第65話
「ミミル、絵本を出して欲しい」
『ん――』
一瞬不機嫌な顔をしたが、ミミルは空間収納から絵本を取り出す。
取り出すこと自体はそれほど大変でもないので、言葉を教えるのを止めると思ったのだろうか?
このダンジョン第二層はトイレや食事以外にはほとんど時間経過を気にする必要がない環境なので、日本語を教えるのに最適な場所だ。
夜なのでぼんやり光る壁や天上の明かりしかないが、何も読めないというほどのものではない。
俺は丸太椅子を転がしてミミルの側に座り、読み聞かせを始めることにする――。
ミミルは絵本の表紙を覗き込むと、ふりがなをなぞりながらタイトルを読み上げる。
「もも、た、ろ、う」
数冊ある絵本のなかで、最初に手にするのはやはりこれだろう。
タイトルを読み上げたミミルは、自信に満ちた表情で俺を見上げる。ドヤ顔というやつだ。
こういうとき、反応に困る。
褒めようと頭を撫でると「こどもじゃない」と言わんばかりに怒り出すし、言葉だけで褒めても正しく伝わっているかどうかがわからない。
「おう、ちゃんと読めたな。すごいすごい」
言葉にしてもカタコトでしか通じないので、わざと大袈裟気味に反応して見せることにした。
もちろん、小さく拍手しながらである。
正直、既にストリーミングデバイスを使ってひらがなを読む練習をしていたし、漢字で書かれたタイトルにはふりがなが振られている。ミミルはとても賢いのでタイトルくらいは読めて当然だ。
ミミルは褒められたことに気分を良くしたようで、視線を絵本に落とし、俺がページを捲るのを待つ。
表紙を捲ると、物語の最初のページが描かれている。おじいさんが
「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。まいにち、おじいさんはやまへしばかりに、おばあさんはかわへせんたくにいきました」
そのまま読み上げれば、ミミルの頭の中には翻訳された情報が伝わるはずだ。ただ、いまの一文でもどこまで翻訳されているかはわからない。
だから、指さして示すことができることは、指さして教える。
「おじいさん」
背中に籠を背負ったおじいさんの絵を指さす。次に、洗濯物が入った籠を背負おったおばあさんの絵を指さす。
「おばあさん」
ミミルは俺の動作で、言葉の意味を察したようだ。
同じように指さして、「おじいさん」、「おばあさん」と声に出して見せる。
つい、「賢い子」だなんて思ってしまう。
見た目が幼いせいだが、こればかりはしようがない。頭を撫でようとしないだけでも許してもらいたいところだ。
「むかしむかし、なに?」
「むかしというのは過去のこと。むかしむかしと二回重ねると、遠い過去のことを意味することになるね」
『むかしばなし?』
「そうだ」
目に見えないものを説明するのは難しい。「むかしむかし」は過去のことを指す言葉であり、概念だ。
ミミルは大人だから説明が不要だが、これが本当に子どもなら理解させるのは難しい。
「あるところに、なに?」
「ある――は、はっきりとしない何かを意味していて、ところ――は場所を意味する。あるところ――とすると、この世界のどこか……「よくわからない場所」ということになる。
『しらない、ばしょ?』
「そんな感じだ……」
こんな調子で少しずつ日本語を教えながら絵本を読み進めていく。
助詞には格助詞、接続助詞、副助詞、終助詞と四つがある。細かく分類すると二〇種類くらいに分類されるので、それを教えるとなると骨が折れる。日本の英語教育のように、厳格な文法を教え込むと余計にわかりにくくなるような気がするから、機会を見て助詞の使い方を教えることにしよう。
◇◆◇
一冊の絵本……桃太郎の話を聞かせるのに、二時間半もかかってしまった。
絵本そのものはひらがなで書かれているので、ミミルはひとりで絵本とにらめっこをしている。
絵に描かれている男性の老人は
一文の中に必ずこれらが含まれているから、一行読んで説明するたびに集中力と体力が奪われていく。
恐らく、ダンジョンに入ってから第一層で七時間、第二層で三時間は経過している。地上でも起床してから一〇時間は活動していたはずで、さすがに眠い。
「ミミル、少し疲れた。できれば少し眠りたいんだが、眠るためのもの――何かないか?」
『ない』
寝袋くらいは持っているかも知れないと期待したが、持っていないと……。
確かにフィールドで野営するとなればいつ魔物が襲ってくるかわからない。目覚めてすぐに戦えるというのはとても大事なことなんだろう。しかたがないな――。
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