第2話 とある男の話 その2
少々感情的になる部分もありましたが、ゲロ男さんの事情は一通り聞き終えました。
これまで良い雰囲気止まりであった幼馴染と同じ会社に入社したこと。その後彼女が上司からのセクハラに悩まされていること。そしてそれに対して彼が立ち上がったものの、相手の立場や既に確立されていた社内の空気によって立場が無くなってしまったという事。そして何よりも彼女自身が明日には、そんな自分を助けるために犠牲になろうとしているという事。
詰みの一歩手前といった状況でしょうか、ずいぶん追い詰められているみたいですね。
「…………」
そして何故でしょうか、私の中にはよくわからない感情が生まれていました。もちろんこんな胸糞悪い話を聞いたことによる怒りが大部分ですが、人間に対する悲しみ、そして事象に対する――恐怖。
このような話はよく聞きますが、慣れることはありませんね。いえ、慣れてしまうとこの仕事は二度と出来ないのでしょう。
それでもこの類の話を聞くたびに生まれる恐怖の感情、これだけはいつも私を悩ませます。
「……えっとクロハさん、どうかしたのか?」
気が付けばゲロ男さんが心配そうな顔でこちらを見ていました。少々ボーっとしすぎましたね、仕事中なんですからしっかりしませんと。
「……すみません少し考え事を、ですが話は聞いていましたので心配しないでください」
要は適当に証拠を押さえて警察に突き出してしまえば終わりでしょう。それだけで社内環境も改善が見込めて、彼ら二人も救えてハッピーエンドですね。
死神の姿は普通の人には見えませんし盗撮、盗聴お手の物です。任せていただきましょう。
「それじゃあ明日の夜にでもそちらの方に赴きますので、安心しておいてください」
「あ、ああ……。今更なんだけど、本当に信じてもいいんだよな?」
何ですか、ここまで話しておいて本当に今更ですね。そんなんですから未だに幼馴染と良い感じ止まりなんですよ、と小言の一つでも言ってやりたくなりましたが、よく考えたら死神の存在をこの短時間で信じ切ることの方が無理な話ですね。
「そんなに信用ができないのであれば、明日の夜あなたもどこかに隠れて見ていると良いですよ。」
そのクズ上司はどうせ幼馴染さんに手を出すために、遅くまで残らせるでしょうし。
「そこで少し――面白い物を見せてあげますよ」
何を言っているのか分からないといった表情のゲロ男さんでしたが、説明はしてあげません。
それは明日のお楽しみという事で。
今日も少々ピりついた空気から一日が始まる。俺がオフィスに入れば周りの人間はさまざまな感情を向けてくる。厄介ごとに巻き込まれたくはないという同僚からの忌避の視線。自分たちが我慢してきたことに対してわがままを言う人間に対する怒りの視線。
――そして俺に対して申し訳なさ、悲しさなど、マイナスの感情だけが入り混じった視線を向ける女の子が一人。
(
何かを言わなければいけない気がした、もう大丈夫? 今までごめん? それとも――
しかしどの言葉にも確証なんて存在しない、昨日の出来事だって自分を保つために生み出した幻覚かもしれない。
「お、みんな揃っているようだね。では朝会を始めようか」
結局何も言えないままに、就業時間が始まってしまった。
「――で――あるからして――」
自身がずっと目の敵にしてきたクソ上司。誰もこの時間を有意義になど思ってはいない。誰もがアイツの事を快くは思っていないのだ。
けれども何も言えない、自分も我慢してきたのだから、そんな負のスパイラルがずっと続いて自分は、葵は、こんな目に遭っているのだ。みんな嫌いだった、あの上司も、ここで働く先輩たちもみんな。
それでも我慢してこれたのは葵がいたからだった。二人で頑張っていこうと入社した日に約束したから。
「あーそれと、
「…………はい、わかりました」
朝会が終わる間際のそんな何気ない一幕に、俺の心が締め付けられる。それと同時に周りからは心無い言葉が溢れてきた。
「――っぱり――駄だったな……」
「――ざま――いな」
「新人のくせに――意気だったんだよ……」
嫌いだ、嫌いだ。ここにいる全員が嫌いだ。もういっその事、ここで全てを壊して二人でどこかへ逃げてしまいたかった。そうだ、そうすれば良かったーー
「落ち着いてください、今は我慢の時ですよ」
「――!?」
聞こえるはずのない声に振り向く、誰もいない。
(……本当に、どうにかなるのか? 信じて……良いんだな?)
期待していた。先ほどまでの黒く固まった感情が、まるでプレゼントを開ける直前の子供のように明るい物へとすり替わっていた。
「えー、それではこれにて本日の朝会は終わりです。それじゃあみんな今日も一日励むように」
締めくくりの言葉で、俺は再び現実へと引き戻される。
(分かった、信じるよ。クロハさんの事……、死神の事を……)
少なくとも今日一日は、仕事へと励めそうだった。きっと明日だってそうなる――。
明るい希望を胸に俺は自分の席へと向かっていた。
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