後編 10年の時を超えて
白い天井が目に映った。天井が見える? さっきまで俺は女の子を樹から下ろそうとしてて……いてて、後頭部がズキズキする。ここは……保健室?
俺は糊の利いたシーツの上で寝かされていた。消毒液の匂いが鼻をつく。
「あ、気がつかれましたかっ?」
にゅっと眼前にふわふわの髪の毛をした女の子の顔が現れる。色素が薄い髪の毛が、西日を浴びてきらきらと光って見える。ああ、寝てるのが俺だけってことは、この子は無事に樹からおりることができたんだ。
「さっきは本当にありがとうございましたっ。私一人じゃいつまでもあのまま樹の上でした」
「いいよ。無事におりられたんならそれで。怪我、なかったか?」
「ちょっと擦り剥いただけです。消毒もしてもらいました」
「そっか。で、俺どのくらい伸びてた?」
「一五分くらいです。ちょうど保健室の目の前だったんで、保険医の先生を呼んで……」
そっか、助けたつもりが俺が助けられちまったんだな。そんなことを思っていると、白衣を着た若い女性が携帯電話をポケットにしまいながら保健室に入ってきた。
「お、目は覚めたみたいね。でも頭打ってるから、一応救急車呼んでおいたわ。病院行って検査してもらいなさい」
「大丈夫ですよ。このくらい……いてて」
身体を起こそうとすると、後頭部の痛みはさらにひどくなる。ベッドの脇に座っていた女子生徒が背中を支えてくれて、ようやく身体を起こせた。
「無理はしないの。場合によっては命に関わるのよ。だから、ちゃんと検査うけてきなさい。家にはもう連絡いれてあるから」
「はい……」
木登り少女の手を借りて、再びベッドに身を横たえる。窓の外から救急車のサイレンが風に乗って小さく聞こえてくる。
「そういや、猫は?」
「無事でした! ここにいますよ!」
女子生徒の制服の胸のあたりがもこもこと動くと、ひょこっと黒い毛玉が顔を覗かせた。みぃ、と小さな声で鳴く。猫が恩義を感じているかどうかなんか俺には分からないけど、その鳴き声は何となく俺を気遣っているように感じられた。
結局、単なる頭部打撲で、脳には異常はなかった。病院に着いて検査を受けている間も、女子生徒は黒い毛玉を制服に隠して俺を待っていた。
「どうでしたっ?」
「なんだ、待ってたのか。もう遅いだろ? 先に帰ってればよかったのに」
「そんなこと出来ません。だって、あなたは命の恩人ですから! それに……」
「それに、なに?」
何だか息をするのを我慢してるような表情で目をぎゅっと閉じて、見る間に真っ赤になっていく女子生徒。なんだなんだ? 俺は何か悪い事でも言ったか?
「せ、先輩のこと、ずっと前から好きだったんですっ!」
病院のロビーの時が止まったかに感じられた。受付時間外の待合室に人はいなかったから、止まっていたのは俺とその地味めな女生徒だけだったんだけど。そういえば、制服のタイの色がターコイズブルーということは、この子は二年生。つまりは一つ年下の後輩である。
いやちょっとまて。ずっと前から好きだったって? 俺はこの子の事なんてぜんっぜん知らない。話した記憶もないし。地味だけど結構かわいいんだから、何か接点があればちょっと位は記憶に残っててもおかしくないんじゃないか?
「せ、先輩はわたしのこと覚えてないと思いますけど、助けていただいたの二度目なんですっ」
ますます解せない。そんな大事件があったなら、なおのこと覚えていないとおかしいだろう。
「えーっと、俺が君を助けたのは、今日で二回目なんだよね? 一回目って……いつ?」
「そう、あれはもう十年以上前……」
「ちょっと待った! そんなに前なの!?」
「はい。まだ桜町幼稚園の年少組だったころ、園庭にあったびわの木に登っていて、降りられなくなったんです。そこに現れたのが先輩で……」
俺の記憶の扉がギシギシと音を立てて開かれていく。
ああ、そういえば幼稚園のころ、園庭で女の子に樹の上からダイブされてびーびー泣いた覚えが……。
「って、俺ただ下敷きになって泣いただけじゃん!」
「そんなことありません! あの日から、幼稚園では『カズ君』『ひなちゃん』って呼び合って……」
「そんな恥ずかしい過去のことまでしっかり記憶してるのかよ!」
その女生徒、「ひなちゃん」は当然だとばかりちょっと控えめな胸を反らしてみせる。正直、そんな仕草がすごくかわいく見えた。
「でも、先輩小学校から私立の学校に行っちゃって、私は普通の公立の小学校に上がって……。だから、高校で先輩を見つけたときはすっごく嬉しかったんです! その日はもう眠れないくらいでしたっ!」
頬を染めながらも一生懸命にその時の気持ちを伝えようとしてくる「ひなちゃん」の笑顔は、幼稚園の時からすれば大分薄汚れた高三の俺にはすこしばかり眩しすぎた。
「そして、今日。先輩はまた私を助けてくれました。これはきっと神様の導きですっ!」
「何を大げさな……」
じっと俺を見つめてくる「ひなちゃん」には、確かに幼い頃の面影があった。くりくりと大きな瞳。ちょっぴり低い鼻と、桜の花びらのような唇。地味なのに、俺の好みはもっとこう派手な美人だというのに、「ひなちゃん」から目をそらせない。
「先輩……わたし……ずっとずっと好きだって言いたかったんです。私じゃ、ダメですか?」
嬉しそうに思い出を語っていた「ひなちゃん」が一転憂いを帯びた表情に変わる。うん、こんな表情もなかなかかわいいな、じゃなくて! つまり俺はいま告白されているって事だよな? 俺、自分から告ったことはあっても、告られた事なんて初めてだよ!
「……えっと……それって『付き合いたい』ってこと?」
「えっ……そ、そこまでは……その。でも、先輩さえよければぜひ! いやでもいくら何でも厚かまし過ぎる気も……」
「ぷっ……はは、ははは! いいよ。こんな俺でよければ。でも、まずは十年分の時間を取り戻すことから始めないとね」
とまあ、つまり雛子と俺は実は幼稚園以来の仲と言えなくもないのだが、実際に付き合ってまだ二週間ほどしか経っていないホヤホヤの新米カップルなのだった。通学路を並んで歩く俺たちの影が、西日に照らされたオレンジ色の路面に長く落ちる。
そういえば、病院のロビーでの告白劇のあとから今まで、俺はまだ雛子が待ち望んでいる言葉を口にしていない。記憶の扉は開かれ、当時のことを鮮明に思い出しても、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「カズ君が今何考えてたかあててみよっか」
「やめろ、多分当たってるから」
「えーっ! ずるいー!」
頬を膨らませて上目遣いに俺を見る雛子に俺は手を差し伸べる。それは十年以上前に当たり前だった光景。
「いいから行こうぜ『ひなちゃん』!」
ぽかんと口を開けたまましばらく動かなかった雛子は、全身で嬉しさを表現するかのように俺の差し伸べた腕に抱きついてきた。
「うんっ!」
俺たちはこれから、一緒にいられなかった十年分の時間を取り戻す。それと同時に、これから新しい思い出をどんどん作っていく。
『ひなちゃん、だいすきだよ』
『わたしもカズ君だいすき!』
遥か過去の自分たちが口にしていた言葉が、十年の時を超えてよみがえった。
10年目のアイラブユー 東 尭良 @east_JP
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