねーぇ、と急にこちらを向いて、試すような目で僕をじとりと見つめ、話し出した。
私ね、人を愛することと、絵画や彫刻を愛することの違いがわからないの。「恋愛」って、常に互いに同じだけの好意があって、それが相手以外を愛さないという契約になり得るものだっていうことが、よく理解できなくって。恋と愛という字がならぶと、なぜそんな風に契りとなって縛り付けられてしまうの?どちらも自分が何かを好きである時に使う言葉なのに。私はモネもドガもマグリットも好きよ、愛してる。でも彼らの描く絵画から愛されたいだなんて思わないわ。そう、例を挙げると、結婚って、そもそもは人類繁栄の合理的な手段でしかないと思うの。人生を共に支え合う人として最適と考えてするものだと思うの。最適の意味は、一緒にいて楽しいとか、価値観が合うとか、ずっと見ていたいからだとかいろいろあるけど。そこに「愛してる」なんて考えは、持ち込んでもいいけど、相手に求めるのは話が違うと思うのよねぇ。ふふ、そうね、私は好きな人がどんな人であれ好きだったら好きというし、相手が私の愛を拒まない限りは好きなだけ愛するわ。相手が人だって美術だって音楽だって、魚や植物だって変わらないわ!本当にそれだけでいいの。だから嫉妬や所有欲なんてわからない。過去に何度か好きな人に、俺のこと本当に好きなの、と聞かれたけれど、意味がよくわからなかった。好きよ?目の前に好きな人がいない時には頭の中にいるし。だからこそ、見えてない時なんてどうだっていいのよ。あなたが他の人と口づけ合っていようが、一夜を共にしようが、あなたが私の好きなあなたである限り、私は愛するだけよ。まあでも、好きな人の気持ちも尊重したいから、拒まれたら素直に身を引くわ。私だって嫌いなものは嫌いよ、ロマネスコは食べたくないし。ふふ、あなたはやっぱりお前はおかしいよって笑う?
そうして君は、どうぞあなたの意見を述べる番です、とでも言うように、ちょうど半分食べたサーモンのユッケをこちらへ渡した。
ドガやらロマネスコやら、なんだか知らぬ言葉が急に出てきたし、僕は「恋愛」というものについて考えたこともなかったので、君とサーモンを交互に見つめて黙ってしまった。君は二回ゆっくり瞬きをして、僕の返事を心待ちにしてニンマリと笑うと、店員さんに、ハイボール!と大声で手を振って、また僕に視線を戻した。
一旦君の言うことは理解できた気がしたので、愛って双方向だと思ってたけど、君の考え方が僕は好きだなと思う、とゆっくり答え、君の顔を伺った。たしかに、好きなものを好きなだけ好いた方が楽しいよな、と思ってしまったのだ。君は目を丸くして、わ!と笑った後、初めて否定されなかったと喜んでいた。あの時の、ハイボールが君の喉に流し込まれるスピードを僕は忘れない。きみがあんなに嬉しそうで楽しそうで、それでいて安心したような顔をしたことも。
それから僕らは何度も飲みに行き、時には散歩や買い物に出かけるような大親友となった。
もしあの時僕の意見が君と違うもので、また確固たるものであったらどうなっていたのだろうか。僕がドガもロマネスコも知っていて、頭が空っぽでも回りの遅いものでもなく、理論を携えて反論なんてしたら。僕は君のことをこんなに知らなかったのだろうか。君を知れて良かった反面、これが幻覚に塗られた底無し沼かと思う時もある。
僕は今でもあの瞬間のことを思い出してはよくやったと思うし、ほんの、小指の爪の先くらい後悔したりもする。
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