第228話
次の瞬間、ミミルの表情は満面の笑みへと変わっていた。
そのコロコロと変わる表情を見ているだけでも全然飽きることがない。
〈しょーへい、〝イマナンジデスカ〟のナンジは、ナニとジが繋がって発音が変わったのか?〉
〈お、そのとおりだ〉
俺の肯定の言葉にミミルは明らかに嬉しそうに口元を緩め、何やら見たことがないポーズをとっている。両手を合わせてお祈りを捧げるようにも見えるが、手の動きが雑だ……これはミミルなりに喜びを表現しようとしているのだろう。
〈では、デスはなんだ?〉
急に真顔に戻ったミミルが俺の方へと振り返る。
恐らく、「です」と「ですか」の違いを知りたいのだろう。
難しいのは「だ」とか「である」の丁寧語表現であること……つまり、敬語のひとつだということだ。
〈ニホン語のデスは、それが何か、どんな様子かを――なんていうか、柔らかく断定するために使う言葉だな。そこに〝カ〟をつけると、質問形になる〉
〈ふむ、やはりそうか〉
〈例えばだが……〉
ミミルは顎に手をあて、小さく唸るような声で漏らした。
この流れで他の代名詞についても説明しておこう。
「私は高辻将平です。あなたはミミルです」
しっかり指さして「私」と「あなた」も理解するように話す。
ここまで明確に意図を込めれば、ミミルなら気づくだろう。
ミミルは小さく口角を上げると、俺に続く。
「わた、しは、ミミルです。あ、なた、はしょーへいです」
「わたし、あなた」
また指さして繰り返す。
いまは代名詞、単語として「わたし」と「あなた」を覚えることを優先したい。
いや、俺に助詞を説明しろと言われても無理だからだ。
自然に使っている言葉を分解して分類し、その特徴や使い方を理解して話をしている人なんて、日本国民全体の中でも僅かしかいないはずだ。いや、そうに違いない。
それに、習うよりも慣れろ……それが合う言葉もあるはずだ。
〈しょーへい、どうした?〉
〈あ、いや……なんでもない〉
どれくらいの間なのかは知らないが、助詞の説明のことで意識が飛んでいたようだ。
「わたし、あなた」
ミミルが慣れたかどうか、再度確認のために声に出してみる。
既に合格レベルまでうまく発音できるとミミルは思っているようで、口元を少し尖らせた。
「わたし、あなた」
確かに合格だ。
こうして少しずつでも慣れていってくれれば、すぐにスタッフとも話すことができるようになるだろう。
〈次は、挨拶にしようか〉
〈うむ〉
順番としては、やはり初対面のところから始めるべきだろうか?
明日、裏田君が出勤するし、慣れておいた方がいいだろう。
〈初対面の相手に向けての挨拶はこうだ〉
俺は居住まいを正し、挨拶らしくはっきりと声に出す。
「はじめまして」
「はじめ、まして」
また、何度も繰り返し、意味もきちんと伝えておく。
〈初めてお目に掛かります……を略したものだと言われている〉
〈ほう……〉
〈次は、朝、昼、夜の挨拶だな〉
同じようにして、他の挨拶も教えていく。
おはよう
こんにちは
こんばんは
ありがとう
ごめんなさい
さようなら
どの言葉を教えればミミルが日本で幸せに暮らすことができるかを考え、想い、それが叶うように願いを込めて何度も言葉を重ねた。
俺の両親もこうして言葉を教えてくれたのだろうか――物心つく前のことなので全く記憶にない。
血も繋がっていない、自分よりも年上の女性に対して非常に失礼なことだが、親心ってこういうものなのだろうか。
「これは鍵です」
「これはかぎです」
「これは鍵ですか?」
「はい、そうです」
ミミルはすぐに教えたことを覚えてしまう。
これが「知」の加護というやつの効果なんだろう。
〈さすが、ミミルは覚えるのが早いな〉
〈これくらいは大したことはない。ただ、発音は練習が必要だな〉
エルムヘイム語には独特の発音がある。俺は加護があるから大丈夫だが、恐らく平均的な日本人では発音できないだろう。
逆に、エルムヘイム語にない発音が日本語にある。ミミルが上手く発音できないのもそこが原因のひとつだ。
〈どうやって練習するんだい?〉
〈もちろんダンジョンに入る〉
〈なるほどな〉
二階の部屋で練習してもらってもいいが、ミミルはダンジョンの中の方が落ち着くのだろう。
一方、今日は午前中に食器類が届く予定だ。その後はミミルのために時間を割くつもりだが、商品を受け取って注文した品が間違いなく届いていることを確認するまではダンジョンに入れない。
〈ひとりで……大丈夫だよな?〉
〈もちろんだ。他にもやることがあるからな〉
〈何をやるんだ?〉
〈素材が溜まってきているからな。他にも前から作業していたものがある〉
ミミルをダンジョンに迎えにいった時に糸を紡いでいたのを見たことがある。
革素材や甲殻も手に入っているので、それらを使って何か作るつもりなんだろう。
〈明日も荷物が届く。それが届いたら迎えに行くから、また出かけないか?〉
〈なにっ!? ど、どこに行くのだ?〉
ミミルが期待を込めた声で訊ねてきた。
昨日、入れなかったからな……蝋燭も見せてやらないとな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます