第11話
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ねえ、陽性だったのよねー。
君は電話がつながるとすぐ、もしもし、とも言わずにそう言った。そうなのか、うん、どうなるんだ、仕事とか、と君より数倍焦ってしどろもどろに答えて、電波の弱く遅い君の声を待った。数秒遅れて、まあ、保健所も大変そうで、もう少し待つかなー、なんて呑気な声が聞こえた。
君は最近あまり食欲がなかった。去年から抱える不眠症は、睡眠障害だけでなく薬の副作用も相まって君の生活をぐずぐずに乱した。運悪くウイルスを捕まえてしまったのではない、君の体調はぐちゃぐちゃに崩れきっていて、ボロボロで穴だらけだったんだ。そこら辺に舞ったウイルスたちはまるで少し木陰で休むかのように君の体に居座った。直前の扁桃炎で何かに強くなったのだろう、まあそこらへんの医学やら科学については知らないが、君は咳や熱も無く、嗅覚だけを失った。
だが、今食欲を失いつつある君の体から嗅覚が奪われるということは、食欲ごと奪われるのと同じだった。
君は何も食べなくなった。栄養ゼリーを無理に流し込む。空腹で胃が痛めば、一番好きな飲み物、水道水をのんで誤魔化した。君の腕は日に日に細く、硬く、筋張って見えるようになった。制服のポロシャツから覗く鎖骨がハッキリとした気もする。君の首はこんなにも細かったか、落ちたおしぼりの袋を拾う君の後ろ姿を目にして思った。
電話では、君は今の症状についてあっけらかんとして話した。咳も熱もないのよねー、ただ匂いが何にもわからなくって。ほら、あなたと吉祥寺で飲んだ日に買ったハンドクリーム、あの香り好きだったのに、もう思い出になっちゃうのかなーって。まあでも、あれさえあればいいわ、無くなったなら、まあ、あなたがいれば、近い匂いがわかるでしょう、と安らかに言った。寂しげに聞こえるが、多分君はそんなに困っていない。君は食事があまり好きではないからだ。加えて寝ることも大嫌いだ。食事より、睡眠より、君にとってもっともっと大事なものが世界にはありすぎるから。そんなことをしてる場合じゃないって君はいつも思いながら生かされてきたんだ。それらを削って成功しなかったとしても、君は何にも悔やまない。君にとって大事なのは知ることで、分かることで、愛することなんだ。一方的でかまわない。愛が双方向だって思うから、比べたり戦ったり怒ったりするのよ、君は良くタバコをぐしぐしと消しながら言った。君は、言わないけれど、そんな苦しき生き物全てを包み込むつもりだから。
三大欲求のうち、二つも障害がでたら、どーなっちゃうのーって感じよね、とカラカラ笑う。君はもう一つを愛なんかと捉えていないから、好みの人だったら蜘蛛のように狙って欲求を満たしていく。対象を好きではあるが、欲求のために愛したりはしない。君はお気に入りのポストカードを買うくらいの感覚で好んだ人と夜を共に過ごす。まあ、そんな話は君の口からは出ず、全て見たり風の噂で聞いたりしたことなのだが。
まあ、ホテル療養になるらしいから、色々分かったらまた電話するね、とシンプルに話を終わらせて、君は電話を切った。そうか!明日は君は朝番か。
君は普段ならWi-Fiを切って、近所を気にして近くの公園まで行ってから電話をする。しかし今日は、風の音も青梅街道沿いのぞうぞうという雑音もない。君の真面目さが電話越しに伝わる。
考えることが、知ることが好きで好きで仕方ない君にとっては、「きちんと生きる」ということがすごく負担になっている。君はこの負のサイクルから抜け出せない。何かを諦めて進んだ時の後悔を知らない。いや、知るのが怖いのだ。常に全力で生きてきた君は、それをやめることができない。休むという言葉が嫌で嫌で、その後に待つ後悔の大きさに恐れ怯え、ただ走り続けることしか君は生きる方法を知らない。
僕にはその恐怖は頭でしか理解してあげられないから、君をただ優しく見守ることしかできないんだ。ああ、なんて残念な人間なんだろう。
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