母親

63 私と一緒に帰るのよ!

 金曜日は20時半過ぎに家に着いた。駅前の塾の講義が終わるのが夜の20時で、そこから歩いて家に帰るからだ。


 蒸し暑い外から玄関に入って、"ただいま"と声を掛ける。靴を脱ごうとしていると、上からドタドタと人が下りてくる音がした。顔を上げると下りてきた女性と目が合う。


 真ん中分けの髪を後ろで結び、白のブラウスに赤のタイトスカートを履いた女性で、簡素な化粧で少しやつれていたが、すぐに自分の母親だとわかった。


「か、母さん……?」


「ああ、やっとあなたに会えたわ!探してたのよ」


 母親は亘に近寄り我が子の顔をよく見る。亘も母に会うのは5年ぶりで彼女の登場に戸惑った。後から階段を下りてきたミシェルがねたむように睨んでくる。


「行くわよ、亘!私と一緒に帰るのよ!」


「えっ、帰るって?何言ってるの?」


 困惑する亘の手を引っ張り母親は玄関のドアノブに手を掛ける。すぐにミシェルは彼女を引き留めた。


「亘を連れていく気なら、あなたを誘拐犯として通報しますよ」


 母親は階段の上で腕を組み、威圧的に自分を見下ろしているミシェルを振り返って睨んだ。


「何ですって!?」


「当然でしょう?

亘の親権は私が持っているの。いくら産みの親とはいえ、未成年の子供を私情で連れて行っていいはずがない」


「この子は私の子供よ!」


「それは8ヶ月前のことです。先程も説明しましたが、あなたは亘の親権を放棄しました。今の亘は永岡雅美の息子であって、あなたの子供ではない」


「黙りなさい!この泥棒女!とにかく息子は連れて帰るわ!」


「連れて帰ってどうするんですか?失礼ですが、今のあなたに亘を育てられる経済力と環境があるとは思えませんが?」


 ミシェルの理路整然りろせいぜんとした主張に母親は頭に血が上り、ミシェルに掴みかかろうとした。そうなる前に亘が彼女の体を押さえて止めた。


「母さん、落ち着いて!

その、話が全然見えてこないから、今日のところは帰ってくれる」


「けど…」


「明日また、来てくれる?その時ちゃんと話そう」


 亘になだめられ母親はしぶしぶ帰っていく、嵐が過ぎ去った後、二階に戻ってミシェルに話を聞く。


「一体どういうこと?」


「どーもこーもないわ。今日の夕方彼女が訪ねてきて、亘を連れ戻すって言ってきかなくて」


「なんで?母さんは俺がいらないんじゃなかったの」


 亘が児童養護施設に預けられて5年とちょっと。母親は1度も面会に来なかった、当の昔に捨てられたのだと思っていた。


「さっき児童養護施設の人が申し訳無さそうに電話してきたよ。二日前に彼女が訪ねてきて亘に会わせろって暴れてたらしいの。手がつけられなくなって、仕方なく私の住所を教えたみたい。

全く、個人情報漏洩こじんじょうほうろうえいで訴えてやりたいわ」


「でも、なんで今さら」


 ミシェルは少し黙って、空になったティーカップを見つめる。亘の前にも同じものが置いてあるので、さっきまで母親とここで話してたのだろう。


「どうやら、付き合ってた男に借金の保証人にされてたみたいでね。お金に困ってるみたい」


「え?」


「起業したけど、上手くいかず倒産したらしいわよ。当の本人は銀行やらなんやらの借財を踏み倒して逃げたんだって。彼女も借金取りから逃げるために住みかと職を転々としてるって言ってた」


「そうなんだ」


 大変な事になっているのだと、亘は少しだけ母親の心配をした。


「まぁ、全て失って、亘だけでも取り戻したかったんじゃないの?」


「………」


 相変わらず勝手な親だと亘は思った。自分本意で亘の都合は何も考えていないのだった。ミシェルは頬杖をついて暗い瞳で思案する。


「さて、あの女どーしよっかな~」


 亘はミシェルを睨む。

 目的のためなら手段を選ばず、容易に倫理を踏み倒すこの女が良からぬことを考えているのだと直感した。


「おまえ、母さんに何する気だよ」


「だって亘との生活を邪魔する奴なんて、私にとっては敵でしかない」


「敵とか言うな!

そんなことしなくても、明日俺が会ってはっきり言えばいいことだろ。母さんと暮らす気はないって」


 今度はミシェルが亘に疑いの目を向ける。


「本当に~、ちゃんと私を選んでくれる~?

仮にも彼女は君の母親よ?10年間育ててもらった恩も情もある。彼女が本気で訴えてきたら、優しい亘は拒めないんじゃないの?」


 亘は少し悩んだが、今の生活のほうが良いことは明白だった。


「大丈夫だよ。ちゃんと言える」


「そお?でも心配だから私も付いていくよ。彼女の目に入らないようにね」


 話し合いは済み、ミシェルは遅めの夕食の準備をし始めた。



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