第173話

 クープというフランスのパンを手で千切り、皿に残ったルーヨ肉の煮込みをこそげるように掬って食べる。

 パスタでも煮込みでも残った汁を吸わせて食べるパンはどうしてこんなに美味いのだろう。


〈ところで、先ほどの話だが……〉


 俺の真似をするようにパンを千切って皿の煮汁を一箇所に集めながらミミルが俺に話しかける。


 先ほどの話といえば――


〈低温調理器のことか?〉

〈そう、それだ〉

〈電気で動く機械だから、ダンジョン内では使えないぞ?〉

〈それは知っている〉


 ギュッギュッとパンを押し付けて煮汁を吸い込ませたパンを口の中に放り込むと、ミミルは目を細めて幸せそうに顎を動かす。


〈温度と時間を設定して、じっくりと火を通すための機械……といえばいいかな。特に、肉料理なんかで重宝するんだよ〉

〈どうしてそんな面倒なことをするのだ?〉

〈いくつか理由があるんだが……〉


 俺は魔法で作った水が入ったコップを呷り、パンを食べて乾いた口の中を潤すと説明を続ける。


〈チキュウにはウィルスや細菌といわれる目に見えない生物がたくさん存在しているんだ。

 そのウィルスや細菌が食材に付着すると発酵や腐敗の原因になるし、知らずに食べてしまうと腹を壊したりする〉

〈だったらダンジョンの中に一度持ち込んでしまえば、そのウィルスや細菌とやらを死滅させられるのではないか?〉

〈ああ、そうだな……〉


 ミミルの言うとおりなんだが、それは俺の店にダンジョンがあるからできること。いや、俺とミミルだからからできることだ。

 他の店では絶対にできないことだし、俺の店でもミミルと俺しかできないことだ。


〈それはそうなんだが、ダンジョンがあるのはここだけだ。チキュウの誰もができる方法じゃないだろう?

 そのウィルスや細菌を殺す方法としてチキュウで一般的なものは、ある一定の温度で一定の時間、熱を加えることなんだ〉

〈ふむ……〉

〈それに、火を通すことで食材の中にある脂を溶かしたり、旨味を活性化させることができる。だが、火を通しすぎるとタンパク質は固くなるから、適度に熱を通して固くならない程度に火を通したい。

 低温調理器だとそれが簡単にできる――まぁ、俺たちにとっては肉を柔らかく美味しく仕上げるための機械だな〉

〈なにっ! それはいますぐ手に入れるべきだ〉


 ミミルは慌てて立ち上がると、興奮気味に無茶なことを言い出した。

 どうやら「肉を柔らかく美味しく仕上げる」という言葉がミミルには効いたようだ。

 最初の細菌とかウィルスの話は必要なかったな……。


〈落ち着けよ……いまから戻っても地上は深夜だから、店は営業していないんだ〉

〈むっ……そ、そうか〉


 実際はネット通販で買い揃える気でいるから、戻ればすぐにでも注文できる。

 ただ、商品が届くのは早くても明後日だ。

 すぐにでも手に入れたければまたデパートへ足を運べばいい。


〈とにかく、地上に戻ったら購入するつもりだ。ダンジョン内では電気がないから使用できないけどな〉


 その言葉にミミルはハッと目をみはると、肩を落とす。

 どうやらダンジョン内で調理できないという意味を勘違いしているようだ。


〈まぁ、地上で料理してから空間収納に保管しておけばいい〉

〈――!〉


 蕾が開き、花が咲くように落ち込んだ表情を笑顔に変えると、ミミルは弾むような声を出す。


〈そうだ! 地上でしょーへいがたくさん作ればいい。私が責任を持って預かろうではないか〉

〈それ、責任を持つという言葉の意味が間違ってないか?〉


 落としたり、ひっくり返したりして料理をダメにするという意味では確かにミミルの言うとおりだが、「いざ食べようと思ったときには全部食べてしまって残っていない」というのは責任を持って預かるとは言わない。


〈なぜだ?〉

〈だって、ミミルが食べてしまうだろう?〉

〈当然だ、食べるために作るのが料理というものだからな〉

〈俺の分はどうなる?〉


 ミミルはキョトンとした顔で、俺を見上げる。

 俺の分のことを全く考えていなかったという顔か?

 それとも、当然考えているという顔か?


〈しょーへいの分があるなら、先に言えば残すに決まっているではないか〉

〈本当に?〉

〈と、当然ではないか。しょーへいは私をどんなエルムだと思っているのだ?〉


 改めてどんなエルムと思っているかと聞かれるとどう答えればいいか……。


〈そうだなぁ……ミミルは賢くて〉

〈うんうん〉


〈強くて……〉

〈そうだろう、そうだろう〉


〈可愛くて……〉

〈――なっ!〉


 がたんと音を立てて椅子を倒し立ち上がると、ミミルは耳まで顔を赤く染めて俯く。

 最後に「食いしん坊?」と言うつもりが、チャンスを逸してしまった。


 ちょっと褒めるとすぐに照れてしまうところが可愛いところなんだよな。

 口調など聞いているとフィオニスタ王国では偉い立場だったのだろうし、なかなか褒めてもらえる立場にはなかったのだろう。


 この様子だと、「食いしん坊?」だなんて発言すると高い確率でミミルのご機嫌を損なうことになりそうだ。

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