第209話

 ミミルに指示されたとおり、一階の観客席へと向かった俺はそこにある石造りの椅子に腰を掛ける。

 ミミルに「止めだけは刺すように」と言われているので、できるだけ闘技場の中へと入りやすい場所を選んでいる。

 特になんてことはない、ただの階段状になった場所で、座りやすいように段差が大きくなっているだけ……そんな場所だ。

 当然、石なので座るとひんやりと冷たい。


 視線をミミルの方へと向けると、闘技場の中央へとゆっくり進んでいく。

 ミミルにすれば容易く倒せる相手なのだろうが、こうしてみているとミミルに任せる形になっている自分が情けない。

 だが、いざそう思ったところで、自分の無力さを感じるだけだ。


 一分ほど経って、ミミルが闘技場の中央に到着すると、反対側にある巨大な鉄の扉が軋む音を立てながら開く。

 俺とミミル以外の誰もいないところで扉が開くのだから不思議なものだ。


 扉が開いた先は暗闇。いや、すべての光を吸収する漆黒の世界といえばいいだろうか。その暗さに不穏な雰囲気を感じながら、俺はミミルの様子をチラリと確認する。


 ミミルは闘技場の中央に堂々と立ったまま微動だにしていない。

 この階層の守護者など、ミミルにとってはコバエ程度のものなのだろう。


 やがて、真っ暗な扉の向こうから何者かの気配が生じる。

 とても大きな魔物の気配――モルクの登場だ。


 のそりと黒い鼻先が門の中から伸びてくる。

 ここから門までは八十メートル近く離れているので、その大きさを何かと比べるのも難しい。だが、ミミルが話していた大きさから考えるとゴールドホーンくらいの大きさはあるということだ。

 つまり、蹄だけでも直径五十センチ以上ある。


 野生の雌牛なので鼻輪などついていないし、ついていてもこんな巨体を御することができる者はいないだろう。

 鼻の下にある口は何かを咀嚼しているようで、涎を垂れながら下顎を動かしている。

 続いて両目が現れると、真横についたまん丸い耳が姿を現した。

 地球にいる牛との違いは、角がないことだろう。

 ホルスタインのような乳牛には角が無いと思っているかも知れないが、あれは除角といって定期的に角を切り落としているからだ。角の中に神経があるので除角作業は牛にとって苦痛以外のなにものでもないのだが……それはまた別の話だな。


 モルクの見た目は完全に雌牛。そして、とにかく大きい。

 闘技場の観客席の天井は十メートルほどの位置にあり、二階の床はその半分の位置にあるはずだ――つまり五メートル。

 その二階の床よりも頭の位置は上にある。若干下から見上げるせいで高く見えるのもあるだろうが、間違いなく六メートルはあるだろう。


 ほどなくして漆黒の毛を全身に纏った巨大な雌牛が姿を完全に現した。

 俺のいる場所から見て約五十メートルほど離れた場所でもその大きさに驚いてしまう。

 頭の先から尻までの大きさは測りかねるが、体高とのバランスを考えると八から九メートル。

 それが身長百四十センチほどしかないミミルの前に立っているんだから、普通の牛を見る感覚で見てしまうと遠近感が崩壊してしまう。


 全身が出てきたことで確認できる他の特徴はというと、大きな乳房だ。その乳首の先からはダラダラと乳が垂れ流されている。


 あれは本当に乳なんだろうか……例えば塩酸や硫酸の類だったり、または猛毒だったりするということは無いのだろうか?

 とても心配になるが、いま前に立って戦うのはミミルだ。


 門の中から全身が出てきたことを確認したモルクは頭を動かし、そして大きな声でひと鳴きする。

 地球で聞き慣れた牛らしい鳴き声なのだが、身体のサイズが大きいせいか、とても低い音だ。

 遠く離れた俺のところまで空気が震え、身体がビリビリと振動する。


 その鳴き声が開戦の合図のようだ。

 モルクが頭を下げ、前脚で地面を足掻き始める。


 ミミルの戦いを見るべく、俺は慌てて魔力視を起動する。

 ミミルは賢者……魔術師の頂点に立つ人物だ。攻撃方法の基本は魔法なので、魔力の流れを見て学び取らねばならない。


 モルクに向けてミミルが右手を突き出すように掲げると、モルクの頭の上に電場が現れ、瞬く間にモルクへと落雷する。


 プスプスとモルクの額の辺りに煙が上がるのを見ると、明らかに焦げているだろう。

 だが、モルクは驚きこそすれ、殆ど効いていないようだ。


『加減が難しい……』


 ミミルから念話が届く。

 俺に止めを刺させるための加減だろう。

 昨日、百頭近い魔物たちに落とした雷と比べると規模が違う。恐らく、先日ラウンを木から落とすときに使った、麻痺させることを目的とした攻撃にしているのだろう。


 ラウンの大きさは地球のカラスと変わりがない。少し大きい程度だ。一方、このモルクは地球のホルスタインと比べると縦横、高さで各三倍……二十七倍の大きさがあることになる。

 必要になる雷の威力もそれだけ大きく、魔力も必要になるだろう。


 殺さずに、無力化する……こりゃミミルに苦労をかけそうだ。

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