第218話

 深夜の三時を回っているが、ダンジョン用の装備――ミミルに貰ったチュニックとズボンを洗うよう、洗濯機をセットしておく。

 店内にまで洗濯機の音が響くことがないよう防音対策しているので、深夜に洗濯してもご近所に迷惑を掛けることもない。


 ミミルは風呂に入ると一時間くらいは出てこないので、その間に気になっていたメールを確認しておくことにする。


 二階へと戻り、事務所部屋の鍵を開けてパソコンを起動する。

 俺以外の誰もいない事務所というのはヒッソリとしていてなんだか物寂しい。書類ケースなどはあっても、まだ中身がないというのも大きい。

 スタッフの出勤は明後日……いや、いまはもう七日目だから明日からだ。


 そう考えるとミミルとゆっくりできるのは今日まで。


 今日の予定は食器類の配達。

 本来ならすべて梱包から取り出して洗わないといけないのだが、明後日になれば社員採用した男性――裏田君が出勤してくる予定だ。

 そのときにでも一緒に片付けてしまうことにして、今日は検品だけにしよう。


 起動したパソコンでメールを確認していくと、スペインの店――リストランテ・ゲルラから返信メールが届いていた。

 こちらから近況報告として送ったメールには自分の店をこの街に構えることになったことを書いていたので、もちろん返事の内容は店をオープンすることに対する祝いの言葉。

 それに、この街は世界的にも有名な観光地だ。スペインの店の人たちもそのことを知っているので、オープン記念に駆けつけるから旅費と泊まる場所を用意してくれと冗談が書いてあった。


 冗談……だよな?


 あの店で修行したとき、ゲルラの親父さんは五十代だったが、いまはもう六十歳を超えていて、そろそろ引退を考えているらしい。

 確かに世話になったので引退したら京都に遊びに来て欲しいと返事をしておく。

 幸いにもこの近辺には泊まれる場所が多くあるので問題ない。長生きしてほしいから足腰を鍛えさせるためにも伏見のお稲荷さんにでも案内してやろう。


 マリアのことも書いてあった。

 地元グラナダで美容師をしている男性と結婚し、いまは二人の子持ちだそうだ。

 まあ、いまの彼女が幸せならそれでいい。


 他にナポリのピッツェリア、フィレンツェのトラットリア、マドリードのリストランテ等々……世話になったところにもメールを送っておく。


 実はイタリア語、スペイン語共に話すのは現地で覚えたからできるんだが、文字を読み書きするとなると別だ。綴りがよくわからないので検索サイトの翻訳サービスを併用して入力していく。

 もちろん、そのぶんだけ時間はかかるわけで……。


〈しょーへい、しょーへい〉


 少し寂しげな声が廊下に響く。

 風呂を上がって居室に俺がいなかったから少し驚いたのかも知れないな。


 椅子から立ちあがり、廊下の扉を開いてやる。


〈こっちだよ〉


 階段のあたりで不安げな顔をしたミミルが声で俺を見つけ、駆け寄ってくる。

 直前までの不安げな顔から笑顔に変わる瞬間は、一気につぼみから花が開くような……それほどに美しく、可愛らしい。


〈しょーへい!〉


 ぽふんと俺の腹のあたりに顔をうずめるようにしてミミルは抱きついてきた。

 風呂に入る前は俺のことを「変なやつ」と言っていたのに、この態度の変わりようはなんだろう。何かあったのかとつい勘ぐりたくなってくる。


 深夜ということもあって、街はひっそりと静まり返っている。

 風呂から上がってきたら誰もおらず、人の気配さえもしないので不安になった……というのなら理解できないでもない。

 だが、ミミルは魔力探知ができるはずだ。

 魔力の膜を張り巡らせ、魔力を持つ生物が触れるとその存在を察知できるという方法。


 あ、そうか……。


 俺が二階の部屋にいたから探知できなかったんだな。

 不安そうな表情をしていたのは――ホームシック的な症状もあって精神不安定なのかも知れない。


 手をミミルの背中に手を回し、しばらく心臓の動きと同じくらいのペースで背中をトントンと軽く叩いてやる。

 最初は力の入っていたミミルの腕が少しずつ弛緩すると、ミミルはうずめていた顔を離して俺を見上げる。


〈――単位のこと、教えてくれるのだろう?〉

〈ああ、もちろんだ〉


 事務所にはパソコンもある。調べ物をしながら教えるのにはちょうどいい。


〈じゃあ、今日はこっちの部屋でやろうか〉

〈この部屋はなんだ?〉

〈店の帳簿管理などをするための部屋だよ。来週には夜になると泥棒対策で入れなくなる〉


 現金を管理したりするので、警備会社の監視システムが入る予定だ。そのための配線工事などはすべて終わっている。


〈泥棒対策か、どのようにするのだ?〉

〈専用の機械を使うんだよ。カメラはわかるだろ?〉

〈しょーへいのスマホというのについてるやつだな〉

〈そのカメラの技術を使ってるんだ〉

〈むう……〉


 いまの説明ではミミルは不満らしい。

 でも仕方がないんだよ、エルムヘイム共通言語には存在しない言葉が多すぎて、一つを説明するのに追加で十も二十も説明が必要になるんだ……。

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