第25話 西城彩香という乙女(中)

 更衣室は緑色のタイルで囲まれていた。この施設はどうやら僕よりも年上のようだ。バブル期みたいな意匠と、タイルにしみついた塩素の臭いが証明していた。先程とのギャップから考えるに、どうやら玄関部分だけリニューアルしたのだろう。


「……上っ面だけ綺麗にしても仕方ないのに」


 そう思いながら、カバンをロッカーに突っ込む。

 素肌に張り付いたシャツを強引に脱ぐ。リハーサルで思ったよりも汗ばんでいたようだ。

 共書によれば、よい照明器具を使っているがゆえにステージは暑くなるらしい。ライトの持つ熱量は案外バカにならないようで。今、水を浴びたら気持ちいいだろうな。


 ズボンをずり落しながら、ふと思案する。彩香さんのことだ。

 彼女がどういう人なのか。その一点に尽きる。


 現在、『西城彩香』は『幼馴染で婚約者、未来の花嫁にしてメイドの美少女』という役を演じている。その役柄のうえで、裏事情を把握した僕と協力関係を築いている。その関係性に関して不満があるわけではない。不測の事態のなかで、彼女はよくやってくれている。


 ――ずっと疑問に思っているのは『西城彩香』を演じている『中の人』の正体だ。

 僕が『中の人』について、把握している情報はごくわずかだ。

 曰く、彼女は地下アイドルであること。

 曰く、彼女はその現状を快く思っていないこと。

 曰く、彼女はプロデビューのために『エセ恋TV』に出演していること。

 せいぜい、この程度である。一か月間も同棲しているというのに。

 その仕事ぶりや、夢に対する真摯な態度は目にしているけれど、その実、『中の人』が僕にどのような感情を抱いているのか、把握できない。それがたまらなく怖かったのだ。

 今までの対応で正しかったのだろうか、本当は嫌な思いをさせているのではないか。


 そう考えてしまうと、夜もよく眠れない。気になって仕方ない。

 でも、そのように考えるのは、もうやめることにした。

 だって、彩香さんは僕のパンツを洗ってくれていたのだから。

 知らない男のはいたパンツを。素知らぬふりして。一か月間、きちんと。

 しかも、脚本には一言もそんなことは書かれていないんだぜ。

 結局、本人がなんとも思っていない献身が一番グッとくるものだろ?

 この行為すら信じられないならば、人生最初からやり直せ。


「……ほんと、ツボを抑えるのが上手だよな。彼女は」


 着替えを終え、コインロッカーを閉める。うんと肩を伸ばしてカギを引き抜く。ふとロッカーナンバーを確認すると、『0610』だった。名字にも読める。ちょっとした幸運を感じながら、シャワーを浴びる。殺菌用なのだろうか。この時期にはちょっと冷たい。


 肌をチクチクと刺す冷たさを感じながら、結論を出す。

 西城彩香の仮面の下とかどうでもいい。

 僕は自分の出来る範囲で、彩香さんを信じればいい。

 そう考えるうちに、水の勢いが弱まっていった。どうやら時間制限つきのシャワーらしい。


 濡れた髪をざっくりとまとめ、水泳帽の中へと押し込む。ぐしゃぐしゃとして、取り留めのない思考と一緒に。ちょっとだけ肩が軽くなった、気がした。

 その足取りでプールへと出た。

 市民プールは僕が想像していたよりも、ずっと豪勢だった。


 二十五メートルのレーンを複数有する大型プールはもちろんのこと、未就園児を対象とした底の浅いものや、飛び込みの練習用、大型のウォータースライダーを完備。さらにサウナや温水ジャグジー、ミストシャワーなんかも置いてあった。こんな穴場があったのか。

 しかし、納税者たる市民には周知されていないらしく、大型プールで長距離水泳をしているガチ勢を除いて、利用者の姿はみられなかった。というわけで彩香さんは準備中のようだ。


 浅いプールのふちに腰掛け、足でパシャパシャと水をはじいて待機。

 しばらく無心で水の感触を楽しんでいると、女子更衣室から人影が出てきた。

 ドクリと心臓が跳ねる。どうしてそんな気分になるのか。今までだって、こういうサービスカットはいくらでもあったじゃないか。それなのにどうして動揺しているのか。冷静になれ。


 脳内議会は大混乱。理性と良心、そしてほんの少しの下心が複雑に交差する。

 内心での内乱が勃発すると同時に、彩香さんはやってきて、僕の隣に座った。


「おまたせ。髪の毛をまとめるのに手間取っちゃったの」


 健全な青少年として、彩香さんの水着の所感を述べると――

 健全なラインのギリギリで踏みとどまったスクール水着だった。

 全国で広く使用されている紺色なもので、フェチが好む古いタイプのものではない。つまりは一般的なスクール水着。特出すべき点はない。だがしかし、目が離せない。

 普段、左右に結ばれた金色の髪は、後ろでまとめられて水泳帽の中にしまわれて、一切露出していない。それに反して、普段はなかなか露出しない太ももを大胆に晒している。

 そのギャップに僕の心は、ぽっかぽか。内心での内乱は下心の勝利で終わった。


「とても似合っていますよ、彩香さんっ!」

「うわぁ~、これまでの中で、一番いい表情しているわよ」


 そう言いながらプールにつかり、肩をすくめる彩香さん。その表情は僕なんかでは読み解けない、複雑さがあった。まあ、多少なりとも侮蔑の色が入っているのは確かだけど。


 いや、本来ならこのまま重要な話をするべきなのは重々承知している。こんなところで突っかかっている場合ではないのだ。

 しかし、カメラの監視がない環境で、素の状態の彩香さんとこうした形で対面するのは、緊張するのだ。しかも、スクール水着で。気持ちの整理がつかないのは、僕だけではないはず。


「スクール水着が好きなんでしょ。こういうのってたまらない?」

「まあ、かなり」

「……このドヘンタイ」


 猛禽類のような目つきで、切れ味抜群の罵声を浴びせる彩香さん。その台詞とは裏腹に、どこか、狩りを楽しんでいるような雰囲気を醸し出している。ずっと前に彼女が自身について『性格は良くない』と語っていたが、どうやらこの態度に起因するらしい。僕は好きだけど。


「……まったく。これほど喜んでくれるなんて計算外なんだけど」


 なんてため息を吐く彼女だったが、そりゃ、この姿を見て悲しみはしないさ。

 というか、そもそも、スクール水着は反則だ。性的嗜好に突き刺さる。

 仮に番組側がこの最終兵器を用意していたら、僕はどうなっていたのだろうか。そう考えると興奮よりも恐ろしさを感じる。今回は脚本家に助けられたな。たぎる気持ちを押し殺して、テンションを落ち着けていく。

 ふと彼女を見ると、疑問点が浮かんだ。


「その水着のことなんですが……」

「あら、どうしたのかしら。スクール水着愛好家の智也君。旧スクール水着じゃないことに関する抗議は一切受け付けないわよ」

「そうじゃなくて、胸の刺繡に『最上』って書いてませんか?」

「……ああ、やっぱり気づくわよね。見逃すわけないかぁ」

「なにか事情でもあるんですか?」

「これって私物なの。『錬極学園』で実際に使っている、ね」

「……っ!」

「そのリアクションってことは、墨守さんから説明を受けたわけね」

「ちょ、ちょっと待ってください。それってどういう……」

「おっと、ちょっと先走っちゃった。ごめんなさいね。順番に説明するわ」


 彩香さん、いや、この場合は『最上さん』というのが正しいのか。

 ともかく『西城彩香』を演じる彼女は説明を始める。


「まず、協力者の正体から話しましょうか。どうやら、気づいているみたいだけど」

「墨守梨々花ですよね。僕らの事情を把握していて、なおかつ、利益もないのに協力してくれる奴なんて、ゴシップモンスターぐらいですよね」

「その通り。今回の情報を伝えてくれたのは、彼女よ。後で感謝しなくちゃね」


 たしかに、その通りだ。墨守のことだから今回も裏切られる可能性を考えていたのだけど、あの時部室で聞いた言葉には偽りはなかったらしい。

 思えば、墨守も番組に監視されていたわけで、そのなかで取れる行動にも限りがあったのだろう。墨守に抱く印象を改める必要もあるかもな。


「……どの時点で墨守が関係者だと知りましたか?」

「ああ、最初から内通していた可能性が気になるわけね」

「どうしてもそこが引っかかっていまして」

「安心なさい。彼女の正体を掴んだのは、智也君と同じタイミングよ」

「……じゃあ、同じ仕掛人なのに知らなかったと」

「そういう性根の腐ったことをするのが、この番組の連中よ」


 監視下にないのが嬉しいのか、彼女は率直な意見を述べる。主に番組に対する不平不満を。

 彼女が置かれた環境を鑑みると、おかしな主張ではないのだけど。

 そのストレートな物言いは普段知る彼女とは異なるので、ちょっとだけ面白い。スクール水着で言うのだから、ギャップがある。

 個人的にはそうした態度のほうがよほど自然で絡みやすいのだけどな。誰だよ、あんなフィクションみたいな女を書いたのは。


「それで、良い話と判断しづらい話の二つがあるのだけど。どちらから聞きたい?」

「……では、良い話からで」

「あら、都合のいいほうから聞くタイプなのね」

「都合の悪いのは先に聞きたいんですか。意外ですね」

「まあ、悪い話は早く聞かないといけない場面が多いから。経験からくる癖ね」

「……と言いますと」

「同じグループのメンバーが音信不通になった話とか、早く聞いてよかったわね」

「どんな状況ですか。ちなみにその件はどうなりましたか?」

「見つかったわよ、彼氏の家にいたらしいわ。一応、交際は禁止なんだけどね」

「……ああ、それは厄介なパターンですね」

「結局、その子が運営会社と揉めて辞めちゃったわ。ダンスが凄く上手だったのに……」


 彼女は言葉を詰まらせる。それはかつての戦友に黙とうしているのか、それとも志半ばで倒れた者を嘲笑しているのか、僕にはわからない。

 けれど、こうした執念じみた願望こそ彼女がここにいる理由なのだろう。


「そんなに見つめてどうしたのよ。私の恋愛遍歴が気になるわけ?」

「そういうわけでは。でも、聞けば教えてくれるんですか?」

「嫌よ。けれど、アイドル稼業に集中していたのはホントよ」


 今までの行動から推察でもしてみれば。そういって水をすくって、僕にかけた。

 実際、彼女が今までどんな人を付き合ってきたのか。それは重要ではない。

 だって、僕は彼女の本名さえ知らないのだから。水着が私物であるという情報を鵜吞みにするなら、『最上』という姓か名を持つのだろうけど。


「ちなみに私は智也君のことは、だいたい把握しているわよ。脚本に書いてあるぶんは」

「……それは恋愛遍歴も含めてですか?」

「いえ、ありもしない遍歴に関しては知らないわよ」

「……あらら、これは、本当に把握しているパターンですか」

「智也君のスリーサイズ以外わね」


 彼女はククッと喉を鳴らす。その表情は愉悦に歪んでいる。これは性格が悪いぜ。

 困ったことに、僕に関する情報はすべて筒抜けのようだ。それもちょっと調べただけでわかる上辺だけでないようで。『不安なときに右を向きがち』という情報に関しては、本人さえ知らなかった。よほど優秀な探偵を雇ったのか。それとも――

 しかし、ここでその話をするのは早い。段階を踏んだうえで話がしたい。

 というわけで、僕はさりげなく話題を本題に戻した。


「それで良い話っていうのは?」

「どうやら、収録が順調らしいの。来週の文化祭をめどに撮影を終えるそうよ」

「えっ、撮影期間は三ヶ月のはずでは?」

「ラブコメノルマが早期に片付いたのが、影響したみたいよ。智也君がずいぶんと協力してくれたからね。感謝の言葉もないわ」

「……ああ、それはどうも」


 とりあえず相槌をうつ。だけど、実感は湧かない。

 永遠に続くと思われた同棲生活――つまり、『エセ恋TV』の収録は終わりに向かっているらしい。この番組に協力する動機は彼女のプロデビュー。それ以外はない。

 だから僕はここで喜ぶべきなのだけど。なぜだろう、若干の虚しさが去来するのは。


「思えば、あっという間だったわね。この収録も」

「ですね。初日はどうなることかと思ったんですけどね」

「智也君には悪いけど、私のほうが混乱したわよ。まさかあっさり正体がばれるとは思ってなかったから。ほんと、心臓が止まるかと思ったわ」


 振り返ると、いい思い出のように感じるのだから不思議だ。

 彼女との恋人ごっこは正直悪くなかった。つまらない高校生活に彩りを与えてくれた。その件だけは『エセ恋TV』に感謝してもいい。ほんの少しだけ。

 カメラがないと、どうしても感傷的になっていけない。気持ちを切り替えていかないと。


「それで、もう一つの話ってなんですか?」

「判断しづらい話ね。これは確定情報ではないだけど」

「それでも共有すべき情報なんですね」

「ええ。最終回となる文化祭に影響を及ぼすかもしれないの」


 そう言って、彼女は小さくうつむく。

 しばらく思案顔をした後に、意を決したように切り出した。


「……劇団色彩の『鏡国有栖』さんが復帰したそうよ」

「怪我が快方したんですね。それは良かった」

「けど、私たちとしてはフクザツね。悪い言い方をすれば、歓迎できない」


 彼女は強い言葉で心境を吐露する。鏡国有栖は本来、『幼馴染で婚約者、未来の花嫁にしてメイドの美少女』役、つまりは『西城彩香』として、僕の前に現れる存在だった。


 鏡国有栖が負傷したことにより、彼女は『西城彩香』となった。

 つまり、彼女にとって、鏡国有栖というのは越えるべき目標であると同時に、ライバルであるという奇妙な構図が成立していたのだ。


「鏡国有栖さんの存在がフクザツなのはわかりますけど。『私たち』というのは、一体どういうことですか?」

「墨守さんの話によれば、最新版の脚本に『鏡国有栖』の名前があったらしいの」

「それは『エセ恋TV』に、ですよね」


 彼女は小さくうなずいた。

 そして、その場に力なく倒れる。水をソファーにして、自重を投げ出した模様。カメラが回っていないからって、それはあんまりだろ。主に僕が困る。視線をどこに向ければいいのか。


 しかし、全部を投げ出したくなる気持ちはよくわかる。

 僕は共書から聞いていた鏡国有栖の情報を思い出す。

 鏡国有栖の演技力は卓越している。それは全国で放映されている青春ドラマの数々が証明している。基本は作品に合わせて演技力を調整している彼女だが、クライマックスにときおり覗かせる演技力は、主人公である男性俳優を圧倒する。観客の視線を飲み込む演技をする。


 そんな桁外れた才能を持った彼女を『エセ恋TV』に投入すると、どうなるのか。

 まず間違いなく、僕らの裏事情が暴かれるだろう。たとえ、彼女がそれを意識していなかったとしても。僕のリアクションから、事情を把握していることを理解するだろう。

 現段階で救いなのは、彼女が本当に出演するかわからないということだけだ。


「憧れの人が敵になると思ってもらえれば、私の気持ちがわかるかしら」

「完全にバッドニュースですよね、これは」

「いえ、そうでもないわよ。希望だってあるの」

「希望? この状況下において希望的なのは観測だけですよね」

「ほら、この番組の主演って一応、私でしょ」

「一応じゃないと思いますけど。それがどうしたんですか?」

「なら、鏡国有栖さんは主演になれないわけじゃん。この番組では」

「……ああ、そうか。今の状態では鏡国有栖が出演してくれる可能性が低いのか」


 そもそも、『エセ恋TV』は鏡国有栖を主演にするつもりで、出演オファーをしている。

 その条件を満たせない今、彼女が出演してくれるのか。普通に考えれば否だろう。

 しかし、この番組はPPP放送の肝いり企画である。もしかしたら名物プロデューサーならば、脇役であっても鏡国有栖を出演させるかもしれない。可能性の話だけど。

 そう考えると、『判断しづらい話』という評価は的を射ている。


「実際、どのぐらいの確率で乱入してくるでしょうか?」

「そればかりはわからないわ。けれど、私たちは出来ることをやっていくだけでしょ」

「ええ、もちろん。そのための協力はぜひ」


 ここまでの一か月、彼女と共にラブコメをしてきたのだ。ここで失敗はしたくない。そのためにできることをするだけだ。特にドッキリ被害者にすぎない僕なんかは。

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