第230話
店を出て数分歩いたところにある窓がない無機質な建物の前。そこでミミルはワナワナと震え、興奮を隠しきれないでいた。
鼻息は荒く、目は爛々と輝き、見上げる目には期待感が満ちている。
〈し、しょーへいはジドウシャを持っていたのだな?〉
〈ああ、言わなかったっけか。もう乗らないと思って売る気でいたんだ〉
〈売るのか?〉
〈そうだな、無くても暮らせる街だからな〉
一等地とは言わないが、かなり交通の便が良い場所に居を構えている方だ。
南北に走る市営地下鉄、東西を走る阪急電鉄……少し足を伸ばせば京福電鉄に京阪電鉄。
飛行機に乗るとなれば少し面倒だが、どうしてもというならタクシーに乗ればいい。そんな立地だから車なんて必要ない。
〈私のせいではないのか?〉
〈いや、全然関係ないぞ。ダンジョンができる前から売るつもりだったんだから〉
〈そ、そうか……で、どうすればいいのだ?〉
〈ちょっと待て〉
俺の愛車は立体駐車場から出てきていない。
これが自動車を停めて置く場所だということを話しただけで、ミミルはこの調子だ。
でも、喜んでくれているのでこちらまで嬉しくなる。
中でゴンドラが揺れる音が聞こえる。
この音は結構な大きさだが、周辺はオフィスなども多く、苦情がでることもないのだろう。
小さな丸い車体なので身長がある俺には不似合いだと言う人もいたが、イタリアにいたときからずっとこのメーカーの車に乗っている。
ただ、小さいだけあって荷物があまり入らないのが辛い。店の備品などを買いにいっても、ほとんど持って帰れないのが残念だ。
〈ミミルはそこで待ってろ。動くんじゃないぞ?〉
〈う、うん〉
初めて自動車に乗るとあって、ミミルは興奮している。
前に飛び出さないように釘を刺したが、それでも心配だ。
車庫の中に入って運転席に座り、エンジンを掛けてゆっくりと車を出して停める。運転席から助手席側の窓を開けて気がついた。
「ドアの開け方がわからないか……」
仕方がないので一旦、車から下りてミミルのためにドアを開ける。
〈どうぞ、乗って下さいな〉
〈お、ああ、うん……〉
初めて自動車の中を見て、ミミルは少し緊張している。
〈大丈夫だ、ジドウシャは噛んだりしない〉
〈そ、そうだな……〉
ミミルはそっと助手席に小さなお尻を下ろし、そこに収まる。
いざ車に乗れるとなると興奮していたくせに、実際に乗り込むときになってビビるなんて……。
――ダンジョンの中の俺と同じじゃないか。
そう思うと、またつい頬が緩んだ。
〈またニヤニヤと笑って……変なやつだ〉
〈ああそうだ。俺は変なやつだよ〉
もう開き直りだ。
ミミルも俺も、似た者同士ってことだと思うとつい笑ってしまったんだ。
でもそれを話すと怒り出しそうな気がするから、やめておこう。
助手席側のドアを閉め、運転席へと戻る。
ガチャリとシートベルトをつけて気がついた。ミミルのシートベルトが未だだ。座ったときに締めればよかったが……。
〈ミミルもこの金具をここに引っ張って差し込んでくれるかい?〉
〈どこにある?〉
〈ここだよ〉
左手で助手席を持って、ミミルに覆いかぶさるような姿勢になってミミルのシートベルトを右手に持つ。
ミミルの髪から立ち上るシャンプーの香りが鼻を擽り、とても顔が近いことに気がつく。
ここで手を滑らせでもしたら大変なことになりそうだ。
そういえば、エルムという種族にとってキスとはどんなものなんだろう。また今度、気が向いたら訊くことにしよう。
絶対にいま訊くことではない。
〈この金具をここに音がするまで挿し込む。外すときは、ここの赤いところを押す――いいかい?〉
〈う、うむ……〉
少しミミルの顔が赤いが、ベルトを取る際に覆いかぶさることで息苦しくさせたのかも知れない。
〈だいじょうぶか?〉
〈う、うん……〉
〈ならいいんだが……〉
改めてルームミラーの位置を確認し、カーナビのスイッチを入れる。
「おはようございます。五月十六日水曜日、五時二十分。今日の天気は晴れ。最高気温は二十四度の予報です」
「はいはい……」
ボタンを操作して行き先をセットする。目的地は――あとのお楽しみだ。
〈ジ、ジドウシャが喋った……生きているのか?〉
ミミルはカーナビから出る女性の声に驚いたようだ。お風呂の給湯器についている声とは違い、かなり自然な人に近い音声だから驚くのも仕方がないかな。
〈これはジドウシャで移動するとき、目的地まで案内してくれるキカイだ。操作は自分でしないといけない〉
〈その丸い輪を使うのだな?〉
〈そのとおり。これを踏めば走り出し、こっちを踏めば止まる〉
〈私にも操作できるのか?〉
〈残念だが……〉
自動車の運転には免許が必要だ。
ミミルには国籍がなく、政府から見れば不法滞在者……俺の子どもにでもならない限りは免許は取得できない。
それに、百四十センチそこそこの身長だと物理的にも厳しそうだ。アクセルに足が届かないだろうし、運転席から前が見えない。
ふと見遣ると、ミミルは泣き出しそうな顔をしている。
でも、こればかりはどうにもならないんだよなあ。
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