第19話 抜き打ち、残姉さん(上)

「ひさしぶりねぇ~、智くん。……どうしちゃったのぉ、そんな疲れ切った顔しちゃってぇ。なにかぁ、悩み事を抱えているのぉ? うんうん、わかるわぁ。だってぇ、智くんのお姉ちゃんなんだもん、なんでも相談してねぇ。スッキリさせてあげるからぁ」

「姉さんの存在が悩みの種だっ!」


 酔っ払いみたいな面倒さを遺憾なく発揮する姉さん。これで素面だからタチが悪い。カラオケでオールだったのか、完全に深夜テンション。思わず顔をしかめてしまう。まさか、姉さんがわざわざ実家に帰省してくるとは。これは想定外だった。キリキリと痛む胃を撫でる。


「こらぁ~、お姉ちゃんにそんな汚い言葉を使ってぇ。反抗期なのかしらぁ。困ったわぁ」

「困っているのはこっちだよ。大学生になってから急変しやがって。しかもダメな方向に」

「そっかぁ~、智くんは目つきが鋭かった時期のお姉ちゃんが好きだからねぇ」

「別に。姉さんのことが好きだった時期なんて存在しねーよ」


 けれど、天才だった時期のほうがマシだったのは確かだ。ここまで失墜しきった姿は見ているこちらが悲しい気持ちになるから。

 十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人なんていうけれど、姉さんは二十歳を手前に急速にドロップアウトした。大学生になると同時に。まるで谷から落っこちるように。まるであらかじめ決められていたかのように。凡人に転じた。


 そんな姿を見て、複雑な感情を抱かないかといえば、嘘になる。口先では「敵わない」だの「歯向かうだけ無駄」と呪文のように繰り返してきた僕であったが、その実、姉さんにはいつか勝ちたいと心の隅で思っていた。なんらかの形をもってして。そんな僕の気持ちを置いて、姉さんは駄目になった。現在の破滅ぶりは大学生という、人生のモラトリアムを謳歌できる時期ゆえに許される振る舞いであり、規則正しい高校生である僕の圧勝だった。勉強も。運動も。部活も。すべてに関して。話にならない。


 だから僕は今の姉さんが嫌いだ。


「というか、なんで酔っ払いみたいなんだよ。素面のくせに」

「ほらぁ~、エナジードリンク飲んでるからぁ。気持ちよくなっちゃってぇ」

「カフェインで酔えるなんて、お花畑さんは姉さんだよ……」


 墨守は彩香さんを追いまわす前に姉さんでも取材してろよ。よっぽど面白い話が聞けると思うぜ。というか、高校生の時は僕がエナジードリンクを飲むと、長ったらしい嫌味を言ってきたくせに。自分だって飲んでるじゃないか。というより飲まれてるし。


「なに廊下でブツブツ言っているのよ。気味悪いわよ。……ってあれ?」

「あらあらぁっ~! 智くん、この素敵なお嬢様は誰なのぉ!」

「……最悪だ」


 僕の独り言を咎めにきた彩香さん。未知との遭遇。軟体動物みたいな姉さんを視界にとらえると鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。そして宇宙の真理に気がついた猫みたいな表情に移行する。しばらく時間が経過すると、こちらにすがるような視線を送ってきた。


 彼女がこのようなリアクションになってしまうのも無理はない。深夜二時に知らない酔っ払いが廊下に突っ立っていたら、そんな顔になるよな。


「と、智也君。そちらの酔っ払っている女性っていうのは……」

「ええっと、僕の姉、録藤綴です。ほら、挨拶」

「はじめましてぇ。智くんのカノジョちゃん。あなたのぉ、未来の義姉こと綴よぉ。一応、大学生みたいな感じなのぉ。これからもぉ、末永くお幸せにぃ」

「は、はぁ。……西城彩香です。智也君の恋人です。よろしくお願いしますね。義姉さま」


 やたらと丈の短いフリルスカートを揺らして、ペコリと頭を下げる彩香さん。その表情は明るく、先程までの動揺は一斉見られない。さらにさりげなく姉さんの手を握っているし。

 いや、それどころか、姉さんをちゃっかり『義姉さま』呼びしていたぞ。これなら僕らが抱える秘密の関係性が露呈することはなさそうだ。とりあえず一安心だな。


 そう考えて安堵感に身をゆだねていると、姉さんはふと首をかしげていた。


「でもぉ~、智くん、いつの間にカノジョなんてできたのよぉ。八月末は『カノジョ? いないけど。姉さんには関係ないだろ』って言ってたよねぇ?」

「あれ、そんなこと言ったっけな」


 疑念が混じった鋭い視線を突き刺してくる姉さん。それはかつて天才と呼ばれた時代の名残みたいだ。腐っても鯛とはよく言ったものだ。厄介この上ない。

 彼女の言う通り、僕は八月末に行われた家族での外食に際して、そのようなことを口走った記憶があった。なにやら執拗に問いただしてくるので、追求を避けるために事実を喋ったのだ。


「それにぃ~、カノジョちゃんとぉ、随分特殊なプレイに興じていたみたいねぇ。こういう身体のラインが浮き出るようなぁ、きわどい衣装でぇ、楽しんでいるわけぇ?」

「姉さんが考えることは断じてねーよ。それに僕が好きなのはスクール水着だし」

「へー、智也君はそういうのが好きなんだ。……ヘンタイじゃん」


 おっと、姉さんの対処に集中していたら、思わぬところで失敗してしまった。こういう欲望をなんとか押しとどめてきたのだけどな。くそ、そのぐらいのサービスがあっても罰は当たらないと思うのだけど。


「智くん、カノジョちゃんとの間にぃ、なにか隠し事をしていないかしらぁ?」

「そんなまさか」


 ふふん、と鼻を鳴らし、こちらをどや顔で見つめてくる姉さん。曖昧な返事しかできない僕。

 どうやら思っていたよりも姉さんの勘は鋭いようだ。家事や炊事はまったく出来なくまったというのに、天性の洞察力は衰えていないらしい。エナジードリンクによる酔いのなかでも、論理的な思考を続けている。いや、カフェインってそういう用途で使うのだけど。


 しかし、これは思った以上にピンチだ。このままでは墨守の時みたいに、グダグダな攻防戦が繰り広げられる可能性がある。こんな夜更けにそれはまずい。特に今まで一睡もしていない彩香さん。いつ余計な言葉を口走るかわかったものじゃない。なんとかして姉さんの気を逸らさないと。彩香さんの夢が途絶えてしまう。


「まあ、僕のカノジョについて訊きたいのはわかるけど」

「夜食でも食べませんか? 義姉さま」

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