第27話 ストーリーテラー(上)
翌日、午前三時。必需品をカバンに入れて自宅を後にする。
扉を閉める際に、彩香さんを起こしてしまわないよう、細心の注意を払いながら。
十月上旬といえども、深夜となると肌寒かった。
きちんと着込んでおくべきだったか。若干の後悔を抱いたが、部屋には戻らない。
しんと静まり返った住宅街を五分ほど歩くと、最寄駅にたどり着く。普段は学生とサラリーマンであふれているこの駅も、始発が来る二時間前であるためか、人の姿はなかった。
小さな非日常体験に高揚するが、目的はそれではない。
ロータリーへ向かうと、そこには街路灯に照らされた一台のタクシー。
扉を軽くたたくと、眠りから覚めた運転手が扉を開いてくれた。後部座席に乗り込む。
「お待ちしておりました。録藤様」
「すみません。夜分遅くに無茶を言って」
「いえ、このようなニーズに答えるべく、個人タクシーを営んでおりますので」
それに深夜料金はいただいておりますし。
その言葉を合図にタクシーは走り出した。
目的地は予約の際に伝えてある。後は到着した際に料金を払うだけ。昨日、タクシーに乗った時に名刺をもらっておいてよかった。事がスムーズに進んだ。
手持ち無沙汰となったので、ぼんやりと車窓を眺める。
十年以上住んでいる土地なので、どこを走っているのかは分かるが、照明が消えた幹線道路というのは、異世界に迷い込んだみたいで気味が悪い。
しかし、そんな風景も次第に慣れていく。十分もすると、すっかり飽きてしまっていた。
すると、タイミングを見計らったように、運転手が話しかけてきた。
「……随分と複雑な事情をお抱えのようですね」
「ええ、まあ。それなりには」
「失礼ですが、お連れ様はどちらへ?」
「待っていてもらうことにしました。あまり聞かせたい話でもないので」
「聞かせられない話、ですか」
「今から身内を問い詰めに行くんです。そんな場にカノジョは連れていけませんよ」
「お連れ様は身内ではない、と」
「……随分と深いところまで聞きますね」
「すみません、若い方と話す機会が少ないもので。どうしてもしつこくなってしまうのです」
小さく会釈をする運転手。彼とて年老いているわけではないのに。
バックミラー越しに見える目元から察するに、二十代後半ぐらいのようだが。
しかし、彼の声色は落ち着いたもので、心地よい。聞くたびに心が安らいでいく。
なのでつい口が軽くなってしまう。
「……カノジョのほうがそう思ってくれませんよ。番組あっての関係性ですし」
「おや、録藤様はそうお思いですか。なるほど」
含みを持った言葉を呟く運転手。なにやら思うところがあるようで。
しかし、彼はこの話題をこれ以上追求しようとしなかった。その配慮はありがたかった。探られて気持ちがよいところではない。僕はともかく彩香さんが嫌だろう。
沈黙が車内を包む。けれど居心地の悪いものではない。
これからの予定を考えると、気持ちは沈むけれど。これは僕がやらねばならない。
「お悩みのようですね。録藤様」
「あまり気の進む話ではありませんのでね。まったく、胃が痛くなっちゃいます」
「もしよろしければ、少し聞かせていただけませんか?」
少し迷ったが、うなずいた。
こういう話を他人にすべきではないことは理解している。だが、この話ができるのは赤の他人だけだった。それにこの場には番組の手は及ばない。なら、少しだけ。
「――大きなつづらと小さなつづら。どちらを選ぶのか。ただ、それだけなんですよ」
「舌切り雀に出てくる二択でしたっけ?」
「ええ、その通りです。大きなものには怪物、小さなものには金銀財宝が詰まっている、あのつづら。それを選択するときがきたんです」
「ならば、悩むことはないのでは?」
「……そうですよね。僕は小さなつづらを選べばいいんですよね」
「しかし乗る気ではないと。失礼ながら、何に後ろ髪を引かれているのでしょうか?」
「……大きなつづらは僕の姉で、小さなつづらは僕のカノジョなんですよ」
姉を取るのか、それとも、カノジョを取るのか。単純にその条件だけ聞くと、ラブコメみたいなシチュエーションではあるが、現実は簡単ではない。
社会通念に配慮して、現実的な判断をとるのか。
交際関係に配慮して、理想的な判断をとるのか。
僕はいまその分岐点に立っていた。
「すると、『姉を見限り、カノジョを選ぶことは間違っているのか』とお悩みなのですね」
「……それにカノジョとの関係性は収録中のみという条件もあります」
「小さなつづらの中身も担保されているわけではないと」
「ええ、悪い言い方をするのならば」
姉に真実を突き付けたとして、現状が大きく変わるわけではない。もしかすると、なんらかの恩恵があったとしても、わざわざ狙うようなものではない。つまり、この選択を突きつけること自体が、突き詰めれば、僕の自己満足とも言える。
ゆえに悩んでしまう。見ず知らずの運転手に相談するほどには。
すると、彼は静かに口を開いた。
「――好きなようにやればよいのではないでしょうか?」
「好きなように、ですか?」
「ええ、『どうするべきか』ではなく『どうしたいのか』です」
「といいますと?」
「そうですね。『姉さんがムカつくから、文句を言いたい』というのが『好きなようにする』ということでしょうか」
「……そんな私情で動いていいものなんですかね。一応、番組に関することですし」
「それをいうなら、そもそも、ドッキリの被害者は能天気に生きるべきなのです」
「け、けれど、ここでの選択って大きいですよね。間違えられないというか……」
今日の行動はギリギリのバランスで保たれていた『エセ恋TV』を根底から覆しかねないものである。この事実を突きつけるか、否か。それは恋愛シミュレーションでいうところのルート選択に近い。ゆえに彼の解答はどこか無責任に感じる。
「どんなつづらを選んでも、行き先さえ決まっていれば、大丈夫なものですよ」
「そうですかね……?」
「ええ、事実、タクシーはちゃんと目的地に着きましたし」
彼がそう言って笑うと、タクシーは緩やかに停車した。窓から外を覗くと、市街地にあるマンションが見えた。時計を見ると指定した時刻。完璧な運転手テクニックだ。
財布からお札を取り出し、彼に手渡す。
「道というものはすべて繋がっています。どんな道に入っても、目的地さえ見失わなければ、きちんと辿り着けるのです。ですので、見つけた道に入る勇気を持ってください」
「そんなものですかね?」
「ええ、おそらくは。良い方向に事が進むことを願っています」
お釣りを受け取り、タクシーを降りる。茶封筒を胸に抱えながら。
そびえるアパートを見上げると、想像以上に大きく見えた。けれど、気のせいだった。エントランスにオートロックキーを通す。姉さんがいざという時のためにと置いていった合鍵で。ボタンを押して、エレベーターに乗り込んだ。
姉さんの部屋は六階の六号室にあって、きちんと鍵がしまっていた。最近の姉さんのだらしなさから、てっきり空いているものだと思ったのだが。その程度はできるらしい。
覚悟を決めて、玄関のドアをあけると――
そこには録藤綴が立っていた。
「あらぁ~、ようやくきたのねぇ。智くん。もう午前の四時だから、もう来ないかとおもってたわぁ~。まぁ。昨日の夜、カノジョちゃんとあんな事があればぁ、それはもう色々考えちゃってぇ、ぐっすりと眠れないわよねぇ~。だけど、大丈夫ぅ、お姉ちゃんに任せてぇ~。智くんの恋煩いをすっきりぃ、さっぱりぃ、完膚なきまでにぃ、解決してあげるわよぉ~」
「……ほんと、勘弁してくれよ」
これが玄関のドアを開けて、わずか二秒後の出来事だった。
開幕早々、マシンガンのごとく、言葉を重ねる様子はかつての姿を思い出させる。
しかし格好が良いのはその態度だけで。姉さんはなぜか下着しか身につけていなかった。
身内の身体をまじまじと眺める癖は持ち合わせていない。
視線を姉さんから逸らすべく、室内を観察する。
ビビットカラーが目に刺さる壁紙に、トリコロールカラーのソファー。リビングには文庫本や新書が散乱しており、足の踏み場が見当たらない。キッチンに視線を移すと、そこには無造作に散らばるエナジードリンクの空き缶。血のつながりを嫌でも理解する。
その辺に転がっていたクッションに腰掛けて、たまっていたツッコミを開始する。
「……なんで下着一枚なんだよ、姉さん。ついに脱ぎ癖までついたのか?」
「違うわよぁ~。ようやく『仕事』が終わったからぁ、お風呂に入っていたのぉ~」
「仕事っていうのは、小説の原稿?」
「そのなのぉ。今回は締切が短くて大変だったのよぉ」
肩甲骨をもみほぐしながら、生気抜けた声で答える姉さん。
こうしている瞬間だけは、大作家先生に見えるのだから、不思議でならない。
姉さんは大修大学の学生であり、現役バリバリの文芸作家の顔を持っている。
高校在学中、すなわち今から二年ほど前に、処女作『女狐VS送り狼~勝手にやりあえ~』にて新人賞を受賞。それからちょこちょこと小説を執筆している。
天才の燃えカスが、なぜ出版業界で生き残っていけるかは、不思議でならない。
ちなみにペンネームは『天拝山マツリ』という。
つまり、これが意味するところは――。
「それで新作はどんな作品なんだ?」
「あらぁ、そうはいっても興味津々のねぇ~」
「まあ、身内がどんな物語を紡いでいるのかは知っておきたいし」
「今回のはぁ、『美青年文庫』のお仕事だからぁ、ガチのBL小説よぉ。それでも読むのぉ?」
「……やっぱり遠慮しておくよ」
僕は一般的な趣味趣向、および健全な性的嗜好を持った普通の高校生だ。ここで新世界の扉を開くつもりはない。絶対に。それにBLだって、ラブコメなのだけどその趣が百八十度も変わってしまうじゃないか。
「まぁ、それはさておきぃ、カノジョちゃんはどうしたのぉ?」
「家でぐっすり寝ているよ。たぶん起きないんじゃないか」
「あららぁ~、一緒に来ればよかったのにぃ」
「用件が用件だったから、僕一人のほうが、都合が良かったんだよ。ほら身内との会話なんて彩香さんに聞かせるものじゃないだろ? 特にこれから話す件については」
「……さて、なんのことやら」
途端に語調を鋭くする姉さん。
普段の間延びしたものからは一切想像できない鋭利さ。かつての神童の名を欲しいものにした際に見せた表情を浮かべている。一瞬のうちに臨戦態勢へと移行したらしい。
姉さんがダメ人間になったという評価は間違っていた。彼女はその才能を周囲にまき散らすことをやめただけだったのだ。室内が急に冷え込んでいく。そんな気がした。
これがRPGならば、これがラスボス戦なのだろう。出し惜しみをせずにいこう。この期に及んでラストエリクサー症候群を患わせる必要もあるまい。
僕は最初から本題に切り出した。
「――姉さんは『エセ恋TV』を知っているだろ」
「ええ。お姉ちゃんが脚本家を務めているのだから」
「……随分とあっさり認めるんだな」
「今ここで否定しても仕方ないわ。智くんがわざわざお姉ちゃんの家を訪ねてくる時点で覚悟はしていたわ。そして、待っていたの」
「待っていた? 裏で糸を引いて、僕をあざ笑っていたくせに」
「あざ笑うわけないわ。お姉ちゃんはこの番組を利用しただけなんだから」
「利用するって、なぜ」
「それはもちろん、智くんのために決まっているわ」
「ちょっと待て。その言い分では僕のために『エセ恋TV』があるみたいじゃないか」
「ええ、もちろん。この番組の企画は智くんから始まったのよ」
そんなあべこべな話があるものか。この番組は男子高校生をターゲットにした恋愛ドッキリのはずだ。ゆえに別に僕じゃなくても番組は成り立つ。そう聞いていたのだが。思わず動揺してしまう。その隙に姉さんに会話の主導権を握られてしまう。
「さて、カノジョちゃんもいないことだし。特大のネタ晴らしといきましょうか」
「……どういうことだよ、姉さん」
「あら、そこまでは知らなかったのね。もう少しわかりやすい証拠を残しておくべきだったかしら。お姉ちゃん、さじ加減を間違えちゃったみたいだわ」
ニヤリと愉悦に満ちた笑みを浮かべる姉さん。
飲みかけのエナジードリンクを机の上に置き、獲物を捕らえたように見つけてくる。
それは姉さんが『講義』を始めるときの合図だった。
「真剣なお話をしましょ。智くんの進路相談と番組の今後を」
「だからなにが言いたいんだよ。姉さんっ!」
この表情を浮かべる姉さんのことは嫌いだ。こちらが突かれて痛いところを言葉のナイフで的確に刺してくるから。急速に張り詰める雰囲気に思わず唾を飲み込む。
「まずはこの質問から始めましょうか。まあ、一番重要なのだけど」
そして、姉さんは言った。
――この物語の根底を問う一言を。
「ねえ、智くんは本当に『西城彩香』のことが好きなの?」
それに対して、一言で返す。
「……さて、なんのことやら」
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