03 アルバイトしたいんだ

 青いグランクーペのBMWを駐車して裏の玄関口から店へ入る。店の通用口でもあり家の玄関でもある扉だ。上着を脱いで髪をまとめ、エプロンを身に付けてから開店の準備をする。いつもは10時には店を開けるのだが、今は10時半を回っていた。自分が経営する喫茶店なので開店時間は自由に決められるし、昼前に訪れる客はほとんどいないので別に構わなかった。

 レコードをかけてテーブルから椅子いすを下ろし外に看板を出す。店内に流れるのはルイ・アームストロングの"I Married an Angel"だ。1950年代のジャズミュージックで、昔から聞き続けている曲だ。


 カウンターの席に座りながらひと休みしていると、ドアベルが鳴り来店者が入ってきた。午前中に来たお客に驚き彼女はドアのほうに視線を向ける。


「いらっしゃ……」


 途中で挨拶あいさつの言葉が止まる。その来客者の姿に息を呑む。立っていたのは子供であった。紫色のパーカーにくたびれたジーンズをいた少年だった。彼女はその子供の容姿に目を奪われる。特に美形というわけではなく素朴な顔立ちの男の子なのだが、恐ろしいほど"彼"に似ているだ。


「すみません!」


 少年に呼び掛けられて彼女は意識を少年に戻す。不安そうな表情を自分に向けてきた。


「あ、えっと……いらっしゃい」


 なんとか挨拶をしたが、次の言葉が出てこない。席に案内したり注文を聞いたりという接客の手順はすべてふっ飛んでしまった。いつの間にか音楽が止まり静寂せいじゃくが流れる。


「あ……その、あの……」


 話を切り出したのは少年のほうだった。おどおどした様子で話し続ける。


「ここで、働かせてほしいんだけど…」


「え?」


「アルバイトしたいんだ」


 いきなり働きたいと願い出てきた少年の言葉に彼女は戸惑う。


「えーと、どういうことかな?」


「お、表に貼り紙があった。従業員募集って」


 言われて通りに面した硝子がらすを見る。確かに何か紙が貼ってあるが、さっき看板を出したときはそんなものはなかった。外に出てセロハンテープで貼られたA4の紙を取り内容を確かめる。確かに人員を募集するむねが手書きで書かれていた。彼女は首を傾げながら店の中へ戻る。


「ん~私が出したものじゃないな。これ、誰かのいたずらかな?」


「じゃあ、人は募集してないんですね」


 少年は残念がるというより少し安堵あんどしたような表情をする。


「変なこと言ってすみませんでした。失礼します!」


「まっ、待って!」


 足早に去ろうとする少年を彼女は腕を掴んで引き留める。少年の顔は一瞬で青ざめた。


「ねぇ、働きたいって言ってたよね。仕事がほしいの?それともお金?」


「あっ、いえ…」


 少年の顔色はますます悪くなり声も小さくなっていった。この子供の挙動きょどうを変だと感じていたが、彼女はこのまま少年を帰したくなかった。


「だったらいいよ。ここで働きなよ」


「え?」


 驚いて少年は振り返る。青い瞳の外国人と目が合う。


「でも、アルバイトは募集してないって」


「うん。でも雇えないわけじゃないから、きみが働きたいなら雇ってあげるよ」


 少年は再び顔を伏せしばらく床を見つめる。その間もずっと彼女は腕を掴んでいた。


「あの、履歴書とか持ってきてなくて」


「明日でいいよ。明日、また来てくれる?」


 腕を掴む力を強め念を押す。その圧力に耐えられなくなり、少年は嘘をき続けることにした。


「わかり、ました。明日、また来ます」


「本当に?」


「はい」


 約束を取り付けて彼女は子供の腕を放す。軽く会釈えしゃくして扉を開けて出ていこうとする少年を、彼女はもう一度呼び止める。


「ねぇっ!」


 呼ばれてあどけない表情の少年が振り返る。


「君の、名前は?」


 動揺していて肝心なことを聞き忘れていたことに気付き、焦りながら尋ねる。



「わたる、三嶋みしまわたる



 扉が閉まりドアベルの音がこだまする。白昼夢でも見ていたのだろうかと不安になるが、胸を押さえて現実感を確かめる。


「わたる…、ほんとうに、わたる?」




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