第10話
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昨日は大変に疲れてしまって、今日は目を開けてパソコンを見ているのがやっとであった。今日一日、何をしたんだか思い出せないくらいだ。
昨夜、久々に君にいつもの公園呼ばれた。
夜10時ごろだろうか、僕は君が僕を公園に呼ぶということがどういうことかわかっている。公園は暗い。街灯はあって二、三だろうか。奥のベンチを照らせるほどの数はなかった。君は決まって10時ごろ、仕事が中番の日を選んで、月に一度くらい僕を住宅街にある薄暗いあの公園に呼ぶ。奥の、暗いベンチに君を見つけると、ハイボールの缶が必ず二つ足元に転がっている。三つ目は残り三口くらいだろうか、いつもそんな感じなんだ。そうして君は顔を真っ赤に、目をとろりと座らせてバッグを地面に置き、腕をまくっていて、ふふ、ねーぇ、と僕に声をかける。
君の腕は傷だらけだ。
縦横斜めに鋭い線が入っている。
まだ切りたてだから、血が玉になって乗っかっているところもある。それには見向きもしないで僕に手を振ると、自分の額に腕をおいて、毎度毎度いい奴だなあ!と楽しそうに笑う。少し汗ばんだおでこに血の跡がつく。僕は、君が呼ぶからだろう、と眉を下げて答える。毎度のことだ。はは!大好き!と目を細めてにぃーっと笑い、君は勢いでザシュ、とまた一つ抱えた何かを腕に刻んだ。ちょっと深いけれど、まあ大丈夫そうだ。
君が深く腕を切ってしまう時は、決まってパニックになっている時だ。仕事中だとか、通勤中とか。いろいろと世界は君を急かすのだろう。君は流れ出る血を黒い長袖で隠して、休憩を終えてまた接客に戻ってくることが多々あった。僕は机に一筋赤い跡がつくと、必ず君を手を挙げて呼んで、サーモンユッケを頼んで、大きい絆創膏を机の上に出す。君は、かしこまりました、以上でよろしいでしょうか、とわらって絆創膏を制服のポケットに潜ませる。お願いします、と言って僕はまたスマホに映るニュースに目をやる。僕の好意を伝える方法はこれしか無いのだ。
君がハイボール缶の最後の一口を飲み干して、腕も美しく紋様が入って、君の一番好きな生き物、ミズダコの話が終わりに差し掛かったところで僕は、タコってそんなにすごいのか、とか言いつつ君の手をゆっくりとる。
僕は腕と君を交互に見つめる。
そして、いつも決まって君は、10秒だろうか、1分だろうか、体感さえ危うくなるようなゆったりとした目で僕を見て、急ににやにやと染まる頬を上げたあと、
いいよ。
とだけいう。
僕はそれを言われた瞬間だけ君への愛を剥き出しにできるんだ。
僕はもう君の顔なんて見えない。君の、まだ血の乾ききらぬ腕をべろりと舐めあげる。君は微笑んだまま何も言わない。あまり多量に出血していることはほとんどないから、血の味はたまにしかしない。
君が世界を受け止めたいように、僕も君を受け止めたいんだ。リストカットにだって怒るどころか否定すらしない。君が選んだ、君の幸福だ。逃げだって甘えだって良い。君の全てを、君よりは大きいと思っている腕で、身体で、本当に抱きしめてあげたかった。僕にとっての「抱きしめる」は君にとっての嫌悪でしかなかったから、そんなことはできないけど。僕は君の刻んだ苦しみや快楽を一つ一つ舌先でなぞった。君はくすぐったがりも痛がりもしない。僕は君が君であって嬉しいよ。君が全力で歩んで、壊れたり尖ったりしたものを、この周る地球から跳ね飛ばされた全てを受け止められる君が誇らしいよ。僕は、君が、好きなんだ。君が愛に見返りを求めないように、僕も君を好いてさえいればよくなったんだ。君が僕を包んで、染め上げて、また立ち上がらせた。ほどけてかたまって。崩れても君はまた僕らをゆっくりと地面に立たせてくれる。抱きとめつつ、一緒に歩き出してくれる。そしてまたにぃーっと笑って僕らを置いてを全力で歩いていってしまう。
そんな君を心から敬愛して、伝えきれぬ好意を、愛をもって君に出来るだけ遠くから見せている、そんな僕だ。押し付けたり、喋りかけたりはしないんだ。ただ目に少しでも留まれば良い方で。僕が好きでこうしていることだけに意味があるんだ。
あ、終電だ。駅までアイス食べてこう。
君はパッと手を離すと、腕まくりした袖を一気に元に戻して、僕に一度、あは!と口を開けて笑いかけてから、バッグの土も払わずサッサと歩き出してしまう。僕はわかった、と言って転がった缶を近くの自販機の横に置いてから、君を追いかける。
今日のアイスはバニラかな、君はチョコがあまり好きではないし。うーん、何が良いかねぇ、と鼻歌でも歌うかのように朗らかに呟いて、僕らは君の終電まで同じバニラ味の、アイスバーをゆっくり食べた。
ほら、棒の刺さったアイスなんか選ぶから。君の腕につつ、とアイスが垂れる。君は気にも留めずにむーっとアイスをくわえた。
僕はその垂れたアイスの筋を舐めることなできないけれど。君を、少しだけでも、包み込めてよかった。
酔っぱらったお姉さん、といった感じでほほいと電車にしまわれていった君を見つめて、僕も終電のコールのなるホームへと向かう。
ああ、世界がまわっていてよかった。乗り遅れるところだった。
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