第26話 西城彩香という乙女(下)
すると不意に彼女は立ち上がった。
そして、僕をプールに引きずりこんだ。
とっさの出来事にまったく対処が追いつかず、そのまま転げ落ちる。水が衝撃を吸収してくれると思ったが、浅いプールでは望むべくもなく。腰に衝撃が走り、目に水が入る。
不審に思いつつ目を開くと、そこには彼女の姿があった。
腹部に腰掛けられ、馬乗りにされていた。首元には彼女の両手が添えられている。
「……毎回、この台詞ばかりで申し訳ないですけど。どういうつもりですか」
「別に、気まぐれよ。……なんて嘘は通じないわよね。本当に真面目な話をしたいの」
「真面目な話、ですか。こんな体位で、格好で」
「ええ、もちろん。重要な話でさえ、水着姿でやる私たちには相応しいと思うわ」
「なるほど。おっしゃる通りです。それで要件は?」
こんな状況にもかかわらず、いや、こんな状況だからか。僕はひどく落ち着いていた。
それが信頼に起因するかと言われれば、違う。
率直に誤解を恐れずに言うならば、心地いい。まるで良い夢を見ている気分だ。
だって、彼女が感情をあらわにしているのだから。
今まで接してきた彼女はあくまで番組が用意した『西城彩香』であり。
目の前にいる人間の本性が一切分からなかったのだ。
いや、厳密にいうのならば、彼女は自分のことを語ることはあった。
しかし、それはあくまで『西城彩香』というフィルターを通しての語りであり。
それは『彼女』の言葉ではない。それがどうにも引っかかっていた。
だが、今の状態は『彼女』の意志、もしくは感情によって起こった現象である。
この事実が僕をどれだけ安心させたのか、うまく語ることはできない。
だけど、この瞬間、暗い幸福と興奮を感じたのは確かだ。
ゆりかごに揺られるような気持ちでいると、彼女は真剣な顔つきでこう切り出した。
「智也君、私に隠し事をしているでしょ」
「……どうして、そう思ったんですか?」
「あら、軽く見られたものね。アイドルっていう職業柄、人の嘘にはちょっとだけ敏感なの。人は嘘をつくと、ちゃんと目印がでるのよ。言葉に」
「どこか気に障る言葉でもありましたか。このプールの中で」
「いえ、その逆よ。智也君、私のことを一回も『彩香さん』って呼んでないのよ。それがどうにも気になってね。なにか裏があるでしょ?」
「なんでもお見通しってわけですか」
「なんでもは見通せないわ。だけど、『幼馴染で婚約者、未来の旦那さんにしてご主人様であるドッキリ被害者』のことならば――」
ここまでよどみなく語っていた彼女だったが、ここで言葉を詰まらせる。
しばらく僕の首筋に手をあてて考えた後、こう続けた。
「――ううん、智也君だからわかるわ」
心臓が止まるかと思った。サラッとそんな事を言わないで欲しい。
だって、その台詞は今僕が一番聞きたかったものなのだから。それに満面の笑みを付け加えられちゃ、理屈抜きで惚れてしまう。本当に噓は通じないみたいだな。
腹の上に乗っかる彩香さんにはおりてもらって、会話を仕切り直す。
「それでなにを隠していたの?」
「解決した秘密と、これから解決すべき秘密があるのですけど。どっちから聞きますか?」
「じゃあ、解決した秘密から」
「……さっきと逆じゃないですか」
「安心できる話から聞きたいときもあるのよ」
「気まぐれなんですね。そういうところ、嫌いじゃないですけど」
「それで、解決した秘密ってなに?」
「それは、『彩香さんの本名について悩んでいる』という事実を隠していました」
「というと、私の素性を知りたかったわけね」
「ええ、その通りです」
「やっぱり気になるわよねぇ。私が逆の立場だったら、知りたいと思っちゃうもの」
「僕が彩香さんの立場ならば、絶対に知られたくない秘密ですけど、ね」
再三繰り返すが、僕らの関係性はあくまで『エセ恋TV』における設定である。
彩香さんが本当に僕の『幼馴染で婚約者、未来の花嫁にしてメイドの美少女』でないことからもわかるだろう。関係性は番組の終了と共に消えてなくなる。そのような観点から、演者の個人情報は秘匿されるべきである。そういう建前が理解できる。
しかし、ドッキリ被害者としては、一か月間も共に生活を過ごす人間が態度を偽っていて、なおかつ、素性にあたる情報の一切を知らされないというのはストレスだった。
「先に解答しておくと、『エセ恋TV』と交わした契約の関係上、番組の収録中に自ら個人情報を智也君に伝えることはできないの。ごめんなさいね」
「……やはり、そうですよね」
「でも、解決した秘密って言っていたよね。どういう心境の変化かしら」
「それは『西城彩香』を演じているあなたの素を垣間見たからですかね」
「ああ、本当に知りたかったのは、額面的なところじゃなかったわけね。盲点だったわ。もう少しガードを薄くしたほうが、智也君からすると安心できたわけね」
「ええ。ですが僕もどうやら気負いすぎていたみたいですね」
「あら、私に馬乗りにされるまで気付かなかったの?」
彩香さんが謎を聞き出すふりをして、本当に聞き出そうとしていたのは。
僕こと録藤智也の気取らない姿だったらしい。これじゃ、まるで賢者の贈り物だな。
「この際だから暴露しますけど、オフの僕はこんなに聞き手に回りませんし、だからといって話がうまいわけじゃないんですよ。喋り方一つだって意識しなければ汚いですし……性格だって悪いですよ。それこそ全国放送できないぐらいに。背伸びをしているだけなんです」
「……ここで私の台詞を持ち出してくるなんて、性格が悪いわね」
頭を抱える彩香さん。しかし、口元からは愉快さがあふれ出していた。
ならば、僕だって、肩の力を抜くべきだろう。まずはこの言葉使いから。
「だから、今この場だけは気取らずにいこうぜ」
「たまには良いこと言うじゃん。智也」
「たまに言うからいいんだろ、彩香」
と敬語を取っ払ってみたものの、それこそお互いに無理をしていたようで。
途端に何も話せなくなってしまった。どうやら、噓から始まった僕らの関係性であったが、いつの間にか本物と同じ価値を持っていたようだ。気恥ずかしいので絶対に口にしないけど。
「あ、今いいアイデアが浮かんじゃった」
「え~、ほんとですか? 初日から秘密を暴露しちゃう彩香さんですよね」
「……とかいう男には絶対に教えたくないアイデアなんだけど」
「ああっと、その後も柔軟なアフターケアが行える彩香さんでしたか」
「本当に現金な男ね。まあ、特別に教えてあげるわ」
そう言って、彩香さんは腕に巻いていたロッカーキーを取り外した。それは男子更衣室のものと変わらず、特に変わった点はない。違いはせいぜい、色が違う程度だろう。
これがどうしたというのか。受け取ったものの、小首をかしげてしまう。
「そこにロッカーナンバーがあるじゃない。私は『3138』よ。この数字は番組の人間は知らないわけでしょ。これをなにかのパスワードにできそう。ちなみに智也君の番号は?」
「ええっと、『0610』ですけど、それはいいアイデアかもしれません」
「でしょ。もっと褒めてもいいのよ」
「ですけど、これをなにのパスワードに使うのですか?」
「それは……緊急連絡用のパスワードよ。もし不測の事態が発生した際には、このパスコードをつけたうえで打てばいいってわけ」
「それなら、番組にばれちゃいけない情報も共有しやすいですね」
なんて返事をしたけど、本心は違った。
番組の意図が絡まない秘密の共有。その事実が嬉しかった。
「まあ、寄り道はこの程度にして。もう一つの秘密について話しましょ」
「これから解決すべき秘密ですけど。彩香さん、実は気づいているのでは?」
「察しがいいわね。今日の本題はこれだと思っているのだけど」
「奇遇ですね。僕もこの問題こそ、根幹に位置していると思います」
小さくうなずくと、彩香さんは意を決したようで、ゆっくりと口を開いた。
「――『録藤綴』に関することでしょ?」
「ええ、そのうえで『エセ恋TV』の話がしたいんですけど」
「最初からそのつもりよ。仮に私たちの仮説が当たっているとすれば、『エセ恋TV』の根幹を揺るがす事実よね。その認識で間違いない?」
「……間違いありません。たぶんこれが正解なのでしょう」
実をいうと、しばらく前からこの仮説にはたどり着いていた。
今まで随所に抱いてきた疑問点だけど、そのうちのいくつかは未だに解決していない。
たとえば、誰が自宅に隠しカメラを設置した人とは。
たとえば、墨守に電話で指示をした人とは。
たとえば、彩香さんに伏線の回収を指示した人とは。
たとえば、『エセカイ転生系』の脚本を送りつけた人とは。
たとえば、僕の恋愛遍歴を把握できる人とは。
ここにおける『人』の正体が同一人物であるとすれば。それを実行できる人間はこの世にどれぐらい存在するのだろうか。僕はたったひとりの人間の顔が思い浮かんでいる。どうやら、彩香さんも同じ解答へと至ったようだ。
信じたくはないけど、これ以外に当てはまらない。そんな解答。
それはもちろん――
「――姉さんですよね」
「ええ、録藤綴こそPPP放送『エセ恋TV』の脚本家なんだと思う」
彩香さんは淡々とした口調で告げた。
その言葉はやはり僕の想定していたものだった。
すべてが仕組まれた『都合の良い』恋物語。
その意味を知るときがやってきた。
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