第262話

 いつもよりも遅めにセットした目覚ましが頭上についた二つの鐘を忙しなく叩き、俺を夢の世界から引き戻す。


 窓から差し込む光が少し暗い。

 天候を気にしながら時計を確認すると、短針は九時を指している。

 この時間に目覚ましを設定したのは、裏田君の出勤が十一時の予定だから。それまでに朝食を済ませたりするつもりだ。


「ミミル、朝だ。朝食だぞ」

「……ん、んんっ」


 ミミルは俺がいなくなったベッドの上でごろりと一回転。でも目覚める様子がない……。

 相変わらずの目覚めの悪さだ。

 先に俺が眠りについてるから、そのあと直ぐに眠りにつけないとかだろうか?


 昨夜のうちに決めたことは少ない。相手が裏田君ならミミルを紹介しただけで深いところまで突っ込んで聞いてこないだろうと思ってのことだ。

 俺の身に万が一のことがあれば裏田君が店を引き継ぐということになれば本当のことを話せばいい。

 それよりも明日以降の女性陣の方が心配だ。いろんなことを質問されるに違いない。


 雲が抜けたのか、部屋に強い日差しが差し込んできた。どうやら今日も天気は良さそうだ。


「ミミル、起きろよ。朝食抜きにするぞ」

「――!」


 掛け布団を被ったまま上体を起こし、眩しそうにミミルが目を開く。

 まったく、食べることになると目を覚ますのはいいが、店がオープンしてからスタッフに迷惑をかけないか心配になってくる。


「……ん、おはよう」

「おはようさん。顔洗うぞ」

「ん、起きる」


 二人して洗面台へと移動し、交代しながら顔を洗い、歯を磨く。

 俺はいつものように歯磨きしながら如雨露じょうろを片手にハーブへ水遣りを始める。


「……ミミル、やる」

「お、おう」


 ミミルも水遣りをしたいらしい。

 満タンに入った如雨露じょうろはなかなか重たいものだが、ミミルは片手でヒョイと持ち上げる。身体強化しているのだろう。

 初めてだというのに片手で歯を磨きながら器用に水遣りをしている。いや、もしかして俺の真似か?

 いやいやいや……ミミルは俺よりも百歳近く年上なんだから、そんなことはないだろう。


 口をゆすいで顔を洗い、ミミルに声を掛ける。


「朝食は外で食べるぞ」

「……ん、どこいく?」

「最初に御礼をしてから、近くで探そうと思ってるよ」

「お礼?」


 口をゆすぎ終え、ミミルは不思議そうに俺のことを見上げる。


「そう。商店街の先の神社に行って、話せるようになった御礼をした方がいいと思ってね」

「ん、わかった。着替えする」

「ああ、コンタクト」

「……ん、あとで」


 パタパタと走り去るミミルを見送り、俺はいつものように階下に下りてパン用酵母の様子を確認する。

 黄味がかった茶色だった酵母液が赤味を帯びた色に変わり、発酵に伴うガスのせいで液面から上にまで干しぶどうが押し上げられている。

 不純物も特に浮いておらず、とても良くできている……と思う。

 あとは焼いてみて、上手く膨らむかどうかだな。


『着替えが終わったぞ』


 ミミルから念話が届いた。

 離れていても連絡がくるのは実に便利だが、これに頼るというのも問題がある気がする。

 日本語を話せるようになったとは言え、いまの話し方だとまだ意思疎通には苦労しそうだ。見聞も広めてもらわないと、名詞と名詞を組み合わせた言葉、動詞の連用形を使った言葉はわからないと思う。加えて、英単語なんかも少しは覚えてもらわないといけない。日常的に飛び交う英語は多いからな。

 最低限の英語も俺が教えていくことにするか……。


 二階に戻って着替えを済ませ、ミミルと二人で外に出た。

 既に九時半を少し過ぎているので市場を通って行くことにする。アーケードの入口から中に入ると、ほとんどの店が営業を始めていて、多くの観光客が独特の雰囲気を楽しんでいる。


「……いい匂い」

「ああ、もう少し我慢だ」

「ん、がまん」


 牡蠣を焼く匂いに鼻をヒクヒクと動かし、漬物の香りに店頭へと引き寄せられる。串に刺さったタコや、焼きたてのだし巻き卵が店頭に並ぶのを見つけては、ミミルの歩く速度が落ちる。

 よだれでも垂れているのではないかと心配しながらミミルの手を引いて進むと、川魚専門店でうなぎを焼く甘く芳ばしい匂いが漂い、鼻腔から胃袋を刺激する。


「毎度!」

「あ、おはようございます」


 先日、魚を買った店だ。他の店が営業を始めているが、この店の商品はほとんど売り切れていて、既に閉店準備に入っている。


「もう何もないね」

「うちは業務用の店やさかい、この時間やとモノがあらしまへんわ」

「まあ、まだ開店前だし今日のところは何もないよ」

「さよですか……」


 商品が無いくせに店員の男は残念そうな声を出す。

 まあ、話し好きなところがあるのだろう。


「また来ます」

「へえ、また来とおくれやす」


 魚屋を抜け、著名な調理器具専門店の前に来る。既に外国人観光客でいっぱいだ。

 そこを後ろ手にミミルを引いて漸く市場を通り抜けた。


「……ひと、多い」

「ああ、酔いそうだよな。大丈夫かい?」

「ん、だいじょうぶ」


 目的地の天満宮まであと少しだ。

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