第7話

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今日は、君に最低なことをしてしまった。


君はめったなことでは怒らない。誰かの求いでありたい君は、キンキンに研がれた刃物で

刺されたって、未開封の一弁瓶でぶん殴られたって、似たような激痛であろう、言葉の刃で臓物をえぐられたってなお、腹を立てたり逆上したりはしないのだ。君は君の痛みなんかより、なぜ相手がそんなことをするに至ったのかだとか、その原因になり得る、人間が心の奥底に飼っている、その人をその人たらしめる根源的な欲求、例えば承認されたいとか、他より優れていたいからだとか、そういったものを見つけ出して包み笑いかけてあげたいのだ。そうして剥き出しになったそれを恐がらせぬよう近づいて、少し微笑んで、あの小さなあたたかい手で撫でてあげるのだ。


怖がらなくても大丈夫。あなたはしていたいことをしていいし、私はしてほしいことしかしないよ。寒いかな。怯えているのか冷えているのか、少し震えてる。抱きしめていたいんだけれど、嫌じゃないかな。どう?本当?良かった、しばらくこうして私の腕の中にいて良いからね。少しは落ちついてきたかな。いいよ、無理に何かしようとしなくていい。あなたのしたことは間違いでも罪で馬鹿でもないんだ。そう、そうだよ。素直で素敵なことだよ。あんな奴に言われたこと?うん、そっか。あいつが浅はかで馬鹿でくだらないからそんなことしか言えないんだ。今度何かあったら、あいつを思いきり見下してやろう。あなたが負い目と感じることも、自身を責めることもないんだ。

あなたはあの時、素暗らしく生きていたよ。

誇っていい、認めてあげて、良かったんだと安心していいんだよ。もう、何にも苦しまなくたって良いんだ。もっとこっちにおいで。少し眠たいかな。いいよ、ゆっくりお休み。あなたがぐっすり寝たら、布団か何かに優しく横たえて、隣で桃でも眺めているよ。

だから安心して、自分を決して責めないで、静かに目を閉じて、ゆっくりおやすみ。



君は絶対にそう言うんだ。



これは、君が全てを愛して、優しい人でありたいからしていることではてい。

君は遠く遠く、祈っているのだ。君と接する

全ての人がこうでありますようにと。良かれと思ってした誤りを、意図せぬ失敗を、変えられぬ性分のことを、馬鹿なことをした劣った人間で、不要な奴だとどうか自身を罰さないでほしいのだ。





今は、世界的に驚異的なウイルスが満延している。そして今朝、君は違う病が原因であるために体に出た不調を、会社伝えてしまった。

病院も保健所にもウイルス感染者の疑いは無いので働いていいとしっかり確認しているにもかかわらず、会社は一定期間の休職を言い渡した。社会は科学より世間に怯えた。

君は、働いて、ものすごい量の業務や、その手順を考えることに、こなすことに溺れていないと狂ってしまう。君はきっと自分の素直さや他人を慮った今朝の行動を後悔するだろう。どうしたら良かったのか、きっと原因を自身の中から探すんだ。何かを失くしてイラついて部屋をぐちゃぐちゃにするように。今まで丁寧に並べてきた苦しみや忍耐たちを拾っては違うと投げ、無いことに怒り、また君は君に暴力を振るう。カッターと一升瓶で罪の証明を刻み、脳内の罵声と怒号でこころをボコボコにぶん殴っていく。君は君を罰することでしか君を許せない。


僕は、全て見てきて、分かっていたのにもかかわらず、「何で正直に言っちゃったの?」と

笑いながら聞いてしまった。


とたんに君の焦点がぐらつく。右、左と黒目が必死に居場所を求める。口がわずかに震え「でも、」とこぼした。

「疑いは無いから、働いていいって、保健所も病院もそう言って…皆を、安心させて、もっときちんと働けるように、って…」

君の口角は上げられてる。瞬きは不整脈のようだ。浅く早い呼吸が微かに聞こえる。まあ、ね、そうだよ、ね…と君はきっと出せる力を振り絞って文字を繋いだ。



ああ。

僕は頼んであったジョッキで自分の頭をぶん

殴ろうかと思った。ああ、やってしまった。違うんだ、いや、もう違うことにはならないが。僕は焦って君をなんとか落ち着けようとありったけの言葉を投げかけたが、

「ごめん、でんわ」

君は光も振動もないスマホを握りバーを走って出た。

僕は君を好きすぎるあまり、君を正しく、整えて、守ったつもりになってみたいと思ってしまった。君を好いたことに自惚れたんだ。好きであるということは、一方的な感情で、おこがましく何かを変えてあげるという理由にはならない。そんなこと、この目で幾度となく見てきたのに。



タバコを二本吸ったのだろうか、目に染みたわーとか言って少し赤く、腫らした君は、「ごのん、ユカが渋谷いるらしくて」と言って千円札を三枚おくと、小走りで手を振って出ていってしまった。ユカなんて知らないが、僕はその千円札たちと結露でびしょびしょになったグラスを交互に見て、僕の、首をもたげた傲慢さに震えるほど後悔した。


二度と君は会ってくれないだろうか。

他への、特に仕事への思考で満たされていと生きられない君は、あの六畳一間でこの空白の脳内をどう埋めて保っていくのだろうか。

不安だなんて言葉じゃ表しきれない、暗いくらい穴の中にずずず、と落ちていく。身動きさえとれずに。掴んだ何かさえすぐに手の中でさらりと失われていく。

僕にはやっぱり君好きになる資格なんて見えたことすらないんだ。

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