第216話
風呂に数分浸かって今日の出来事を思い出す。
地上での時間は一日、だがダンジョンの中で五日過ごしている。
その日数分だけ、いろんなことがあった。
だが、一番は守護者との戦いに尻込みしてしまったことだろう。
まさか食べたものを全部吐いてしまうなど思いもしなかった。
でもミミルが倒してしまわないように手加減して戦う姿を見て、俺が尻込みしたせいでミミルが怪我をする、命を落とす――そんなことがあってはならないと気がついた。強く思った。
その後は無我夢中だった。
あのとき、確かに俺は覚悟した……と思う。
考えると、どうやらいままでの俺はダンジョンを攻略するための覚悟のようなものが足りていなかったようだ。いや、いまも足りない。
俺はミミルのように日々ダンジョンで過ごし、魔物と戦って生きるための糧であったり、衣類や武器の素材を集めて生きているわけではない。
生きるためにダンジョンに入るわけではないんだ。だから覚悟が足りない。
それでもダンジョン内で殺生することについては躊躇うこともなかったのは、欧州での武者修行の中で実際に狩りをした経験があるからなのだろう。
自分の何倍もの大きさの魔物を相手に戦えていたのは不思議なことだ。いや、魔素を吸収した身体になって、身体能力が大幅に向上している。それに、ダンジョンの加護を得て、離れたところの魔物にも攻撃して倒すことができる。
不思議なのは、そこじゃなく精神的な部分の方だ。
キュリクス、ブルンへスタ、ナーマン……
自分よりも圧倒的に大きな相手を見て、最初は毎回無理だと思ってしまう。
だが、気がつけばすべての魔物と戦ってきている。
これは、
「どうしたものかな……」
当たり前だが、ダンジョンで怪我をしたり、死んでしまったりするというのは避けたい。
だが、賢者と言われるミミルでさえすべてを知らないダンジョンのことを知りたいという思い、冒険してみたいという探究心は消えない。
湯船の中でお湯を掬い、顔に掛ける。
そのまま顔を触っていると、結構髭が伸びている。
「そういや、ダンジョン内で触ったときは何か
数分間、沈むように身体を預けて考え事をしていたが、手すりを持って立ち上がり、シャワーの前に再度移動する。
そういえば、モルクと戦う前に頬を触った時はげっそりと痩せた印象を受けたのだが――。
びっしりと覆った水滴を手で拭き取り、鏡の中に映る自分の顔を覗き込む。
顔に黒ゴマを振ったように髭が生えている。その黒さもあって、顔に影ができているように見えるのかも知れないのだが……。
「えらく痩せたな……」
料理人の食生活は不規則だ。
早番、遅番などもあるし、ホテルだとルームサービスのために遅くまで働くこともある。
ただ、概ね九時半にラストオーダー、十時に閉店というのが基本だ。
ラストオーダーから当番が賄いを作り、残りの料理人たちは掃除、食器洗い等の後片付け、翌日分の仕込みなどに入る。
そして賄いが出てくるのが十時過ぎ、食べ終えて残りの片付けも終わらせると十一時を過ぎてしまうことも多い。
つまり料理人は、一般に「太りやすい」と言われる時間帯に食事をする機会が増える職業だ。
多分に洩れず、俺も三十代に入って少しずつ体型が変わり、三十代も後半になってくるとその傾向はより顕著になった。
「痩せたんだよな?」
厚みのあった頬の肉は薄くなり、丸みが出てきた顎のラインはシャープに変わっている。目は少し落ち込んだように見えるが、クマのようなものはできていない。
痩せたというのと、
痩せたというのは身体から肉が落ち、細くなること。
ダンジョン内で確認した身体能力の変化は、明らかに衰えなどないことを示している。だから、俺の場合は
でも、目立って筋肉が盛り上がっているとかそういうのは無い。
そういえば、ミミルが言っていた。
〝取り込んだ魔素は体内を駆け巡るわけだが、取り込んだ魔素量が増えればそれだけ身体は強化される〟
基本的な筋力はそのままに、取り込んだ魔素のぶんだけ上乗せされている……ということなのだろう。
そして、全身にまとわりついていた脂肪は「身体が最適化される」ことで削ぎ落とされたという感じか。
結構な脂肪が溜まっていたと思うのだが、それはどこに消えたのだろう。
たぶん、ミミルに訊ねると「魔素に変換された」という返事がくるような気がする。
化学的なことを言い出すとキリがないが、脂肪を構成していた――主要なところで言えば炭素、水素、酸素はどこに消えたのかという話になる。
さすがにミミルも知らないだろうな。
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