64 ずっと、亘に会いたかった

 次の日、母親が訪ねて来て亘は彼女を外へ連れ出した。ミシェルがいる前だとまた喧嘩になってしまうからだ。少し歩いた先の公園に行き、振り返って母親と対面する。

 しばらくは何も話さず亘は母親をじっくり見ていた。髪の所々に白髪があり目尻に皺があって、少し年老いたように感じた。今の彼女が小さく見えるのは自分が成長したからだろうか?


「亘、お母さんと一緒に暮らしましょう。帰ってきてちょうだい」


昨日とは違って穏やかな態度で諭す。こんな風に優しい顔をした母を見るのは初めてだった。


「俺が施設にいる時、1度も会いに来てくれなかったよね。俺は母さんに捨てられたんだと思ってたよ」


亘は率直な自分の意見を言う。もう彼女の言うことに迎合げいごうする必要がないからだ。


「そんなことないわよ。確かに1度も会いにいかなかったけど、昼間私は休んでて時間が作れないのよ。それくらいわかってるでしょう!」


 すぐに声を荒げる母。

 亘の母親に対する印象は怒りっぽくすぐに怒鳴ってくるというものだった。都合の悪いときは怒鳴って亘を黙らせていた。だから、亘は我儘わがままを言わず駄々だだねず、母の機嫌を損ねないことに念を置いていた。


「昨日、ミシェルに聞いたけど、借金があるんだってね。生活は大丈夫なの?」


子供が親に聞くようなことではないのだろうが、今は母親を値踏みしなくてはならなかった。


「そんなのあの男が勝手に作ったものよ。おまけにどっか行っちゃうし。ほんっと最低な男だわ、私にばかり働かせて、自分は稼ぐどころか借金までして!」


「生活が苦しいなら俺を連れ戻さないほうがいいんじゃないの?お荷物になるだけだよ」


「でも、来年あなたは高校を卒業するでしょう。なら、働いて稼いでくれるでしょ?」


 少しだけ胸がチクリと痛んだ。

 結局はそういうつもりで連れ戻したいのかと疑った。


「俺、大学に行くつもりだよ。そのために塾にも行ってるし、ミシェルは行ってもいいって言ってくれたから」


 施設を出たら亘は働こうと思っていたが、ミシェルの養子になったことで彼にも将来を考える余裕が出てきた。


「そう、結構お金あるのね、彼女。店はそんなに繁盛してるようには見えなかったけど」


「店の売り上げはそこまでじゃないけど、いくつかマンション経営してるって聞いた」


 前の経営者から土地を相続し、それを不動産会社に貸しており、そちらのほうが高い収益になっているのだった。


「彼女とは、暮らして8ヶ月くらいなんでしょう。そんな赤の他人と暮らしていけるの?それに外国人だし」


「ミシェルはハーフだし、日本育ちだよ。特に生活の不一致ふいっちはないし、まぁ、多少噛み合わないことはあるけど、関係は良好だと思うよ」


 環境や金銭面・生活面とどれを取ってもミシェルのほうが優勢なのは明白で、これ以上切り崩す方法がなくなってしまった。黙り込む母親を気の毒だと感じつつも亘は結論を突き付けた。


「母さん。はっきり言うけど、一緒に暮らすのは無理だと思う。経済的にとか生活がとかはあるけど、それ以前に親子に戻るのが無理なんだよ」


「どういうこと?」


「おれの中では、その、母さんとの関係は切れてる、と思ってる。俺にとっては、今はミシェルが親なんだ」


 非情な言葉だが、それが今の亘の気持ちだった。失格の烙印らくいんを押された母親は当然ながら怒った。


「何てこと言うの!あなたを産んで育てたのは私よ。あなたの親は私なの!その親に向かって、なんて恩知らずな!」


「そりゃ、育ててくれたことには感謝してるよ。けど、母さんは俺の面倒を、ちゃんとしてくれなかったよね」


「ちゃんとって何よ!子供を育てるのがどんなに大変か、あなたにわかるっていうの!」


 それを言ったら子供の立つ瀬がなくなってしまうのだが、怒ると思慮が欠けて怒鳴り散らす人なのだ。


「親に対する感謝の気持ちがあるなら、恩返ししなさい!困ってる母親を見捨てるつもりなの!」


 とうとう言ってはならないことを口走る。亘は言葉が詰まり、苦渋に満ちた表情をするが、こればかりは誤魔化せなかった。自分の人生のことだからだ。


「ごめんなさい。それはできない」


 本当に心が苦しかったが、亘は正直に謝った。母さんに対して申し訳なく思うし、力になってあげたいが、自分はもう決断してしまっている。


 目をつぶうつむいている亘の左頬ひだりほほに強い痛みが走る。


 母親が振り上げた平手が乾いた音と共に亘の頬に直撃する。今まで母親にぶたれたことはなかったので、亘はショックで固まってしまう。


「どうして!?私の言うことが聞けないの!こんなに言ってるのに、あの人と同じね!


こんな、こんなことなら、あんたなんて…


産まなければよかった」



 一瞬、鼓動が止まった感じがした。



 母親に拒絶され、存在を否定されたことに心が悲痛にむしばまれる。しばし、茫然自失ぼうぜんじしつとしていたが、ふとミシェルの存在を思い出した。

 この様子をミシェルも離れた場所で見ている。自分を傷付けた母親に対し彼女が何をするのかと想像すると、恐ろしくなった。亘は後ろを振り返り柵の向こうにいるミシェルに視線を送り、"何もするな"と首を振った。亘は大きく深呼吸をして母親のほうを向く。



「母さん。俺、知ってるよ。

母さんがどうして、俺を産んだのか」



彼女は顔をあげて眉をひそめる。亘は目を真っ直ぐ見て言い放つ。


「認知してほしかったんでしょう?相手の男性に。家庭を捨てて自分と一緒になってほしくて。だから、子供をつくった」


「な、なんで、それを…?」


「母さんが酔っ払った時に、愚痴ぐちってたよ。俺が起きてるとも知らずに」


 8歳の頃に亘は自分の出生の理由について知ってしまった。結局は男親のほうは自分を認知せず、彼女にとってはお荷物のような自分だけが残ってしまった。


「おれは、その人を繋ぎ止めるための、道具だったんだよね」


「ち、違うわよ!

好きなひとの子供だから、産んだのよ。本当に愛してたから。あなたのことだって、愛してるのよ」


 母親は亘の腕を掴んで必死に訴える。だが、亘の心は動かなかった。


「そうだとしても、俺は母さんのところには帰らない。


さよなら、母さん」


 静かに斧を振る下ろすように、別れを告げる亘。


 母親も踵を返して公園を出ていく亘をただ見ていることしかできなかった。柵を通りすぎると、ミシェルが近寄ってくるのが視界の端に見えたが、待たずに早歩きをする。家路を急ぐ間、ずっと涙を堪えていた。


 母親に殴られたこと、辛辣な言葉を投げつけられたことが、亘の心を抉っていた。


 母親に何も期待はしていなかったし、これ以上惨めな気持ちになりたくないので、必死に抑え込んでいたが、肉体は感情に従順だった。溢れ出てくる涙を止められず、視界が歪み立ち止まって手でぬぐった。ミシェルが駆け寄って亘の前に回り肩を掴んだ。


「亘、顔を上げて。私を見て…」


鼻を啜り真っ赤になった目を擦りながら亘はミシェルを見つめる。


「例えあの人がどんなつもりで亘を産んだんだとしても、私は亘が産まれてきたことに感謝してるよ」


 ミシェルは亘の両頬に手を当てる。溶け込めそうなほど優しい色をした瞳をじっと見つめる。



「だって、私はずっと、亘に会いたかった。


ずーっと、ずーっと!亘に会えるのを待ってた。


だからね。産まれてきてくれて、ありがとう、亘」



 涙が止まらなくなった。

 胸を突き刺すような苦しさでも、がらんどうになってしまうほどの空しさでもない。

 喜びと呼べばいいのか、感謝と現せばいいのかわからないが、ただ赤子が鳴くように声を出して泣いた。抱き寄せてくるミシェルの背中を亘は強く握りしめ、泪が枯れるまで泣き続けた。




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