喪失
68 ぼうや、誰?
亘はフライパンに溶き卵を落とす。焦げないように菜箸で回しながら玉になった卵を端に集めていく。火を止めた時に、リビングにミシェルがやって来た気配がする。
「おはよ、ミシェル。おまえも寝坊するんだな。いつもは俺より早く起きてんのに」
スクランブルエッグを皿に移し、テーブルに持っていこうとミシェルを視線を移すと、彼女の格好に驚いた。
ミシェルはネグリジェ姿のままだった。リビングに来るときはきちんとした服装にするのに、寝起き姿のままで突っ立っている。
ミシェルはしばし亘を凝視した後、口許に手をあてて眉間に皺をよせる。
「どうしたんだ?」
「ん~…とね、ぼうや、誰?」
「えっ?」
「だから、ぼうやだ~れ?名前は何て言うの?」
からかってるのか
奇妙だが自己紹介する。
「う~ん、私さっきから日本語話してるよね?君が日本人だから?それとも、まさかここは日本なの?」
「ミシェル?どうしたんだ?」
「じゃあね~もっと核心的な事聞いちゃお!今って何年?西暦で!」
「……2032年、6月12日」
ミシェルは目を丸くし暫し放心する。だが、すぐに腹を抱えて大笑いした。
「2000年?うっそ!本当に?やだ~!私、未来にタイムスリップしたの?H・G・ウェルズの小説みた~い!」
けたけた笑うミシェルを不気味に感じる亘。だが、彼女に異変が起きているのは感じ取れた。
「なぁ、本当にどうしたんだ?からかってんならもう止めろよ」
「ん~とね、今の状況を説明するに、ぼうやが私の事を知ってるから、私が未来に飛ばされたんじゃない。となると、私の記憶がなくなってしまったのかな?」
「は?」
「記憶喪失ってやつかな?」
冷静に自己分析するミシェルに亘のほうが混乱する。ミシェルは記憶喪失になっていた。正確には70年前まで記憶が戻ってしまっていた。
亘はすぐにシヴァに連絡をとり、家に来てもらった。もちろんシヴァの事も覚えておらず、亘の時と同じ反応をする。
彼女の記憶は1962年で止まっている。昨日はジェームズ・レイズという脚本家のホームパーティーに参加して、そこで知り合った俳優と一夜過ごしたという。
そこまで詳細な記憶があるのに、アメリカを出た時の
「どう思う?」
深刻な表情のシヴァが
「同種の記憶喪失というのは聞いたことがないな。
だが、ミシェルの記憶が70年分抜け落ちてるのは確かだ。人間ならば詳しく検査できるが、私達は医療機関には頼れないからな」
記憶障害は脳の異常や心的外傷が原因とされている。だが、亘の話では前日に特別なにかあったという事はなかった。
「同種の
確かにあり得ないことですが、同種も発作を起こすことがありますし、人と同じような症状は起こり得るのでしょう。だだ問題なのが治療方法が分からない事でしょうか?」
薬は同種には無意味だし、心療科にかかることも出来ない。
3人が話し合っていると、一階から音楽が流れてくる。軽やかなジャズが重い空気を晴らしていった。
ミシェルと亘はカフェのカウンターに並んで座る。ミシェルが店にあったレコードプレイヤーに気づき、選んだ曲を亘がかけた。
「家の中にある家電は全部見たことないものだけど、これだけは知ってるわ」
「レコードっていうんだろ。俺も初めて見たよ」
「今は音楽は何で聞いてるの?ラジオ?」
「いや、大体スマホに入ってるよ。ほら…」
亘はミシェルのスマホを見せる。音楽のアイコンをタップして中に入っている曲をスクロールする。
「さっきも見たけど、この小さい機械すごいわね!電話もできて手紙も送れて、音楽も聞けるのね!」
ミシェルはスマホに興味津々である。本当なら記憶を失って一番困惑しているのはミシェル自身のはずなのに、70年後の世界に心踊らせ積極的にあれこれ
ミシェルのこういう前向きで社交的な所は素直に羨ましかった。もし、自分が知らない国で別の時代に飛ばされたら、怖くて誰とも話せず籠ってしまうだろう。
「ねぇ、これはなーに?」
ミシェルが近付いてスマホの画面を見せてくる。中に入っているアプリの機能を説明していると、距離が近い事に気づく。
今までも過度は接触は多々あったが、いつもと接し方や眼差しが違う気がした。
見慣れたはずの綺麗な顔に
「どうしたの?」
「っつ……なんでもない」
目を反らして誤魔化す亘。何故、体が熱いのだろうか?
結局、治療法がわからないので、しばらく様子を視るしかなかった。
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