第242話
北門から出て、紙屋川を渡って住宅街を歩く。
この西側にはこの街の桜の名所……平野神社がある。ひと月ほど前であればここで様々な桜を楽しめたはずだ。珍しいところでいけば瓢箪桜――アーモンドの木なんかも植えられている。
ここは来年、ミミルを連れてくるとしよう。
神社北門を出て十分足らず。漸く目当ての店に到着した。
以前は上七軒に店を構えていた洋食屋さんだ。入口前に額縁に入ったメニューが掲げられている。
「ビ、フ、テ、キ……なに?」
〈ウシの肉を焼いたものだよ〉
単語の意味を伝えるという意味では、特に日本語で返事する必要はないだろう。
具体的にモノを指さして、その名称を答えたりするときだけ日本語で返事をすればいい。
ビフテキの語源はビーフステーキの略ではなく、フランス語のBifteck:ビフテッキに由来する――とこの店で俺は知った。まだ高校生の頃の話だ。
入口を開けてドアベルが鳴ると、厨房から店主の声が聞こえる。
「いらっしゃい」
ミミルが握る俺の左手にピクリと力が入った。
特に大きな声ではなかったと思ったが、少し驚いたのだろう。
「二人、お願いします」
「お好きな席へどうぞ」
入口を入って右側には赤いテーブルクロスが掛かったテーブル席がずらりと並ぶ。そこで食事を楽しんでいる人たちも数組いるのだが、正面壁際の席が空いているのでそこを選ぶ。窓際側に並ぶ座面が白いベンチソファへとミミルを座らせた。
窓のカーテンと俺しか見えない席よりも、厨房で忙しく働く店主を見て、料理ができあがっていくプロセスを目で楽しめる席の方がいいだろう。
店内は俺の店と同じで、白い壁にダークブラウンを組み合わせたモダンな雰囲気。俺の店とは違って洋風な建物なので、腰壁が貼られている。とても落ち着いた雰囲気だ。
フロア係の女性が水とおしぼりを運んできてくれた。
「こちらがメニューです。今日のランチはミックスフライです」
「ありがとう」
一枚物のメニューをテーブルの上に差し出した女性を、少し呆然とした表情でミミルが見つめている。
ミミルはどちらかというと人見知りだ。
何度か外出して一緒に買物などをしているが、店員から声をかけてくると言葉がわからないせいもあって、一歩、二歩と後ずさりながら俺の背後へと隠れてしまう。
その姿が可愛くて店員は余計にミミルに構いたくなるという悪循環が発生しているが、仕様がない。
〈ミミル、どうした?〉
〈……ん、あ、なんでもない〉
〈そっか。ビフテキを頼もうと思うが、汁物と食後の甘味がついてる方がいいか?〉
〈う、うん。それでいい〉
ミミルの様子が変だが、特に顔色が悪いということはない。
何かに驚いているようだが、この店に驚くようなことはないと思うので、俺が心配し過ぎているだけかもしれない。光の加減とか、角度とかで表情も多少は変わって見えることがあるからな。
「すみません、ビフテキセットを二つ。ミディアムレアでお願いします」
「はい、畏まりました。ビフテキセット、ミディアムレアでお二つですね」
「はい、お願いします」
フロア係は俺たちに向かって頭を下げると、反転して厨房へと注文を入れる。
「セット二つ。ミディアムレアでお願いします」
「はいよ」
小さな店なのでフロア係と店主のやり取りは結構派手に聞こえる。
ただ、こういった遣り取りが大きな声で行われる店は活気が出る。俺の店は結構店内が広いが、見習いたいものだ。
店員に向けていた顔を正面のミミルに戻すと、まだミミルは目を大きく開いて、驚いたような顔のまま固まっていた。
〈ミミル、どうかしたか?〉
また心配になってミミルに訊ねると、暫く固まっていたミミルが漸く再起動したようだ。
〈……し、しょーへい〉
〈ん、どうした?〉
少し焦ったようにミミルは俺に話しかけてきた。
〈ニホンゴがわかる……〉
〈どういうことだ?〉
ミミルはおとがいに指をあてると、何かを思い出すように視線を中に漂わせ、すぐに視線を俺の方へと向けた。
「いらっしゃい、こつら、きょう、ありがとう……」
〈ああ、うん〉
一部だが、たぶん俺と店主やフロア係の女性が交わした言葉だ。
「すみません、おながいします、はい、かすこまりました……」
〈うん、少し間違っているが、ニホン語だな〉
〈初めて聞く言葉だが、何を言ったかを聞き取れるようになっているし、意味もわかる〉
〈――え?〉
俺と店員さんとの間で交わした言葉……ランチ、ビフテキセット、ミディアムレアなどの言葉が入っていない。これらは全て外来語か和製外国語だ。
そういえば、俺の場合はエルムヘイム共通言語を覚えたのはダンジョン内で変な夢を見たのがきっかけだと思う。初めてダンジョン内で魔物を倒して加護を貰ったときと同様、強烈な痛みが頭の中を支配し、俺は倒れたのだ。
一方、ミミルは神社参拝中に聞いたことがない言葉を聞いたという。そのタイミングでミミルの中に何かが起こった……ということだろうか。
【あとがき】
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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