04 ミシェルって呼んで

 亘は重い気持ちで歩いていた。あの角を曲がれば"rencontre(ランコントル)"の店が見えてくる。昨日、履歴書を持ってくると約束してしまった故に本当にあの店で働くことになってしまった。事実を話して謝るかこのまま帰ってしまおうかと考えたが、彼女の必死な姿を思いだし嫌々ながらも店の扉を開け店主に会いに行く。


「すみません」


 現在、昼の11時で昨日と同じぐらいに訪ねてみた。最初に来たときと同じで店には客がなく肝心かんじんの店主もいなかった。戸惑っていると奥の調理場からブロンドの白人が駆けてきて、亘の姿を見てにこりと笑う。その笑顔は見蕩みとれてしまうほど美しかった。


「いらっしゃい。来てくれたんだね!良かった」


 話を切り出す前に席に案内されカウンターの高い椅子に座る。彼女は裏に回り込み紅茶の缶を手に取る。


「なに飲む、ダージリン?それもとアールグレイ?」


 紅茶の種類を聞いているのだろうが、違いも好みも分からないので何でもよいと答えた。

 彼女は一つの缶を開けて茶葉を透明のティーポットに入れてお湯を注ぐ。ふたをしてらした後に温めていたティーカップに茶漉ちゃごしで茶殻ちゃがらをこしながら注いでいく。ミルクを入れてスプーンで2・3度かき混ぜる。その動作を亘はじっと見つめていた。


「どうぞ、トワイニングのレディグレイだよ」


 平たく白いカップを自分の前に差し出す。紅茶のいい匂いが鼻をくすぐり穏やかな気持ちにさせる。


「履歴書、持ってきた?」


「はい」


 亘はトートバックに入れていた履歴書を彼に渡す。さっくり目を通し質問を始める。


「亘って書いて"わたる"なんだね。亘って呼んでもいいかな?」


「どうぞ」


 その後は労働時間や時給の話をした。学校が終わった後の17時から20時まで働き週4で出勤することになった。効率的に必要事項が決まってゆき、このままではまずいと思い亘は話を切り出す。


「あの、店長さんは…」


「ミシェル!」


 亘の言葉に被せるように彼女は名乗る。顔を上げてプラチナブロンドの女性を見つめる。


「ミシェル(michelle)。私の名前。ミシェルって呼んで」


 彼女の名はミシェル。それが存在してから名乗っている己自身の名だ。


「ミシェル、さん?」


「ミシェルでいいよ」


 外国じゃ敬称なんて呼び方はないから、名前だけで呼ぶのが正しいのかと思いもう一度呼び直す。


「ミシェル…」


 その響きにミシェルは満足そうに微笑む。時々見せるこの笑顔に妙な安心感を覚えるが、どこか不思議な違和感も感じていた。慈愛じあいのこもった優しい眼差まなざし。いままで自分にそんな目を向ける人は一人もいなかった。その優しい視線に耐えられなくなり亘は目を反らす。


「ミシェルは、どうして俺を雇ってくれるんです?」


「亘が働きたいって言ったからだよ」


「あの、そのことなんですけど…」


「紅茶冷めるよ」


 ミシェルは亘の言葉をさえぎった。亘が何か秘密を抱えていることは勘づいていたが、今はどんな形であれ彼をつなぎ止めておきたかった。ミシェルに勧められて亘はカップに口をつける。普段味を意識して飲むことはないのだが、そうじゃなくても茶葉の香りと風味が口の中に広がって美味しいという感情が浮かび上がってきた。


 結局事実を伝えることができず、このままこの店で働くことになってしまった。相手の意のままに流され、意思を主張することができない気弱な自分に心底嫌悪感しんそこけんおかんを抱いた。


「よろしくね、亘」


 改めてミシェルが挨拶する。その期待を裏切れず亘は紅茶を口に運び黙ってしまう。



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