第3話 とある男の話 その3
社内環境は端的に言えば最悪の一言ですね。
セクハラパワハラは当たり前、みんな口を揃えて「俺も我慢した」。だからどうしたというのでしょうか、自分は自分、他人は他人です。そもそも自分が嫌だったことを人にするのは道理が違うでしょう。
こうやって誰かの問題を解決するたびに、人間の薄暗い部分を目の当たりにして、私の心がざわつき心に影を落とします。
いつか人に寄り添えなくなるほど、人間の事が嫌いになってしまうかもしれない。そう思ったことは何度だってあります。でもそんな風に思える間はまだ大丈夫なのでしょう。その感情すら失ってしまった死神たちを私は何度か見てきています。ただ人間の魂を回収するだけの機械となってしまった彼らを。
やがて長い長い時間が経ち、ようやく終業時間が終わりました。明るかった景色はとうに暗闇へと変わり、社内の活力に満ちた空気もいまや沈み切っていました。社内にいた人間も次々と退社していきます。
そしていよいよその時が来てしまいました。葵さんとクズ上司が共に会社を出ていきます。当然私とゲロ男さんもついていきます、そうでないと仕事が果たせませんからね。
おっとそういえば――
「はい、これ着てください」
そう言って私は一枚のボロ布をゲロ男さんに渡します。私が身に着けているものと同じものです。これを羽織るだけでほとんど姿が視認されません。まあ死神の場合は着ていようが着ていまいが同じですが。
効果を説明してあげるとゲロ男さんは感心したような顔をして布を被ります。
「でもこれって何か副作用とかあったりしないのか、だんだん存在感が無くなっていくみたいな」
「ありませんよそんなもの。そもそもそんな恐ろしいもん人間に被らせたらこっぴどく怒られます」
せいぜい人に見せられないレベルの厨二丸出しの格好になるだけです。……自分で言っててなんか辛くなりました。
おっと、そんな事をしている間に彼ら車に乗っちゃいます。急ぎましょうか。
「そういえばあの二人は車に乗って移動するんだろ、俺たちはタクシーか何かに乗るのか?」
何を言っているんでしょうかこの人は。
「あの車の後部座席が空いていますよ」
「…………マジですか」
マジです。何のためにその布渡したと思っているんですか。
窓から街灯の光が差し込みます。前方の席には葵さんとクズ上司が、後ろの席には私とゲロ男さんが乗っています。ちなみに全くバレていません。
「……まさか本当にバレないとはな」
小声でゲロ男さんが話しかけてきます。そりゃそうですよ、じゃなきゃあなたを連れてきたりしません。私一人の方がリスクは無いですからね。
そんな私たちをよそに、前の席では聞いているだけで腸が煮えくり返りそうになる会話が続いていました。
「いやしかしまさか君がここまでしてくれるとはね、三枝くんには悪い事をしたものだ。ハッハッハ」
「……その代わり、彼には普通の待遇を与えると約束してください」
「もちろん、皆にはちゃんと話しておくとしよう」
「…………!」
そしてそれを分かっていないのは葵さんだけのようですね、隣の三枝さんは私が隣にいなければ掴みかかっていたのではないでしょうか。
そんな風に話していると、窓から差し込む光が建物や街灯の白い光だけでなく、ピンクや青などの歓楽街特有の色へと変わっていきました。
そろそろ目的地へとつくのでしょうか、下卑た表情を隠さなくなってきていますね。それに反比例するような形で葵さんの表情は暗く沈んでいきます。
あなた達の表情、帰り道には百八十度変えてあげますよ。
静かな部屋の中にシャワーの音だけが響きます。防音もバッチリなのか、騒がしい外の音もほとんど聞こえてきません。
上司さんは一足先にベッドへと腰掛け、今か今かとシャワー室の方をチラチラ見ていました、ハッキリ言って深い以外の何物でもないですね。
それからどれだけ経ったでしょうか、時間にしてみれば五分にも満たない短い時間かもしれませんが、上司さんにとっても三枝さんにとっても、この時間は長かったのではないでしょうか。
やがてシャワー室から人影が一つ。
「いや待ちくたびれたよ、早くこっ……ちへ……」
そこから出てきたのはシャワーを浴びて出てきた葵さんではありませんでした。黒いボロ布のような外套を身に纏い、手には黒い手袋を、顔には能面を付けた変な奴でした。
まあ私なんですが。この着ている布もお面も別段何の仕掛けもない物ですので、上司さんにはバッチリ見えています。何で能面かと言えば私が何となく一番怖いなと思ったお面だからです、意味はありません。
「こ、これはどういうことだね三橋くん!?」
『どうもこうもありませんよ部長、私たちはもううんざりなんです』
前もって用意しておいた小型のスピーカーから葵さんの声が響きます。葵さんには既に三枝さんに頼んで別の場所から声を届けていただいています。シャワーは私が垂れ流していたのを止めただけです。
まあわざわざ滅茶苦茶音質悪い物を用意したので、普通には聞こえませんけれどね。何でかと言えばそっちの方が怖いからです。
そのおかげかは分かりませんが、この異質な状況に上司さんは既に怯えていました。
「な、何だね急に、そもそも今までの事はお互い合意だった、そうだろう? 権力ある私に君がすり寄ってきたのだろうが!」
なるほどー、そういう設定の下で葵さんに、いえ今まで部下だった女性たちにちょっかいを出していたんですね。
まあ私には関係ありませんが、葵さんにも前もって自分の鬱憤叩きつけるだけで良いと言ってありますからね。
『あなたが権力を笠に着てどれだけの事をやってきたのかは分かりません、ですが聞く限りでも相当な数の被害が私の耳に届いてきました。そして今回の
これだけの不満を叩きつけられ、手袋までつけたような人間がいたらどう思うんですかね。やはり殺されるのではないかと不安になるのでしょうか。
実際目の前の上司さんは先ほどよりも分かりやすい程に不安の色を顔に出していました。ですが相手が女性であるという事でまだどうにかなると高を括っている様子も見られます、舐めたものですね。
ちょっと驚かせてやることにしました、私が大きく手をふるいます。すると後ろに飾ってあった調度品が音を立てて壊れました。
「ヒィ!? ななな、何が起こったんだ!?」
三枝さんが私の合図に合わせて物を壊しただけです。
続いて私が手を上げます、すると部屋の電灯が砕け散りました。ちなみにこれも三枝さんに予め教えておいた動きです。
上司さんはと言えばここいらでようやく、自身の目の前にいる存在が対格差だけではどうにもならないのではないか、と気づけたようです。まあ特殊な能力なんてありませんが。
「な、何なんだ! 何者なんだよお前はああ!?」
声は震え、腰を抜かしてすっかりへたり込んでしまいました。情けない人ですね、しょせん権力だけの男なんてこんなもんでしたか。
さてと、仕上げでもしましょうか。そう思い私はお面へと手を伸ばします。その動きを何かされるのではと勘違いした上司さんは必死に命乞いを始めました。
「わ、分かりました、もう二度とセクハラはしません! 三枝くんの待遇も以前のように、いや君ら二人にそれ以上の好待遇を用意しよう! 金だっていくらでも払う! だから――」
その言葉を最後まで聞くことなく、私は被っていたお面をそっと外して、地面へと放ります。そして極めつけの一言は葵さんに。
とびっきり音質の悪いスピーカーでただ一言。
『私はあなたを絶対許さない』
部屋の中に一人の男の悲鳴が響きます。彼はお面の向こうの何を見たんでしょうか。
いえ、何か見えたのなら悲鳴は上げませんね。
「葵!」
「あ、柊二くん。……終わったん……ですか?」
すでに建物の外へと移動していた葵を見つける。不安に満ちた表情であったが、俺に怪我一つないことが分かると安心しきっていた。
「本当に、本当に全部、上手く収まったんですか?」
「ああ、大丈夫。これでアイツも鳴りを潜めるだろうさ」
それもこれも全部…………全部……、あれ……?
「えっと、俺誰かと一緒にこの作戦を決行したはずなんだけど、誰だっけ?」
その人がいなければ成り立たないようなことだったのに、どうして思い出せないんだろう。
見れば目の前の葵も不思議そうに首をひねっていた。
「うん……、私も柊二くんから誰かの話を先ほど聞かされたような……」
分からない、何も分からないけれども――
「……けれどもこんな事ってあるんだな、俺もどうにもならないと思ってたや」
「そうですね、誰か分からないですけれども、その人に感謝しなきゃですね」
思い出せなくなってしまったけれども、その人に対する感謝だけは胸の中に残っていた。
死神の日記帳 卵粥 @tomotojoice
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