味蕾(みらい)

ヒラノ

味蕾

 序


 彼女の周りには、花が溢れていた。


 栗色、亜麻色とでも云うのであろうか、落ち着いた焦げ茶色の髪を持ち、短い睫毛に縁取られ涼しげな目許をした彼女の周りには、いつも花の匂いが漂っていた。

 私が読む雑誌の付録なんかについてくる、子供らしさと安っぽさが滲む甘怠い香水の匂いとはまるで違う。

 ひとたび鼻腔に流れ込めば、その淡さにもう一度とそっと身を寄せたくなるような、上品な花の香り。


 私達は、同じ制服に身を包み、来る日も来る日も共に居た。

 今となってはきっと珍しいであろう臙脂色のセーラー服を着て、白いラインの描かれている襟を寄せ合って。我ながら仲睦まじく内緒話をしたり、それから、

 ――それから、彼女の食事姿を眺めていた。


 彼女は、四季を連れていた、と思う。

 実際季節が巡るごとに彼女を彩り作り上げる花の種類は変わったし、

 春の陽気に包まれていても、

 夏の日差しに照らされていても、

 秋の紅葉に染められていても、

 冬の北風に刺されていても、

 まるで四季の神様に愛されているかの如く、いつでも彼女は美しかった。

 彼女は四季に愛され、四季を飼い馴らしている様だと、常に一緒に居た私はそう思ったものだ。


 少女であることの象徴である臙脂色のセーラー服に護られていた数年間、そんな甘い香りの中で私達は夢の様な時間を過ごしていた。

 かつては軽やかにはしゃげた足首に今は時計の枷を嵌め、ただ急かされる様に生きている、身も心も元気いっぱいのあの頃とは違った。

 セーラー服を脱いだら大人だ。無条件に守られる制服に代わり、優しさを持たないようなビジネススーツが私達の身を包んだ。環境が変わっても、心まではすぐには大人になれず、その堅さとはいつになったら互いに歩み寄れるのか、考えたが当然答えはなかった。

 一日だって忘れない記憶を今日も脳裏に蘇らせながら、私は一日の疲れを溜めきって、自室のベッドに飛び込んだ。

 細くしなやかな蔓の針。十二種の花々に囲まれた花時計。時刻は午後九時。

 時間が戻れば、もう一度子供に戻れたらと、何度だって祈り、何度だって思い出す。




 春

「出会い」


 ————「花を食べるの」


 私達の出逢いは春。

 彼女が紡いだ言葉を、はっきりと憶えている。

 ルーズソックス程ではないものの、ふんわりと膨らんだ清潔な靴下を履いて、茶色いローファーを履いて、中高一貫の高等学校に入学して少し、桜が散った頃。

 街の中でも頭の良い方だと思われる私立の学校で、私も彼女も過ごしていた。


 陽がゆっくりと沈み始める、他の誰の人影もない中庭での出来事だった。

 中庭から離れたグラウンドの方ではまだ運動部の掛け声が微かに響いているが、生い茂る様に並んでいる染井吉野が暗く影を落とす中庭からは、この時間にはどの生徒も早々に姿を消してしまう。灰色をした石の地面に濃い影が落ちると、僅かに残った夕陽もお構いなしに暗くなる。


 私自身も随分怖がりの為に、出来るならあまり通りたくないのだが、その日は、入学してクラスが決まるなり早くも急かされている、学年全体の志望委員会を記入した用紙を提出しに、職員室へと立ち寄っていた。未だ随分明るい時分に寄ったのだが、長居しすぎたためか、外に出て来たら思ったよりも辺りは暗くなっていたのだ。

 本格的に暗くなる前に中庭を通り抜けて帰ろうと思って居たのに、隅っこの花壇の前にしゃがみ込む彼女の後姿を見つけ、私は、つい立ち止まってしまった。


 ————初めは、園芸部か何かの生徒が、ひとりで花壇の世話をしているのかと思った。

 しゃがみ込む背中に波打つ髪にも影が落ち、こちらから表情は窺えない。

 然し、何となく見守っているうちに、私に気付いていなかったのであろう彼女の指が、花壇に咲くピンク色の花へと静かに伸びた。

 そして、一年生の学年色である真っ白のリボンピンの付いた小さな肩が、きゅっ、と少し震える。肩に止まった可愛らしい蝶々の様だった。

 花弁を千切ったのだ、と、その動きだけで理解することが出来た。


 そして、軈てその手が引かれ、彼女の指がつまんでいた鮮やかな花弁は、見る間に消えてしまった。

 私の困惑と呼応する様に、さっと風が起き、庭を覆う木々が騒めく。

「……食べた……?」


 気が付いたら、呟いてしまっていた。

 流石に声が聞こえて仕舞ったのか、花壇の前の少女がこちらを振り返る。小さく薄い唇の間に、フレークの様な花弁が小さく覗いている気がした。


 振り向いた少女の足元に、革の鞄が口を開いたまま置かれていた。

 ――宮森陽。蓋の裏面の氏名欄に、几帳面そうな字で書かれている。ふりがなは、みやもりひなた。

 これが、彼女の名前だろう。先程提出した用紙に私が自分で書いた、藤川旭、という子供っぽい筆跡を思い出して、つい、ばれないよう小さな溜息をつく。ふじかわあさひ、というふりがなの平仮名も、子供らしい字体。


「食べた様に、見えた?」

 手ぶらの私が馬鹿みたいに突っ立って見つめていると、少女――陽は問い掛けた。

 同時にすっと双眸が細められ、綺麗な顔が柔らかく微笑む。

 その時、あ、こんな綺麗な人なら花を食べていても可笑しくないかもしれない、などと、場違いなことを思った。


 そんなことを思う私のセーラーの右肩にも、白色のリボンのピンが付いている。

 この学校では、一から三学年によって学年色というものが決まっていて、安全ピンに小さなリボン飾りが付いたものを刺す決まりになっており、それを見て、教師たちは生徒の学年を見分けるのだ。因みに、女子はリボンピン、男子は詰襟に刺すバッジの色がそれぞれ異なる。

 一年生は白、二年生は千歳緑、三年生は山吹。

 余程体格が変わらなければ三年間使い通しの制服に、学年が変わる度、若しくは洗濯クリーニングから返ってくる度、私達生徒はピンやバッジの針を刺す。

 的確に同じ位置を見計らって上手く刺すことが出来る生徒も居れば、私のように何度も刺し直して肩が小さな穴だらけになっている生徒もちらほら居る。

 同じ制服を着て同じものを付けている集団の中で、個性が現れる部分だ。


 目の前で花弁を口にした様に見えた陽と私のリボンは同じ白色なのに、彼女の微笑みは上級生ではないかと思うほど大人びて見え、私は、向けられた問い掛けにおずおずと頷いた。

「見えた。……綺麗だった」————つい本音も漏れてしまう。

 互いの間、花壇までの数歩の距離を、温かな風が通り抜ける。「花を食べるだなんて、そんなわけないでしょ」と言われるかと思っていたら、花壇の前の陽はあっさりとこう言った。


「あーあ、ばれちゃった」

 そして、鞄も拾い上げることなく立ち上がると、その場から動けず、碌な返事も浮かばない私の眼前にやってきて、

「内緒ね、いま見たこと」

 切れ長の瞳がこちらを見据える。それこそ植物の蔓の如く、柔らかなのにしなやかで強い圧を感じる眼差しだった。

 あんまり私が何も声を発しないせいか、「いい?」と再び問われてしまった。

「わかった」と私が声を絞り出すと、ようやく満足した様子で陽は微笑む。

 お人形みたいだ、と思った。

 心を奪われるという言葉を、私が初めて本当に経験したのではあの瞬間だったのではないかと、今でも思う。

 綺麗な容姿の女の子に、花にまつわる秘密。充分すぎるほどに甘美だった。

「あの、訊いてもいい?」

「なあに」

「本当に、花を食べていたの?」

 美味しいの、と、妙に間の抜けた質問を続けてしまう。不味いならそもそもきっと食べないだろう、と、尋ねてしまってから気が付く。同じ性別でありながら、間近で見る綺麗な顔に、その時の私は酷くどぎまぎしていた。恐らく、傍から見ていても面白かったことだろう。


 初対面の人間である私の質問を聞いても、陽の顔に嫌悪の色は浮かばなかった。うーん、と、僅かのあいだ視線を動かして宙を見上げ、少ししてから、うん、と今度は弾んだ調子で一つ頷いた。

「あなたになら、教えてあげる。今から、一緒に帰ろう」


 えっ、と声を上げた私の手を片手でそっと握り、そのまま花壇の前に落ちている鞄を拾い上げると、再びこちらを向いた陽は屈託なく笑った。

「習い事とか、ある?」

「ううん、してない」

 じゃあ大丈夫だね、と言いながら手を引かれて、一歩先で靡く髪を見ながら、おずおずとその手を握り返した。

 元々私自身があまり社交的な性格ではないゆえの緊張や驚きこそあったものの、入学早々、自分にとってもその秘密が重要なものに思えて、同時に、私の心には仄かな期待も滲み出していた。



 舗装されたロータリーのような道を横切って中庭を離れ、私達は校門を出た。門を出る際に見上げた時計台が示していた時刻はもうすぐ午後五時を回っていた。生徒が溢れている朝昼とは異なり静かな敷地の頭上を、からすが数羽群れながら飛んで行く。手を繋いだまま歩き出した私達は、互いにそれを解かずに歩みを進めた。

 学校のそばには、閑静な住宅街がある。私もそこに住んでいる。一軒家や小さなマンションがケーキの詰め合わせみたいにお行儀良く建ち並び、その多さを見る度に、学校に通うほとんどの生徒は皆ここに集まって住んでいるのではないかという気分になる。そして、自分の部屋の窓から、数え切れない灯りを眺める時には、この住宅街だけでこんなに人間が居るのか、と、いつだって不思議に思うのだ。

 暮れてゆく空の前方に、大きな夕焼けが見えている。橙色をした端の方は空にじんわりと滲んで、線香花火の芯が蕩けていく姿とよく似ていた。


 住宅街の奥まったところに、小さな公園が一つある。私の手を引く陽は、迷うことなくそこへ向かっていた。まだ桜の甘い香りがする風が通り抜け、眼前の髪が揺れるのを見ながら、彼女もこの辺りに住んでいるのかな、と考えた。

「着いた」

 やがて、既に街灯の燈っている公園に足を踏み入れ、陽はくるりと私を振り向いて笑った。

「この公園、知ってた?」

「うん。私、この近くに住んでるから」

「そう。私は、この住宅街の中じゃないんだけど、まあ近くかな。もう少しあっちの方なの」

 公園を取り囲むフェンスを背にしたベンチに座る際、学校を出る時から繋いでいた手は自然にほどけた。いつの間にかしっとりと汗ばんでいたらしい手のひらを、吹き抜ける夕方の風が冷ましていく。頬にも心地の良い風だった。

「……花の話」

 さわさわと草の揺れる音が鳴り出したのをきっかけに、私は小さく呟いた。花を食べるという秘密、私になら教えてくれると言った秘密。初めは困惑していたけれど、それをいま、どうしても聞きたくなっていた。

 歩き疲れた足を伸ばして座っていた陽が、私の方を見た。隣同士でベンチに座って目を合わせると、やっぱり私より大人っぽい顔つきをしていた。

「忘れてないったら」

 その顔がくすくすと楽しそうに笑って、視線は真っ直ぐ空に移った。

「私も、聴いてほしいと思ってたの」

 線香花火みたいで綺麗だと思っていた夕陽は、木が多く僅かに薄暗い公園から見ると、なんだか心細げな様子にも見えた。



 *

「花を食べるようになったきっかけは、本当に何でもないことだった。まだ憶えてる。ずっと昔、小学生の頃。

 風邪をひいて学校を休んで、じっと部屋で寝ていたの。

 お父さんもお母さんも働く人だけど、お母さんはその日、私のことを心配して休んでくれた。

 私を病院へ連れていった後は静かに寝てればいいだけだったのに、丸一日もね。

 大人しく寝ていなさい、なんて言われて、私も始めは言われた通りベッドに入ってた。

 ああそうだ、夏だった気がする。窓の外はとても暑そうだったのに、私は丁度良い温度の部屋の中で、ずっと静かにしてたの。

 でもね。————ほら、よくあるでしょ。皆が学校で勉強なんて面白くないことしてるのに、自分は家でなんだって出来るんだ、っていう小さな優越感みたいなもの。昼間のテレビも観られるし、給食にはついてこないデザートも特別に食べさせてもらえる。そういうのがあの時の私にもだんだん出てきて、怒られない中で出来る限りの遊びをしたの。勿論、熱も少しあったから、ベッドの上で出来ることに限られたけれど。


 ……そうしてしばらくしたらお腹が空いて、私は何か食べたくなったの。

 でも、お昼御飯から少し時間が経っただけ、晩御飯にはまだ間があって、すごく変な時間帯だった。今『お腹すいた』って言っても、『もう少ししたら晩御飯だから少し我慢しなさい』って言われるに決まってるって、それも私はわかってた。


 ————そこで目についたのが、花だったの。

 窓際に飾ってあったインドアローズ。薄桃色で、私が寝てる間にお母さんが水やりをしたのか、濡れてきらきらしていて、なんだかその時の私には酷く美味しそうに見えた。

 ベッドからその花びらを眺めてると、それを口に入れた時の温度や、歯を立てた時の感触なんかが、まるで手に取るようにわかる気がした。まだ口に入れたことなんてなかったのにね。


 興味本位だったかもしれない。理由はそんなものだった。

 それらを無性に味わいたくなって、私はインドアローズの花びらを口にしたの。

 ————美味しかったって?……うん、美味しかった。私が元気だと思い込んでいただけで、まだ熱があったのかもしれない。退屈すぎて、ちょっとばかり変になってたのかもしれない。

 でも、確かに、美味しかったの。歯に伝わる感触も、ひんやりした温度も、やっぱり想像通りで、それにも私は感動した。

 これが、私が初めに花を食べた時のこと。

 流石にばくばく食べはしなかった。だけど、体が元気になってからも、花を見ると食べたくなってしまう癖がついて、なかなか抜けなかった。

 だから今でも、ちょくちょくつまみ食いしちゃうの。普通の御飯より美味しいって感じてしまう時もあって、それが今も、少し悩みの種」


「毒のある花もあるんじゃないの?」

「勿論。食べたら喉が腫れて、窒息して死んじゃう花もあるんだよ。だから沢山調べた。次の誕生日には植物図鑑をねだって買ってもらって、絶対に口に入れちゃいけないものは覚えたの。すずらん、カラー、アネモネ……他にも色々」

「さっき学校で食べてた花はなんていうの?」

「あれはベゴニア。すごく明るく綺麗な色をしてる」


 私の質問にも応じてくれつつ、ぽつりぽつりと心地よい声が語った話を聞くうちに、空は又少し暗くなっていた。

 長い告白を終えた陽がおもむろに周囲を見回す。

「ここにも、ベゴニアが沢山咲いてるね」

 ベンチの後ろも花壇だった。私は密かに、彼女がもう一度花を口にする姿を見られはしないかと考えていた。学校で見たのは後ろ姿で、その全てを見たわけではない。ただ、その姿をはっきりと見たら、やはり間違いなく綺麗なのだろうと、実際この目で見るよりも先に確信していたのだった。

 だから、

 ————「なんだかお腹すいちゃったかもな」

 会話と会話の合間に紡がれた、彼女にすれば何気ないものであったのだろうその言葉を聞いた時、後のことなど考えず、私は口走っていた。

「ねえ」

「なに?」

「もういっかい、見せて」

 陽の瞳がぱちりと瞬いた。透明な空を映す、澄み切ったビー玉のようなそれに見つめられ、私は思わず目を逸らしそうになる。————お願いしたのは自分の方なのに。

「……花、食べるとこ。近くで、見たい」

 とはいえ、一度口から零れた言葉を再び押し戻すことは不可能なので、陽の表情を窺いつつそう続けた。

 彼女が返事をするまでの間が、永遠のように長く感じた。少し訳を話しただけなのに、一気に図々しくなって、だなんて思われていないだろうか。

 そんな風にも思ったが、どうやら私の心配は杞憂だったらしい。

 小さく、機嫌良さげに笑う吐息が聞こえると同時に、眼前の陽がベンチから立ち上がった。皴一つないプリーツスカートが優雅に揺れる。ひょっとして帰らせるほど嫌なお願いをしたかと、ひやっとしたのも束の間、彼女はベンチの後ろに回り込み、花壇から育ちすぎて外に飛び出している一輪のベゴニア、その花弁をそっと手の中に収めた。

 日の暮れかけている公園、決して明るくないその場所で、彼女の手の中に在る花弁だけが、痛いくらいに鮮やかだ。マゼンタ色をした花弁を、彼女のしなやかな指が摘まみ上げる。

「見ててね」

 やがて、陽はその唇を開いた。いとも容易く、開いた口の中に花弁を一枚押し込んでしまう。

 花を食べるという事をしない私からすれば特別な品に見えてくるが、彼女はグミでも食べるような気軽さで食べてしまった。

 お人形のように小さくて可愛らしい口が、甘い色をした花弁を味わっている。ここがただの住宅街付近の公園だろうが、本当の物語の中に入り込んでしまったのかと錯覚するくらい、それは、私からすれば夢のような光景だった。

「……美味しい?」

 ふわふわとした雰囲気を纏って、花に惹かれて、食事をして、この子は蝶々みたいな子だな、と思いながら問いかけると、

「うん」

 と返事が返ってくる。夢みたいな本当の光景を傍で眺めている私に向けて、続けざまに、これが一番好きなの、と楽しそうに付け加えられた。

「もうひとつあるけど、食べる?」

 悪戯な眼で微笑みかけられて、緩くかぶりを振る。肩に触れそうで触れていない、そんな位置で切り揃えられている私の髪がさらさらと揺れた。頬に触れる毛束が擽ったい。


 花を食べるということは、彼女の為だけにある行為だと思ったのだ。

 私と違って、外国の女の子みたいにカールした髪の毛先。優しい亜麻色。お人形、じゃなくても、お姫様みたいな、彼女の為だけにある行為。だから、私は断った。

「味は私が保証するのに」

「そうじゃないの。陽……ちゃん、が、食べているところが一番見たい」

「……!私の名前、知ってたの」

「学校の花壇の前で、鞄に書いてあるのが見えたから」

 名乗り合うより先に、秘密を教えちゃった、と笑う陽に、私も遅れた自己紹介をした。

「どっちも、お日様の名前だね」

 陽で『ひなた』、に、旭で『あさひ』。宙に指で文字を書く彼女は、その一連の動きで、手に持っていた残り一枚の花弁を私に差し出した。


「はい」

「えっ、 」

 食べないって言ったのに、と戸惑っていると、陽は言った。

「旭ちゃんが食べさせて」


 私は、彼女の御付きになった気分で、そっとその花弁を唇に触れさせた。ベゴニアの濃い色と、夕暮れに溶けそうな頼りない唇の淡さ。躊躇いながら差し出した花弁を、お姫様の彼女は口にした。

 花を味わう彼女を見ていると、小さな子供が母親の差し出すスプーンで「あーん」をしてもらうようにも見えたし、そうとも違う、もっと特別な儀式のようにも感じられた。

「美味しい」と、今度は自分から笑って言われ、私も思わず笑みが浮かぶ。


 春先、早々に秘密が出来た。秘密を共有してもいいと思ってもらえた。紛れもない事実がそこにあった。小学校から持ち上がりの友達が大勢居る中学とは異なり、一から友達を作らなければいけない高校で、早くもひとりぼっちじゃなくなった、という喜びも、同時に私の心を浮き立たせた。


 僅かな夕陽の残滓が消えるまで公園で時間を過ごした私達は、やがて帰宅を促す市内放送のチャイムが鳴るとどちらからともなく「帰ろう」と立ち上がった。次の日は週末だ。

「またね」

「また来週」


 この日から幾度も繰り返すことになる言葉の第一回目を交わし合い、私達はそれぞれの帰路へと足を運ぶ。







 夏

「独白」


 ————この子になら、秘密を話してもいい。

 春先の花壇の前に座り込んでいた私の背中へと、消え入りそうな呟きが届き、声の主の姿を認めた瞬間、私は何の脈絡もなしにそう思った。

「……食べた……?」

 風に紛れてその言葉が届いた瞬間こそは、しまったと思ったのだ。花を食べている姿を見られるということ、しかもそれが学校の物であるということ。私の心臓は急激に冷えた。

 だけど、私の秘密を目撃した女の子は、佇まいに純真さが溢れているような子だった。

 花を食べる秘密を他言しそうな人間だったら大変だったのだが、話し方も態度も遠慮がち、質問もおずおずとしてくる彼女を見て、直感的に私は、この子は他言しない、と悟ったのだった。何の根拠もないのに、不思議としか言いようがない。

 藤川旭。これが、彼女の名前。

 公園で名乗られて、あさひ、と読むのだと理解した時、名前の通りに育った子だ、という印象を抱いた。彼女の態度もそうだが、控えめな言動とは裏腹に、その笑顔は非常に明るいもので、私が何か質問に答える度に、ぱっと光の射す表情は、毎朝見る者の心を無条件に和らげてくれる、『朝陽』そのもののようだった。


「一緒に帰ろう」

 そう言って旭の手を引いた時、内心で私は自分自身の行動に驚いていた。秘密を他言しそうな人間に口止めするならともかく、そのまま別れても良かったものを、どうして誘えたのだろう。公園で、秘密を共有出来たのだろう。

 ————あの日の自分の行動に対するその答えは、本当はもうわかりかけていた。

 だけど、そんなものと、あの可愛い彼女を一緒にするのに、少しばかり気が引けた。



 私が現在高校生として通っているこの学校は、所謂、中高一貫と言われるものである。

 昔から一家で学校の近くの地区に住んでいた私は、中学受験をして入学した。なので、言ってしまえば、中等学校からの内部進学生ということになる。彼女は気づいていただろうか。内部進学の生徒と外部受験で入学した生徒の制服は少し異なっていて、内部の生徒の靴下には、セーラー服と同じ臙脂のラインが二本入っている。そして、外部の生徒の靴下は白の無地。

 中等学校に居る時分、私の周りには、然程多くはないが、友達はちゃんと居た。学校生活でお決まりの、女子の数人グループ。気の強い子も居れば毎度仲介役になってしまう子も居たけれど、喧嘩の度になんとか上手くやってきていた。


 ただそれも中学生活前半までの話で、————二年生の終り頃だろうか。今までの人の輪が噓のように、気づけば私は孤立してしまっていた。

 ————だけど、原因が私にあることは、自分が一番わかっている。


 放課後の公園で旭にもした話だ。

 私が初めて花を口にしたのは、小学生の頃の欠席がきっかけだった。どうしても退屈で、お腹が空いて、熱に浮かされていたせいもあっただろうが、霧吹きで濡らされてみずみずしく咲いているインドアローズの花が、そこにあったものの中で一番美味しそうに見えたのだ。

 淡い桃色をしたそれは、口に含むと間違いなく甘いだろうと思ったし、歯を立てたら鈍くも柔らかな、それでいてしっかりとした歯応えがきっと返ってくると、根拠もなしに確信した。

 そして、実行してみれば思った通り。

 その時の私が本当に正常だったかは自信を持てない。だけど、思った通りの感覚が返ってきたことが嬉しく、また、当然飾ってある花なんて、食べているのが見つかれば叱られる故それは『自分だけの秘密』となって、私は直ぐに虜になった。


 遊びで、時々こっそりと口に含んでいるうちはまだ良かったのだ。遊びで道端のツツジを吸ったりすること程度なら、皆が知っている。きっと実際に蜜を吸って遊んでいた人も居るのではなかろうか。

 だけど、いつしか私の行為は、『習慣』へと変わっていた。

 一度、柔らかですっきりとした花の食事を知れば、胸焼けのしそうなタルタルソースのたっぷりかけられたチキンや揚げ物、いつまでも重苦しくお腹の底に居座っているようなハンバーグが食べられなくなり、次いでハンバーガー、ポテトチップス、そういった系統のものを、私の胃はどんどんと受け付けなくなっていった。遠足のおやつも、フルーツの飴玉が一番多くなった。


 家で出る食事は、夕食のメインディッシュに毎日苦労した。味が嫌いになったわけではない。花と異なるそれらの重さに、耐えられなくなったのだ。

 幸い学校は給食制ではなくお弁当を持参する決まりだったから好きなものを買えて良かったものの、私が苦手としていったそれらは、『放課後の寄り道』としてはどれもこれも定番すぎた。

「陽ちゃん、今日の放課後に皆でファミレス行かない?」

「カラオケ行ったら、山盛りポテト頼もうよ。四人以上で行ったら、ケチャップだけじゃなくてマヨネーズもつけてくれるんだって」

 こういった誘いを受ける度に、何もお腹に入れたくなかった、否、入れたあと何も気にせず笑っていられる自信のなかった私は、それらをことごとく断った。


 ————ごめんね、今日は早く帰ってきなさいってお母さんが。

 ————今日は、ピアノがあるから。


 合わなくなっていった食事を避けるため、適当な約束や習い事をでっち上げる。

 授業終わりに毎週一度は必ずかかる誘いから逃げるように、急いで帰り支度をして学校から離れた。

 それを繰り返していたら、私はいつしか誘われなくなり、ひとりぼっちになっていた。中学生のグループが揺れる理由なんて、簡単なものだ。

「だって、いつ誘っても絶対来てくれないんだもん」

「私達のこと嫌いなのかなって」

 どれも無理のない言葉だった。私が逆の立場なら、同じことを思ったことだろう。

 だから、一人にしないでとも言えなかったし、自分の変化を思うと、ごめん、行くから、と謝ることも出来なかった。


 小学生のあの時大人しく夕御飯の時間まで待っていたら。

 花を食べたりしなかったら、孤立し始めてから高等学校に上がった今にも至って、こんなことにはなっていなかったかもしれない。

 何度そう思ったことだろう。

 食用花という概念があるということも少し大きくなってから知ったけれど、それを料理のアクセントなどにしてささやかに楽しむ人達と、普通の御飯も美味しく感じられなくなった私とは、やっぱり全然違っていた。


 それ以上誰とも関われないまま高等学校に上がって、————旭と出会った。

 それも、こっそりと花を食べているところを。

 だけど、否定的なことは何も言われなかった。それどころか、

「綺麗だった」

 その言葉に自分の耳を疑った。

 花のことかもしれないし、でも花なんて碌に見えていなかったはずだし、でも私のことだったらどうしよう。いや、私のことじゃないかもしれない。

 そんな風に胸の中が慌てだしたが、この子になら秘密を知られてもいいかもしれないと思ったのは、その瞬間だった。

「あーあ、ばれちゃった」だなんて、明るく言えてしまった。


 だから、帰り道に誘ったのだ。

 自分の苦い思い出と、現れたばかりでそれを知らない彼女とを一緒に結びつけてしまうのは嫌だけれど、もし私が今ひとりじゃなくて、あの時のグループ友達と一緒に居たら、旭には見向きもしなかっただろう。こうしてひとりで花壇に居るところに声をかけられることも無かっただろう。

「花を食べるの」

 公園からの帰り道、私は新しい居場所を得たと素直に確信した。同時に、ひとりぼっちじゃなくなった、と気づいた時に感じた安堵の大きさに、我ながら驚いたのだった。



 私達の夏は、あっという間に過ぎていった。

 私に、友達との学校生活が戻ってきた。

 ヒマワリが太陽に焦がれ、他の夏の花々も咲き乱れ、植物が生き生きと育つ季節、私達の親しさも、春先よりずっと近づいた。

 プール、夏祭り、図書館での勉強、カフェでのお喋り。危ぶんでしまった初めての接触からは考えられないほど立った予定。

 彼女の遠慮がちな態度を見た時から、「この子はもしかすると人見知りをする子ではないか」と私は感じたのだが、どうやらそれも当たっていたらしく、旭にも然程大勢の友達は居ないのだと、いつか彼女自ら言葉を零した。

「両手で数えるくらいかな」

「本当に?」

 そんな彼女の、可愛らしいその両手の中に入れたことがとても嬉しい。

 久しぶりに『友達と過ごす』ということの楽しさが舞い戻って来て、私も屈託無く笑うことが出来た夏だった。久しぶりに見つけた心安らぐ存在となっていた旭に失望されないように、また良くない部分を見せないように、そんなことも気にしながら。


 だけど、私は、微塵も予期していなかった。

 こんな風に心から旭と笑える季節がいつか揺らぐ日など、一ミリたりとも。

 そんな日は、来るはずないと思っていた。

 大人になってもなんて大それたことは、願ったとしても言わないから、高校生活を終えるまで、卒業するまで、少なくとも。

 だけど思えばそれは、やっぱり私の願いだったのかもしれない。






 秋

「変化」


 夏が終わると、高校一年生の教室では校外学習の予定が立てられた。文化祭も同じく秋に行われるらしいが、先に親睦を深めるという事で、学年で同じ行先に出掛けるらしい。毎週のホームルームでは校外学習に特化した議題がよく持ち込まれるようになり、バスの座席決めや何やらと、その度に教室内は盛り上がる。

 残暑も和らぎ、窓際の席から見える葉の温かな赤色が眩しいその日のホームルームで、教師からプリントが配布された。

 前から回ってきた束の中から一枚取って、後ろに回す。小中学校で数えきれないほど行ってきた行為を今年もやりながら、私は印字された文字に目を走らせた。

 どうやら今年の校外学習の行先は植物園らしい。今まで植物に詳しい生活を送ってきたわけではないので行ったことも聞いたこともない名前のところだが、ふと、脳裏に陽の姿を思い出した。

 あの日公園で別れてから、私達が互いのクラスをまだ知らないことに気が付いた。

 メールアドレスだけを交換して帰っていたので、家に戻ってから早速メールで尋ねてみると、どうやら陽は私の二つ隣のクラスらしい。私は一年四組、つまり、陽は一年二組だ。

 そして、そんなことを思い出しながら考える。

 彼女と仲良くなった今なら、植物園もきっと楽しめるに違いない。彼女が好きな花なんかの話を、沢山聞かせてくれるかもしれない。そうしたら、きっともっと仲良くなれる。

 同じクラスに知り合いが居ないわけではないが、私が気になるのは彼女の方だった。


「校外学習には、二週間後の金曜日に行きます。もうあまり時間がないから、まだバスの座席表に名前がない人は早く決めて書いてしまってね」

「でも先生、そんな直ぐに決まんない」

「バスに乗ってる時間って言っても短いもんだよ。あまり悩むことないでしょう」

「いつものグループと離れた席になっちゃったらつまんないです」

「寝てりゃいいじゃんよ」

「男子にはわかんないよ」「ねー」

 色んな方向から飛んでくる自由な声。教室が賑やかなお喋りに満ちていて、なんだか気分が良い光景だった。高校生になってまで校外学習、と嘆いている生徒は見る限り見当たらず、普段大人ぶったふりをしている子も、皆が浮足立っているふうだった。

 良いクラスに恵まれたなあと、心の中でひとりごとを呟く。


 窓の外を見遣ると、ちょうど秋風をはらんで膨らんだカーテンがふわりと舞い上がった。

 綺麗に晴れた空から射す日差しが葉を透かし、私の机上に小さな木漏れ日を生む。

 爽やかな空を見れば何の心配事も浮かばなかったし、小さな楽しみは直ぐそこに見えている。

 乾いた秋の空気を吸い込んで、私は何枚か壁を隔てた向こうの陽のことを思った。

 ホームルームの時間はどのクラスも学年で固定されているので、今頃陽も校外学習の話を聞いているだろう。行先が植物園であることを知っているところだろう。

 なんだか無性に、お芋のスイーツが食べたい。

 呑気なことを考えているうちに、午後の時間ものんびりと過ぎていった。



 楽しみにしていることがあると、同じ毎日も早く過ぎていくように感じるのは、私だけだろうか。今まで、小中学校の遠足も、運動会も、授業参観も、心待ちにしていることは早くやって来て、あっという間に過ぎ去っていく。私が最も、時間の流れを不思議に思う瞬間だ。

 あの日、校外学習のお知らせを貰った日の放課後は、陽と待ち合わせをして、駅前のカフェに着いて来てもらった。ホームルーム中に思い浮んだお芋のスイーツがどうしても食べたくなって、付き合ってもらったのだ。

「一緒に来てくれてありがとう」

「ううん。もうすっかり秋だものね。カフェやケーキ屋さんの人は、一年中色んなお菓子を考えるの、大変だろうな」

 照れくさい気持ちでお礼を言う私に対し、謳う様に呟いて、向かいの席に座った陽はミックスジュースを飲んでいた。

 花が好きな彼女は、生クリームがたっぷり載っていたり、個性の強いフルーツに彩られたケーキであったり、また苦みの強いチョコのコーティングされたスイーツは苦手かもしれないと、このカフェに誘う時、何気なくそう思ったのだ。


 私自身、花の味は知らないけれど、それはとてもとても淡いもののように感じていた。

 だから、自由なジューススタンドが一緒に入っているカフェにした。

 私が食べているのは今秋から始まったお芋のスイーツとドリンクのセットだ。これを頼んだ方のメインカフェはケーキとドリンクの組み合わせが売りであるため、必ず両方が着いてくる。

 だけど、ミックスジュースのグラスだけを手にしている陽が注文をしたジューススタンドは、ジュースだけでも可であり、望むなら隣のワゴンに並べられている小さなお菓子なども一緒に買える。

 完全に私の印象だったものの、「何か食べる?」と問うと「これだけでいい」と返ってきたので、自分の直感の良さに我ながら驚いたのだった。


 私達と同じく制服姿の女の子たちがちらほらと点在する店の中、甘い匂いに包まれながら、二人で校外学習の話題に興じた。

「植物園に行くって知って、すぐに陽ちゃんのことを思い出しちゃった」

「私もびっくりしちゃった」

「向こうで咲いている花で、陽ちゃんが好きなものがあったら教えてね」

「うん。向こうに咲いているかは行ってみなきゃわからないけれど、特別好きなのが何種類かあるの。その代わり、旭の好きなお花も教えてね」


 そんな風に期待を膨らませていた校外学習の当日。私がわくわくしないはずがなかった。




 当日、四台に分かれたバスで、私達は市の大きな植物園に到着した。事前に配られていたパンフレットで、大きいであろうことは予想がついていたけれど、いざバスから出て降り立ってみると、そこは予想していた以上の広さがありそうだった。

 こうした団体客も多く来るのだろう、駐車場が既にとても大きく、そこから、本館へと続くのであろう舗装された華やかな道が、小さく見えていた。

 一組を先頭にして、引率する植物園の園長と各担任にしたがいながら、生徒の列は進み始める。歩みを進める度に移り変わる景色に、私の目はあちこち奪われっぱなしだ。

 敷地内には、屋外咲きの花が咲き乱れ、来館者を導く花道を作っていた。上品な色彩溢れる道の向こうには柔らかそうな芝生の丘、その上に建っているのは、本でしか見たことのない透明な温室。————あの中の植物は、目いっぱい光合成して気持ちが良いんだろうな、と、遠巻きに見ながら思う。

 なだらかなドーム型の屋根を持つ本館の屋根も、上部に向かうにつれて薄らと透けていた。

「植物の事、すごく考えてるんだね」

 一緒に屋根を見上げていた隣の女の子がぽつりと向けてくれた呟きに、私も頷く。

 全クラスが本館の入り口に揃ったところで、教師陣から園長に挨拶があり、私達は自由に敷地内を巡って良いことになった。

「一般のお客様も居るから、迷惑になるようなことはしないこと」

「何か困ったことがあったら、迷わず先生に知らせること」

 子供っぽい注意事項を聞き流し、私は陽の姿を探す。列に並んだ皆の中にさっと視線を巡らせて、先生の注意が終わって直ぐに、その姿を見つけた。向こうも私を探しているのか、彼女がきょろきょろと動くたび、リュックサックにぶら下がっているクマが頼りなく揺れている。


 ————「陽ちゃん!」

 では、解散、と掛け声があり、皆が思い思いの方向に散って行く中で、私は見慣れた姿へと駆け寄った。ベージュのリュックサックに、白いクマのぬいぐるみを模ったマスコット。事前にメールで聞いていた通りの格好をしている。

「見つけた、旭」

 陽も、私の姿を見て微笑んだ。白いリュックに、いつか家族で行った水族館で買ったペンギンのマスコット。

「陽ちゃんが動くから、クマちゃんがふらふらしてた」

「ペンギンがじっと私の方向いてた」

 二人で顔を見合わせて笑いながら、肩を並べて館内へと足を踏み入れた。

 友達が出来なかったらどうしようと憂いている春先の私に言いたい。

 心配しなくても平気だったみたい。




 昼食を摂れる場所への移動や食べる時間、集合時間や移動時間を含めたうえで、二時間と決められている自由時間。熱帯雨林や温帯、など、いつか目にした覚えのある気候の地域別に分かれて群生している植物を扱う館内で、同じクラスの人を色々な場所で見かけた。まだ碌に知らない、違うクラスの人達も沢山見た。誰もが自分の興味に導かれるまま、思い思いの場所で楽しんでいる。

 私と陽は、予め記されていた順路に沿って本館の中を巡った。順路は、道筋を辿っていれば必ず目に入る壁の上部に案内のプレートが張り付けられていたり、天井から透明なプラ板がぶら下がっていたりして、それを探すのもまた一興だった。

 館内の高い天井に向かって、葉だけの植物も花を咲かせる植物もぐんぐんと伸び育っていた。少し透けた天井から降り注ぐ日光を浴びて、園の人の手間を受けて、大切に育てられたのだろう。鼻腔に流れ込む青い匂いも新鮮で、心地好い。

「わぁ……!」

 葉の生い茂る通路を抜けると、熱帯雨林気候の地方に咲く花に出迎えられた。ヒガンバナ科のパネルの元に咲いている白い花、朱色の花、黄色い花。色彩が一息に視覚に飛び込んできて、思わず感嘆の声を上げる。野生動物にでもなった気分だ。

 そんな私の隣に立って、陽が指をさした。

「見て、あった、アナナス。私、これが好き」

「食べる?どこに咲いてるの?」

「これは食べないよ。見るものとして、好きなの」

 そっか、と相槌を打っていると、第一、と彼女は続け、

「熱帯雨林気候の植物だってパネルに書いてるじゃない」

 そう言って、晴れやかに声を出して笑った。

自分の発言のおかしさに気づくと、じわじわと恥ずかしい気持ちが滲み出してくる。

「……あっ、……そ、そうだけど……!」

「だめ、なんだかツボに入っちゃたみたい」

 長い間からからと笑われて間違いを恥ずかしく思う反面、日頃はどちらかといえば静かで、笑う時も滅多に声を立てたところを見ない彼女が大きく笑っているのを見て、私もつられた。

 降り注ぐ太陽の光に照らされて透ける髪も、どこか陰のあるように見えていた表情が華やいだところも、とても綺麗に見えた。

 この子には笑顔が似合う。

「も、もう熱帯雨林の話はおしまい、ねえ次に行こう」

 だけどあんまりにも笑うので照れくさくて、私はセーラーの腕を引き、また順路に沿って歩き出す。どこから風が吹き込んでいるのだろう。揺れて触れ合い、さわさわと微かな音を立てる植物の声を聴きながら、私達は縺れるようにして並んで歩いた。





 ————変化は、不意に訪れた。

 熱帯雨林気候のスペースも温帯気候のスペースも通り過ぎた後、大きなハスの浮かぶ池の前でのことだった。

「ハスって、蛙が乗ってるイメージが強いよね。道端でも蛙よく見るけど、本当に居そうなのって、……」

 池を跨ぐ形で舗装されている石造りの小さな橋。その欄干につかまりながら池を見下ろして言ったけれど、陽の返事がなかった。

「ねえ、陽ちゃん」

 違う方向の植物に集中しているのかと思って振り返ると、同じ目線の高さにその姿はなかった。怪訝に思って話しかけるのを止め、おもむろに視線を下げると、小さな体が橋の上で蹲っていた。

「陽ちゃん!」

 思わず大きな声が出て、驚かせてはいけないと慌てて言葉を引っ込める。覗き込んだ顔色は芳しくなく、だいじょうぶ、と紡ぐ声が動揺した。

 隣にしゃがみ込んだものの、リュックサックがあるので背中に手も添えられない。重みを退ける方が良いかもしれないという考えも相まって、私は陽のリュックサックをなんとか下ろした。

 遠巻きにこちらを見ている他の生徒の視線を感じる。誰かの気配を感じる。そんな中で、長い間リュックを載せていた背中は随分ほっそりと華奢に見えて、瞬間的に私は思った。

 ————私が守ってあげなくちゃ。陽ちゃんは、私が。


「どこか痛い?」と尋ねると、陽は微かに首を振る。

「大丈夫、少し苦しくなっただけ」

「中の空気で気持ち悪くなっちゃった?」

 問いかけることと背中に触れることしか出来ない私に、小さな声が返事を返す。

「……偶にあることなの。沢山の花が咲いているところに来ると、変な感じになる時があるの。食べたいのか、なんなのか、どうしてかとかはわからないけれど」

 じっと恐怖を抑えるような声にも、痛みを抑えるような声にもとれる声色だった。

「先生呼ぼうか」と言ってくれた知らないクラスの男の子が居た。

 それでも、結局頼まなかった。首を振ると、心配げな面持ちながら、男の子は快く頷いて騒がないでいてくれる。


 腕の中で、「大丈夫」と、陽が何度も繰り返していたからだ。そして、男の子に縋ろうとした私の手が、彼女によって引き留められたから。その手はひんやりと冷たかった。

「直ぐに治まるから。……本当なの」

 そこで私は思った。このことは彼女にしかわからないことだ。花を食べない他の人には、きっと理解され難いこと。だから、彼女はひとりで何とかしようとしているのだろう。

 彼女が知り得た状態の中に居る間は、当人以外が騒ぐことではない気がしたのだ。彼女の秘密を守るためにも。


 私達のやり取りを見、届く範囲の生徒は、助けを要らないという話をも聞いていたのか、やがて小さな人垣は、先生が来る前に散って行った。

 生徒に代わって水面(みなも)を揺蕩うハスに取り囲まれながら、私達は小さな橋の上で、私達だけの呼吸を繰り返していた。



 秋。暑くもなくまだ寒くもない、難しい季節の気温にぴったりと合った空調の流れる休憩室の中で、一番隅っこにあるベンチに、私達は腰を下ろした。

 陽は心許ないような表情で睫毛を伏せ、「ごめんね」と小さく呟いた。

「気にしないで。今が平気なら、私、それでだいじょうぶだから」

 陽が極力気に病まないで済むように、私は明るく返事を返す。

 あの後、橋の上でゆっくりと立ち上がった陽は、顔色こそ元に戻っていたものの、酷く叱られた子供みたいな表情をしていた。何かを心配し、怯えているみたいな、そんな色が漂っていた。

 備え付けられている自動販売機でペットボトル入りの林檎ジュースを買い、陽に手渡す。それを受け取って暫くしてから、彼女の落ち着いた声が言葉を紡ぎ始めた。


「旭に、格好悪いところ見せちゃった」

「格好悪いところ?」


「……手を煩わせちゃってごめんね」

 私が首を横に振ると、陽はぽつりとあぶくが浮かぶように小さな声で続けた。

「お花見に行った時。お盆に家族でヒマワリ畑に行った時。……花を食べるようになってから、こういうことが今までも何度かあったの。幸い全部屋外でのことだったから、家族からは『お日様に当たりすぎちゃったかな』って言われるだけで済んできたんだけど」


 休憩所に飾られているテラリウムが、窓の外の光を受けて七色のプリズムを生んでいた。

 それを遠くに見ながら、私は頷く。

「今回は屋内だったのに、駄目だった。今までのこともあったから、花を食べることを こんなに沢山の植物たちに責められているみたいで、本当は少し怖かったの」

 生憎私は、慰められそうな良い言葉を引っ張り出してこられるほどの、語彙力の抽斗は持ち合わせていなかった。だから、少し頭が悪く聞こえたかもしれないけれど、陽の心が軽くなるように相槌を打った。

「今日も、外みたいなものだよ。上は完全な天井じゃなかったもん」

「旭が居てくれて助かった」

「……それにね。なんだか、秘密を守ることで頭がいっぱいだったの」


 飲み物を持っていなかった私は、両手で以て、陽の片手を握った。冷えたペットボトルを両手で包み込んでいたその指先は、冬の如く冷たい。

「勝手に二人の秘密にしちゃってたんだけど、陽ちゃんの秘密は、絶対に私以外に知られないように、説明しなきゃいけないことにならないようにって思ったから」


 上手く言えなかったけれど、その時、これが正解だったのだと、私は理解が出来た。

 紡ぎ終えた言葉を聞くと同時に顔を上げた陽の眼は、怯えた色こそ僅かに滲んでいたものの、再び、普段と同じ柔らかな笑みを湛えていた。

「もう今日は、植物を見に行くのは止めておこうか」

 容態を窺うように尋ねると、陽は素直に頷いた。

「集合時間まで、ここでお喋りしよう。————陽ちゃんのこと、もっと聞かせて」


 休憩所の前の木から、ちらちらと光が射している。

 休憩所の中でも誰にも気づかれないような隅にあるベンチで、陽は私に身を預けていた。私も、同じようにした。


 隅っこに居るのに、私達は内緒話をした。

 手を繋いだまま、仄かな林檎の匂いを感じながら、小さな声で。

 自分のこと、相手のこと、他にも話題は尽きなかった。こんなにも自分に喋ることがあるのかと思う程に、貴重な言葉達。

 秘密に秘密を重ねて、二人しか知らないことが周りに溢れたら、その時、今見慣れている私達の身の回りは、いったいどんなふうに映るだろう。


 いつしか落ち着きを取り戻していた陽の瞳は晴れている。

 うららかな秋の陽の作る陽だまりの中で、きっとこの瞬間が、私達にとって、私にとって、一番穏やかで良い時間だったのではないかと、今思う。

  





 冬

「記憶」


 ぱち、と、しゃぼん玉の膜が破れるように、不意に意識が覚醒した。体の節々が痛い。

 頬に触れているのは柔らかな布団だった。身体を起こすと、電気をつけていない部屋の中は、既に昇っていたらしい朝陽で明るくなっていた。どうやら、昨夜倒れ込んでそのまま眠ってしまったらしい。

 ベッドサイドに置かれている、十二の花で飾られた花時計は、正確に時を刻んでいる。その針が示す時刻を見て、私の頭は一気に冴えた。

 朝の九時。もうすぐ仕事の時間だ。何度も着て出ている服の布地からは、染み込んだ水と緑の匂いが立ち昇る。

 私は、ふうっと細く息を吐いて、ゆっくりと瞬きをした。

 この時間じゃ朝御飯は食べられない気がするけれど、仕方がないか。


 ————なんだか、昔の夢を見ていた気がする。

 夢の中で、懐かしい記憶を見ていた気がする。


 そうだ。彼女だ。

 記憶の中の彼女の姿は、あれから何年経った私が見た夢の中でも、少しだって色褪せてはいなかった。

 ————宮森陽。

 子供の頃の私にとって、一番大好きで一番大切な女の子だった。

 出会って一年も経たない冬の日の夜、「お父さんの仕事の都合でアメリカに行くことになったの」とうちまで告げに来て、離れ離れになってから大人になるまで、否、なってからも、忘れたことはなかった。


 どんな花も、よく似合う女の子だった。

 春夏秋冬、それぞれの季節に咲く花が、彼女と愛し愛されていたと思う。

 四つの季節のうちひとつたりとも、似合わぬ花がある季節はなかった。

 彼女に向けて私が紡いだ言葉も、お別れの時に握った指の冷たさも、昨日のことのように思い出すことが出来る。



 不意ながら、子供の私達ではどうにも出来ない壁に阻まれ、冬に別れてから、幾年も月日は流れた。

 流石にそのまま仕事に出るわけにはいかないので、シャワーを浴び、洗面と化粧を済ませて、階下へと降りる。

 店の支度をしてオープンの看板を出す頃には、時刻は開店時刻丁度になるところだった。



 開け放してある店のドアからは、冷たく冷えた風が滑り込んでくる。水仕事が避けられない仕事柄、悲しいことに、私の手指は随分と痛々しい見た目になっている。それでも、私は冬が好きだったし、自分の選んだ仕事にも誇りを持っていた。

 冬の風と共に、店先に並んだ植木鉢に埋まる花の花弁が鮮やかに匂い立つ。店内の奥に居る私よりも数倍の風を浴びているであろう通行人は、マフラーに鼻先をうずめたりコートの前をかき合わせたりして、寒そうに店の前を通り過ぎてゆく。

 店の開店時間こそ決めてはいるものの、この寒い季節に水の世話をしなくてはいけない花など買っていく人は居ないかもしれないな、と、毎冬恒例の心配をしながら、客足がない間、私はテーブルの上で出来る仕事に勤しんだ。

 ラッピング用のセロファン紙を揃えたり、リボンロールを整えたり、ブーケのお取り置きを頼まれている顧客様の名簿を確認したり、だいぶ軌道に乗ってきた仕事だとはいえ、まだまだ不慣れなことも多い。

 だけど、手間をかけた品物たちが店内に並び、吹き込む風で一斉に一方向にそよいでいるさまは、非常に愛らしいものだった。


 ————と、不意に店内に、甘い香りが紛れ込んだ。

 本物の花から香る匂いとは違うけれども、清廉で爽やかなものだった。


「すみません」

 それを感じていると響いて来た落ち着いた女性の声に、私は大きな声で返事を返し、手にしていた名簿を棚に押し込んだ。どれだけ自分の作業が途中でキリが悪くとも、決してお客様を待たせることをしてはいけない。

「お待たせしました」

 明るい笑顔を浮かべて、私はお客様の前に姿を現す。そして、そっと彼女の全体に視線を走らせた。どんな人がどんな買い物をするかを覚えておくのも、貴重な経験になるからだ。

 今日のお客様は、見たところ私と同じくらいだろうけれど、幾らか年上にも見える。


「冬の寒さにも負けないで、長く咲いていられる花はどれですか」

 お客様は、寒い季節だというのにビジネススーツに薄いコート一枚で、柔らかそうな髪をきりりと結い上げていた。彼女には豪華な薔薇が似合いそうだと私は思ったが、

「パンジーやビオラ、クリスマスローズ。それからプリムラなどは、寒さにも強く、冬から春先にかけて長く咲きますよ」

 並んでいる花々を一つずつ手のひらで示すと、お客様はビオラの植えられた小さな鉢の前で視線を止め、そっとその花に顔を近づけた。

「まあ、可愛らしいですね」

「そうですよね。私もお気に入りの花なんです」

「本当に」

 そして、冗談めかしたように言う。


「それから少し、美味しそうにも見えるわ」



 ————瞬間、時が止まったような気がした。


 花屋を開いてからまだそれほど多くの客を迎えたわけではないけれど、花に対して「綺麗」や「可愛い」だけで済まずに「美味しそう」という人など、私の記憶の中には一人もいなかった。


 少なくとも、一人を除いては。


 震える声で、私は言葉を紡ぎ返す。

「————お客様のような方が召し上がったら、きっと、きっとお綺麗なんでしょうね」


 それを聞いた眼前のお客様にも、意図は伝わったらしい。

 切れ長の瞳が、数秒かけてみるみる見開かれ、その次の拍子には、冷たい冬の風には到底似合わぬほどに華やかな笑顔が咲いた。

記憶の舞い戻る音がする。

 冬に別れ、冬に巡り来る。


「お客様」

 そう呼びかけたけれど、彼女にはもう私がわかっているようだった。

 私が、彼女に気づいたように。

 別々の冬を幾回も超えた指先が、冷えた私の、素手の指先を包み込んだ。


「もしよろしければ、見せていただけませんか」

「あなたになら、教えてあげる。お仕事が終わったら、戻ってくるわ」



 ——————だから、その時に。

 そう言い残し、ビオラの鉢をひとつ取り置いて店を後にした彼女の残した香りは、

 どんな花よりも甘くて淡く、酷く懐かしいものだった。








 了

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味蕾(みらい) ヒラノ @inu11

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