第229話
ミミルに日本の挨拶を教えていると、窓の外が明るくなってきた。
緯度、経度から見た日の出時刻はこの時期だと四時五十分くらいだが、この街は東西と北側を山に囲まれた盆地。比叡山や東山があるので実際はもっと遅い。
それで明るくなったのだから、五時は過ぎているはずだ。
〈さて、勉強はこれくらいにしようと思うがどうする?〉
〈どうするとは?〉
〈朝食には早く、寝るには遅い時間だ。ダンジョンに戻って寝るか?〉
〈ふむ……〉
ミミルは顎を右手で持ち、左手でその肘を支えて思案げな顔を見せる。
〈しょーへい、海が見たい〉
〈どうした急に?〉
〈第三層の海の匂いがしないという話をしていたではないか〉
〈そうだな……〉
第三層の入口部屋から階段を上がると、そこは川の中州になっていて、正面は崖になっていた。崖の先はミミルの話によると海だということだったのだが、不思議と海の匂いがしなかったのを覚えている。
〈チキュウの海の匂いを知りたい〉
〈それは……少し厳しいかな〉
〈どうしてだ?〉
〈この街の周辺には海がないからな。片道で一ジカン以上かかる。それに……〉
いまが五時としても、業者が配達に来るまで最短で四時間しかない。
往復二時間あれば、大阪湾まで行って帰ってくることもできる。だが、埋め立てられ、コンクリートで固められた海を見て、ミミルはそれを海だと思ってくれるだろうか。
エルムヘイムのフィオニスタ王国というところの建築技術のことは俺はミミルから聞いていない。
どんな家に住んでいたのか、木造なのか、石造りなのか……埋立て等に使うコンクリートなどは存在するのか……。
そういえば、イタリアにいたときに聞いた言葉がある。
〝ローマン・コンクリート〟
パンデオン、
二千年前の建造物が現在も建っているという事実は、現代コンクリートよりも頑丈であることを示していると言えるだろう。
ゲルマン民族の大移動は四世紀後半から始まっている。
ルマン人がエルムヘイムに渡ったゲルマン人だとすれば、ローマン・コンクリートの技術がエルムヘイムに伝わっていても不思議ではない。
それに、エルムヘイムに陸地が少ないのであれば、干拓や埋立て等をして広げることを考えるはずだ。ローマン・コンクリートが無くても、埋め立てくらいをしている可能性は否定できない。
魔法があれば、干拓くらいお手の物だろう。
考えてみると、ミミルが暮らしたエルムヘイムでもそれなりに海岸線の形は変わっているかも知れない。
だから、大阪湾でもいい気がするのだが……。
海が見たいとなったら、やっぱ白い砂浜に打ち寄せる波、土産物に干物を並べたお店に、海鮮料理の店……だよな。
〈……それに、何だ?〉
〈それに、自然溢れる海岸へとなると更に遠くなる。片道二ジカンは必要だ。今日の予定のことを考えると、やはり厳しい〉
〈今日の予定はなんなのだ?〉
〈料理を提供するための食器がまとめて届くんだよ〉
〈そうか……〉
ミミルが目を伏せる。
見るからに落胆した表情と項垂れた首がミミルの残念な想いをこれでもかと語っている。
いまから四時間となると行動範囲は限られてくる。
この街に暮らすと邪魔なので売るつもりでいたが、今日は車を出して軽くドライブするつもりで出かけてもいいか。
〈仕方がないな……少しだけ出かけよう〉
〈いいのか?〉
ミミルが嬉しそうに笑顔の花を咲かせる。
これだ、この天真爛漫な笑顔。俺の心の中にある暗い部分が浄化されるような気になってくる。
〈八ジ三十プンまでに戻ってくる。急いで街着に着替えておいで。コンタクトを忘れずにな〉
〈しょーへいはどうする?〉
俺も完全に部屋着だから、デニムパンツとTシャツに着替えるつもりだ。ウォークインクローゼットの中に入って、二分もあれば済ませられる。
〈ミミルがコンタクトを入れている間に着替えるさ〉
〈わかった、着替えが終わったら声を掛ける〉
〈ああ、よろしく〉
既に話をしながらエスプレッソマシンのフォルダーやフィルター、ピッチャーは洗ってある。使ったマグカップも同様だ。
カウンターから出て、ミミルと共に二階へと向かう。
階段を上がって俺が事務所の方へと向かっても、ミミルは居室へと進んだ。
先に着替えるように言ったから、俺がついて来ないことを理解しているんだろう。
安心して事務所に入り、パソコンの電源を落とす。
事務所の明かりも消して出たら、ドアに鍵を掛ける。
『着替えたぞ』
念話でミミルが着替えが終わったことを伝えてきた。
部屋着、街着、共にミミルの場合はワンピースがほとんどだ。
すっぽりと脱いで、すっぽりと被るだけ。
そういうのが好きなようだ。
他にも買っているが全然着てくれないな……。
居室へと戻り、部屋の扉を開くとミミルがいない。洗面台のところでコンタクトを入れているのだろう。
ウォークインクローゼットに入り、俺も簡単に着替えを済ませた。
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