第207話

 目が覚めれば第二層の五日目。

 第二層の守護者と戦うことを考えると、殆ど眠ることができなかった。

 うつらうつらとすることはあれど、そのまま眠ることがない……そんな感覚で朝を迎えた。


〈モルクがどんな攻撃を仕掛けてくるかだと? そんなこと知ったところで、次はどれくらい速いかだとか、どれくらい硬いかと心配になって眠れないのは変わらないのではないか?〉


 どうしても眠りにつけなかった俺が、ミミルに守護者のことを訊ねた結果、返ってきた言葉がこれだ。


 尤もな話だ。


 体高が五ハスケ、体長が七ハスケ。

 ハスケというのがエルムヘイム共通言語で距離の単位であることはわかる。だが、一ハスケが一メートルと同じかどうかまでは知らないからサイズ感がわからない。

 それが余計に不安感を煽った。


 寝不足でぼんやりとする中、朝食を用意して食べる。

 多めに買っていたバケットを使った、スペイン風のサンドイッチ――ボカディージョだ。

 すり潰したトマトを塗り、その上に生ハム、クリームチーズを塗って挟んだものだ。今回は、刻んだブラックオリーブや先日作っておいたパプリカのマリネを追加で挟んでいる。


『美味い!』


 小さな口を大きく開いて齧りついたミミルから念話がやってくる。

 使った生ハムがハモンセラーノというのもあるだろう。かなり本格的な味に仕上がっている。

 だが俺の方はというと、肝心のボカディージョの味がよくわからない。喉も異様に渇くことを考えると、かなり緊張しているんだろう。

 いや、バケットが唾液をすべて吸い込んでしまうからだろうか……。


〈そりゃよかったよ〉


 引き攣った笑顔でミミルに返事をする。

 もちろん、ミミルも俺の異変に気づいたようで、目尻を下げ、心配そうな表情へと変わる。


 いつも厳しいミミルだが、こんな表情もするんだな……。


 そういえば、この間は初めてミミルが声を出して笑うのを見た。

 今日は心配してくれるような表情を見せてくれた。


 少しずつだが、ミミルが俺の方へと歩み寄ってきているような、俺に心を開いてきてくれているような気がする。

 二人きりで十日も一緒にいたことの成果なのだろう。


〈具合でも悪いのか?〉

〈いや、大丈夫だ……〉


 自分よりも二十歳ほど年下にミミルに弱音を吐けない自分がいる。


 ここ数日、魔物を狩り続けてここまでやってきた。

 だが、階層守護者が相手となると話が違うようだ。


 そもそも第一層のボルスティ戦では戦いにさえなっていない。

 石造りの闘技場のような場所で、観客席に該当するであろう場所からボルスティに対してマイクロウェーブを飛ばしただけだ。


 なぜそんな方法を選んだのか……もちろん怖いからだ。


 当たり前だが、俺の命はひとつしかない。

 あと十日もすれば店を開店する……大事な時期だ。

 怪我一つするだけで開店日が遠のいてしまう。

 そうなれば、既に正社員として雇用する二人、アルバイトやパートが五人……仲間になるであろう人たちに迷惑をかける。

 これから先は食器の搬入、メニューやチラシ作成、開店前のトレーニング等々が待っているが、それも先延ばしだ。


 そして、何よりもまだ死にたくない。


 そんな「死なない方法」を選んで攻撃したというのに、ボルスティは最後に闘技場の壁を壊すという手段に出た。

 足元が崩れ去り、落下するとき……俺は闘技場の壁を作る石の下敷きになって死ぬことを覚悟した。

 いや、ミミルがいなければ間違いなく俺は死んでいただろう。


 そのことを思い出すと、どうしても「死」と隣合わせにいることを強く意識してしまう。

 ナーマンやネスホルン、ゴールドホーンのような巨体を相手に戦って倒してきたが、ボルスティのことを思い出すと、守護者は別格なのだろうと意識してしまう。


 そうして意識すれば意識するほど恐怖心は強くなり、緊張感は高まっていく。


〈顔が魚人族のように青いぞ?〉

〈そ、そうか?〉


 いや、エルムヘイムには魚人族もいるんだな――っていう問題じゃない。


 気がつけばミミルは俺のすぐ隣に立っていて、ジッと俺の顔を覗き込んでいる。

 ミミルの言葉を信じるなら、見てわかるほど緊張した表情を俺はしているんだろう。

 残念ながら鏡のような便利なものは持ち合わせていないので、手のひらで頬を擦る。

 ほぼ、五日間もヒゲを剃っていないのもあって、手触りは最悪だ。自分でも感じるほどに頬がけているような気がする。


〈本当に大丈夫か?〉


 真剣な眼差しで俺の目を見てミミルが話しかけてくる。

 座った俺と視線が同じ高さにある少女に心配されて、「大丈夫じゃない」とは言いづらい……。

 本音を言うと、吐きそうなほどに気持ちが悪い。


〈だ、大丈夫だ〉

〈その言い方でもう駄目だとわかるな……〉


 呆れたような声を出すと、ミミルは俺の背中へと回り込む。

 銀色の髪がふわりと舞うように靡き、花の香りがふわりと鼻腔を擽ると、肩から背中にかけて重さが加わる。


〈仕様がない、守護者は私が手伝ってやる。だから、いまは少し休め〉


 俺の首へと手を回し、左の耳元でミミルが囁いた。

 その言葉に安堵したと同時、俺は胃の中のものをすべて吐き出した。

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