第二十五章 日本語

第241話

 拝殿前で参拝をした後のミミルの様子がおかしい。

 二礼二拍手一礼など、ミミルにとっては難しいことでもないと思うが、最後の一礼を忘れるほど慌てていた。

 それに、俺が念話を使ったかどうか確認してくるくらいだから、何か聞こえたのかも知れない。


〈何かあったのか?〉

〈うむ、周りのニンゲンが話す声かも知れんが……聞いたことがない言葉が聞こえた〉

〈言葉か……〉

〈しょーへいの話すニホン語とも違う気がするのだ〉


 聞いたことがない言葉というのが気になるな。ある程度言語として理解できる内容という風にも聞こえる。

 ここは世界遺産に指定されていないからそこまで外国人が来るわけでもないが、少なくもない。実際にすぐ近くにアジア系の観光客グループが数組いる。


〈ここは学問の神だから、試験を控えた者やその家族などがくるからな。それに、ニホン以外の国の人たちも多い。そんな人たちの言葉が混ざってるんじゃないか?〉

〈いや、明らかに一人の年配男性が話しているようだったが、実際に確認したわけではないな……〉


 ミミルは納得していないようだが、他に説明がつくものがない。

 実際、ミミルがお参りをしているときに横にいた俺には、周辺で会話する人々の声が雑音として耳に入っていただけだ。

 ミミルが聞いたという言葉をそのまま聞かなければ何を言っていたのかもわからないし、邪魔になるので先に進むことにする。


 本殿周りにも多数の彫刻が施されているので、先程の三光門のように彫られた動物たちのことをミミルに説明しながら歩く。

 現在の社殿は豊臣秀吉の遺言に基づき、豊臣秀頼が行ったものとされている。その頃の造営物だと、西本願寺や大徳寺の唐門からもんなども似たような彫刻が入っている。

 ここの彫刻にはそれに加えて中国の故事に因む仙人などもある。この中で俺が見て区別がつくのは亀仙*1くらいのもので、他は覚えていない。だからミミルには〈修行を積んで不老不死になったと言われる偉い人だ〉とだけ言っておく。

 どの彫刻が何という名の仙人かは自分で調べてもらうことにしよう。


 本殿を北西に抜けると見える絵馬掛け所の景色は壮観だ。五月の半分を過ぎると修学旅行生の姿も疎らになるが、それは既に春の修学旅行で訪れる中高生達の多くはもう参拝した後ということ。それぞれの想いが籠もったまだ真新しい大量の絵馬がずらりと並んでいて、その間にいくつかの鳥居が並んでいる。


〈またウシだ〉

〈イチガンジョウジュのウシ。撫でると一つだけ願いが叶うと言われている〉


 鳥居の奥、牛社にある「一願成就の牛」を撫でながら俺が説明すると、ミミルは手を伸ばし、目を瞑る。

 拝殿前で参拝しているときも時間を掛けていたが、今回もそれなりに長い。


 何をお願いしているのだろう。

 やはりエルムヘイムへ帰る方法だろうか。それとも、他の何かを願っているのだろうか。


 俺は何を願えばいいんだろう。


 直近の課題は店の経営がスムーズに軌道に乗ることだが、ミミルがエルムヘイムに戻れるのなら、それは喜ばしいことだ。その場合、俺一人で数百年ほど生きていかなければならなくなる……。

 ミミルと共に生きると約束したばかりだが、いざミミルがいなくなると思うととても不安になる。


 考えているとミミルの願掛けが終わったようで、俺の左手を小さくて柔らかい手がそっと握ってきた。


 ぼんやりと「一願成就の牛」を見つめていた俺は、その手の感触に自分の左側へと視線を向ける。

 ミミルの顔は何だかスッキリとしている。


〈何をお願いしたんだい?〉

〈ひ、秘密だ。そう言う、しょーへいはどうなのだ?〉


 少し恥ずかしそうに俯くと、ミミルは消え入るような声で尋ね返してきた。

 正直なところ、俺は特にお願いなどしていない。一応、ご先祖様を祀る場所だからな。


〈いつもありがとうございます……お礼だけしたんだよ〉

〈願いはないのか?〉


 ミミルの手を引いて歩き出すと、鳥居を潜って絵馬掛け前を通る。


〈このエマというのは、願い事を書いて吊るすものなんだ。毎年新しいものが十万枚、ここに掛けられる。そんなにたくさんのヒトが来て願い事をしているんだ。ご先祖様のお仕事を増やしちゃいけないだろう?〉

〈むう……〉

〈ミミルは初めて顔を見せるんだから、気にしなくていいんだぞ〉


 ミミルはなぜか口を尖らせている。

 そもそも、生まれた世界も、宗教的な信仰や価値観も違うのだから俺の先祖に気を使う必要などない。


〈しょーへい、恐らくあそこが最も魔素の残滓が濃い場所だ〉


 ミミルが指をさす先には周囲の建物とは異なる朱色を中心にしたお社――地主社じしゅしゃだ。

 魔力視がまだ効いているので魔素の残滓がよく見える。


 本当にここにダンジョンの出口があったのだろうか。


 地主社じしゅしゃを横目に通り過ぎる。


〈いいのか?〉

〈ああ、うん〉


 いまとなっては掘り返すこともできないし、掘ったところで千年以上前のダンジョンの跡など残っていないかも知れない。

 この地球上で魔素を確認できるのは俺とミミルだけだ。


 そのままミミルの手を引いて、北門から外へ出て一礼した。


【あとがき】

ミミルは拝殿で何をお祈りしたか……考えると、一願成就の牛で長く祈っていた理由がわかりますよね?

(ミミル視点、書くかもしれません)


この物語はフィクション​であり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。


*1 :中国の五神山に棲む不老不死の仙人と言われる「黄安こうあんのこと。大きな亀を背負っているので通称が亀仙人になっています。二条城唐門にもあります。


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