旅は道連れ世は情け

トポ

短編


 祈りを捧げた後も長い間、使い古した敷物に突っ伏していた。鼻と頬を薄い敷物にこすりつける。自分が臭う。それは許されないことだ。自分はけがれている。値しない。しかし身体を起こす勇気がない。このままひれ伏していたい。安らぐ近さを感じていたい。

 ――偉大なる主君よ、目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語る主君よ! どうか……どうか……この愚かな僕を許して……許してください……。

 一筋の涙が頬を濡らす。歯を食いしばり、身をより縮める。敷物に広げた手の甲で額の汗を拭う。臭う。自分が臭う。体臭が酷い。

 ――僕に……僕にやり遂げなければならないことをやり遂げる力を……偉大なる主君……僕に力を……。

 嗚咽がコンクリートの壁に響く。地下室にアンモニアと硝酸の臭いが充満している。鼻が曲がるほど強烈に。窒息しそうだ。こんな場所で祈るなどとは重罪だ。知っている。そんなことぐらいよく知っている。

 ――他に……他に場所がなかったのです。偉大なる主君……許してください……。そして、死ぬことを……天国に舞い上がることを……途中で恐れない力を……。

 しかし主君は答えない。今までずっと沈黙していた。奥歯をすり合わせる。いや、今日は答えてくださるはずだった――。僕が清潔ではないから、この部屋が汚れているから現れてくだされない。敷物の上で広げていた手のひらが拳になる。この日のために他の部屋を用意しなかった自分を呪う。

 頭を上げる。ひび割れた全身鏡に顔が映る。目は血走り、唇は苦しみに歪んでいる。

「聖なるいくさのために――」口に出して言う。鏡の向こうにいる自分に言い聞かせる。「僕は今夜立派に死ぬんだ」

 立ち上がる。喉がからからに干上がっている。部屋の隅に詰めてあったリュックを背負う。



 僕は頭の中で聞こえるリズムに合わせて膝を人差し指でたたきながら、バス停のベンチに腰掛けていた。今は、草木も眠る丑三つ時の五時間前――つまり、午後の九時だ。このバス停は遠距離専用。僕以外にも九時半発のバスを待つ客が十数人ほど近くで立ったり座ったりしている。みんな深夜の旅は億劫そうだ。無理もないけど、だからこそ僕は気分良く人差し指を使って好きなドラマーの真似をする。 笑う門には福来たる。それが僕のモットー、いや、哲学だ。

 さて、夜行バスの旅に大切なのは、音楽と小説。どうせ途中のバス停でちょっとはしゃぎすぎるボーイズ・アンド・ガールズたちが乗ってくるのだろうから、寝ても寝なくても音楽は必要だ。今は頭の中でパンク・ロックのバッド・レリジョンを再生しているけど、寝る前にはスマホにセーブしてある穏やかなクラシックのミックスにする。もちろん、他にやることがあれば、そっちを優先する。なにしろ出会いは大歓迎。いくらあっても損はしない。

 でも睡魔が僕を誘惑してくれるまでは読書で時間を潰す。ちゃんと旅行に合う本を持ってきた。空いている方の片手で広げているのはヘルマン・ヘッセの『知と愛』。ナチスとゴルトムントがまさに今、愛のことを語っている。こういうの僕好きなんだ。BLは密かに萌えている。ヘッセの昨品をBLと称するのは――そもそもBLが好きだなんても――誰にも言えないけどね。

 ところで出会い大歓迎と言えば、向かい側の可愛い二人の女の子、チラチラって僕のことを見ている。多分双子だ。いや、きっと双子だ。服もアクセサリーもお揃いだし、髪の毛だってわざとらしく同じ長さにしている。

 僕は視線だけで誘う。双子は、おいでよ、と言いたげににっこりする。笑うと双子の頬にエクボができる。たまらなく可愛い。

 ちょっとナチスとゴルトムントはおあずけ。彼らは待ってくれる。リュックに『知と愛』を滑り込ませて、僕は向かい側のベンチに座っている双子の方へ行く。二人はスタイルの良さを見せつけるように長い足を組んでいる。

「やあ」僕は歯を見せて笑顔を作る。近くから眺めると、双子は絵に描いたような美人だ。ナチュラルな化粧も上手すぎる。「君たちモデルやってるでしょう?」とからかうような口調で言う。遊び心がなければ女の子は落とせない。

 二人は素直に赤面してしまう。

「そ、そうだけど」と右側の片割れが照れて、「あ、あんただってそうでしょう?」と左側が嬉しい言葉で反撃する。

 僕はニヤリとする。「えっ? そう思う? じゃあさ、写真家を紹介してくれないかな? モデル・デビューはまだだから」

 言うまでもなく、このセリフは電話番号を聞き出すための布石。でも読まれている。

「ふーん、そう簡単には言わないよ、番号」

「うん、うん。もうちょっと楽しませてくれないとね」

 双子は自分たちが凄まじくモテることを自覚している。ちょっと上から目線。ここで二人をお姫さま扱いしたら僕の負けが確定してしまう。だから――

 僕は首を捻って面白いことを考えるような振りをして、バス停で待っている他の客を素っ気なく盗み見る。そして一人で立ちながらスマホをいじっているなかなか綺麗な女の子を見つけると、今度は双子に向かって話し出す。

「実は僕ね、大事な任務があって今夜バスに乗るんだ」僕は用心深くあたりを見渡す。大げさに、演技をしているみたいに。「とても危ない仕事なんだけど――」

 さっき見つけておいた彼女の方を向いて、僕は、あっ、と驚いたように目をしばたく。双子は僕の視線を追っているけどまだ僕の意図には気づかない。なになに、演技臭いーって苦笑している。

「あの子凄く独特――」そう言って、僕はふらりと歩き出す。

 えっ、と双子は少し慌てる。二人は冷たい肩を返されることに慣れていない。

「ち、ちょっと、あんたねぇ」

「ど、どんな任務なの?」

 ――引っかかった。

 僕は振り返って目を細める。「あれ? そんなに知りたいの?」

 こくりと双子は合わせて頷く。若干悔しそうにしているけど、さっきとは裏腹な上目遣い。愛のポーカーで決定的なのは持ち札なんかじゃない。決定的なのはブラフという芸当。

「ねえ、だから任務って……お、教えて」右側が言う。

 僕は面倒くさそうに頭をかく。「任務? ああ、今夜バスが走るルートの中間あたりに大きな橋があるんだけどね。その橋のことは……?」

「知ってる」左側が言う。「この国で一番横幅がある川にかかっている橋だよね?」

「うん。その橋である人と会うんだ。それが任務」

「えー、だれだれ?」

「もしかして女の人?」

 僕は肩を竦めてみせる。「男だと思うけど……今夜初めて会うからわからない。もしかしたら中性的な御方かもしれない」

「へぇ、不思議な任務だね」

「でもその任務のどこが危険なの?」

 双子の問いに真剣な顔で、「僕のリスクは君たち二人だよ」って答える。

「えっ?」

「どうして?」

 左右対称に首をかしげる双子。伸ばした髭に指を通しながら僕は言う。「だっておかしいだろう? どうしてアトラクティブでセクシーなモデルたち二人がこんな安い夜行バスに乗るんだい? ね? おかしいよね。僕は君たちが敵の差し金じゃないかって疑っている」

 双子は僕のノリに押されて、わざとらしくギクリとする。でもすぐに双子は顔を見合わせて、くすくすと笑い出す。

「被害妄想。ナルシスト。中二病」

「売れないモデルはバスにも乗るっつーの」

 僕はお手上げと言わんばかりに両手を上げる。「まあでも少しは笑ってくれたね。じゃあこれからは大人同士のちゃんとした会話をしようか」

 すると双子は一瞬キョトンとするけど、今度は腹を押さえて笑い出す。

「ああ、やられた。三流スパイだと思い込んでいる演技、あんた上手すぎ」

「そう、そう。ちょっとの間、ホントに頭おかしいんじゃないかって思ってた」

 双子は下唇を噛んで僕のことを見つめる。エクボが目立つ、瓜二つの可愛い表情。

「君たちも演技上手いよ」僕は舌をベロッと突き出す。

「えー、なになにー?」

「演技なんてしてないよ」

 僕は一拍置いて、双子と目を合わせてから、「売れないモデルの演技」とウインクする。「二人が表紙に載っている週刊誌を昨日駅で見たよ」

「ひえっ」双子は同時に息を呑む。

「あちゃー、バレちゃったかー。まあ、売れてないわけではない」

「でも、あれって結構マイナーな週刊誌なんだよね」

 僕は人差し指を口に当てて、「大丈夫。秘密にしておくよ」と二人に言う。だったらあなたの任務のことも口外しないよ、と双子も答えてくれる。『あんた』が『あなた』に変わったところに感激してしまう。

 それから僕たちはバスが到着するまでスモール・トークで過ごした。どうして旅をしているのだとか、仕事のことだとか。日常的なことを。それ全てに僕は予め用意しておいた嘘で答えた。双子に言ったことで真実だったのは任務のことだけぐらい。

 そしてバスがちょうど九時半に停留所に走り込むと、立ったり座ってたりして待っていた客は一斉に拍手をした。誰かがブラボーと叫びそうなほど喝采した拍手だった。双子たちも思いっきり手を叩いていた。この国に来てから間もない僕は少し面食らった。このような習慣があるとは知らなかったから。でも他の客たちに合わせてパチパチと手を合わせる。口笛も吹いてみる。双子たちはきゃっきゃっと、無邪気に笑う。

 バスの運転手さんに携帯にセーブした電子チケットをスキャンしてもらって、バスに乗り込もうとすると、ふと両後ろから双子の顔が近づいてきて、二人は左右から僕の耳に囁く。

「ねえ、明日あっちについたらさ――」

「三人でデートしてみない?」

 打ち合わせたようにシンクロしたセリフに僕はほんの少しだけ狼狽える。振り返ると、自分たちが今なにを提案したのかよくわかっている、いたずら好きそうな双子の挑戦的な表情が飛び込んでくる。

「いいよ」と僕も負けずに答える。

 運転手さんに促されてバスに乗り込む。

 そう、夜行バスの旅に大切なのは、音楽と小説。出会いはその上に乗ったチェリー。それもとても甘くて艶やかな。しかも今回のはヘタで絡まり合っちゃっている二つの粒。

 でも、夜行バスの旅に欠かせないのは――

 一瞬、好青年の仮面が僕の顔から剥がれ落ち、僕の表情は苦痛と怒りに歪む。偉大なる主君を冒涜するパンクとその喧騒音楽。ホモセクシャルの薄汚い妄想を描くヘッセ。近親相姦と乱交の重罪を平気で犯すあの淫猥な娼婦たち。僕はその全てを激しく憎む。だからこれは聖戦なのだ。道から外れた邪悪な輩を社会から掃滅して、この世を主君のために清める。偉大なる主君のため――そして、散々輪姦された祖国のために。

 顔を一度撫でて、好青年の仮面を再び憎悪に満ちた顔に満遍なく貼りつける。口元に宿していた見えのいい微笑が戻ってくる。

 ああ、そう。夜行バスの旅に欠かせないのは、リュックに詰めた爆弾さ。



 夜行バスに指定席はない。誰がどう座ってもいい、早いもの勝ちと言ってしまうのはもったいない、自由な席割り。僕はある理由があって、バスの中央に位置した、通路側の席に座る。隣は空いている。このまま終点まで空いているかもしれない。

 座席に身を沈み込ませると、双子がバスに入ってくる。僕と目が合うと、二人はえへへへ、と笑って僕の後ろの席に座る。

「ねぇ、ねぇ」ほっそりとした腕が座席と座席の間にある隙間を通して伸びてきて、僕の肩を撫で回す。「テキーラがあるんだけど、一緒に飲まない?」

 僕は笑顔が引きつるのを感じる。アルコールは飲んだことがない。だけど――

「えーっ、あるの? じゃあ普通に飲むよ」と答える。

 バスにエンジンがかかり、車内は細かに揺れだす。

「おっと! 危ない、危ない」

「こぼさないでね、お姉ちゃん」

 僕にテキーラのボトルが座席を越して渡される。「いい匂い。テキーラって好きなんだ」と僕は言う。

 双子の一人が「テキーラの匂いがいいって初めて聞く」と笑う。

 一口飲むと、喉が燃えるように痛む。ちょっと大人になったような気がする。悪くない苦味だ。

 身震いしてボトルを口から離すと、斜向かいの、向かい合わせた四つの座席に座っている家族が目に入る。僕の方に面して、つまり進行方向とは反対に座っているのは父親と娘の方。その向かい側に母親と息子がいる。こちらからでは二人の髪の一部しか見えないけど。

 父親にバスの中でアルコールを飲むことを咎められると身構える。だけど父親と視線がぶつかると、彼は楽しそうにうんうん、と頷く。自分も家族と一緒でなければ飲みたいというふうに。僕は変な顔をして、こっちをじーっと見ている娘を笑わせる。

 左右のほっぺたを後ろから双子につつかれる。

「一杯だけじゃダメだよ」

「三杯は飲まないとね」

 というわけで、僕はグイッ、グイッとボトルを二回口に当てる。胸が暖かくなり、ちょっとバスの振動が強くなったような気がする。よろしい、と双子はテキーラのボトルを腰を浮かして僕から奪い取る。

「塩とレモンがあったらもっといいんだけどね」と僕は言う。

「あるんだけど、ここじゃあ面倒くさいでしょう?」

「明日あっちについたらちゃんとしたショットを飲もうよ」

 運転手の短いアナウンスが入る。バスは高速に上がり、揺れは安定する。

 僕と双子たちは少し話したけど、二人でボトルの半分ほどを水のように飲んだ彼女たちは顔を赤らめて寝付いてしまった。まるで恋人のように一人はもう一人の肩に頭を置いたポーズで。前を見ると、家族連れの父親がドンマイと言いたげにニヤニヤとしている。僕は仕方がない、と両手を肩の高さで広げる。

 しかし薄暗いバスはそう簡単に寝付けてしまえるほど静かではない。後部席の方では若い男女のグループがとても賑やかだし、斜向かいの家族はそれに対抗するような音量で会話をしている。音楽さえかかっていれば、ここは深夜のパブのようだ。夜行バスとは移動している間に寝れるから乗るものなのではないだろうか? しかし、運転手は乗客を注意しようとはしない。よくこの騒音の中で二人は眠れるな、と僕は座席と座席の間から可愛くスヤスヤしている双子を見て、吐息をつく。そして、イヤフォンを耳に入れ、クラッシックではなく、パワー・メタルを選ぶ。柔らかいオーケストラなんてこの騒音の中ではかき消されてしまうだろうから。

 できるだけ座る姿勢を整えて、目を閉じる。

 ――偉大なる主君、決行はもう直です。バスに乗り込んだ以上、後戻りはできません。どうか、どうか僕を天国へ導いてください。

 リュックにつめた時限爆弾を僕は遠隔操作で定められた時間より早く起爆させることができる。だが、その逆は不可能。時間が来たら爆弾は必ず爆発する。爆薬を守るケースにもトリガーがついているから、爆弾を処理するために蓋を開けようとした時点でも爆発する。つまり、映画のようにケーブルを切ればいい、という幼稚なレベルじゃない。だからもう後戻りはできない。

 ――飲んではいけないアルコールを飲んでしまいました。許してください。

 バスのルートの中間あたりにある橋の上で、爆弾を手動で起爆させるのが目的だった。橋を破壊し、バスの残骸を川に落とせば、ほぼ確実に誰も生き残らない。また、その橋は物流産業にとっても大切であり、橋を破壊することに成功すれば、この国の経済にも一時的なダメージを与えることができるだろう。もし僕が動けない状態にあったら、橋を乗り越えた少し後に爆発するようにタイマーをセットしている。そうしたら橋は壊せないが、少なくともバスの乗客を大勢殺せる。

 僕が立てたプランは完璧だった。だからなにがなんでもあの橋まで好青年の役を演じ続けなければならない。誰もこの僕がテロリストだと疑わないように。

 ――偉大なる主君……。

 ぽん、と肩を叩かれた。驚いて目を開くと、にこにこした初老の男が僕の隣に立っていた。バスは停車している。まさか警察、と僕は目を見張り、起動装置を兼ねるプリペイド式の携帯に手を伸ばす。男は両耳に手をやり、僕にイヤフォンを取ることを合図する。僕は片手だけでイヤフォンを外す。

「旅は道づれ世は情け」男は人懐っこい笑顔で言う。定年を迎えたような歳なのに、子供っぽい笑みだ。

「えっ?」

「ああ、すみません。こんばんは。お隣の席、空いてましたら座ってもよろしいでしょうか?」

 男は右手を差し出し、僕は反射的に彼の手を握り、握手をする。警察ではなさそうだ。祈っていたから気づかなかったが、僕たちは途中のバス停に到着していたらしい。初老の男はそこで乗り込んできたのだろう。

「えっ、ええ。もちろん」僕は立ち上がって彼を窓際の席へ通す。

 バスはまた走り出し、僕はまた瞼を閉じて、偉大なる主君へ祈りを捧げる。しかし、バスの安定した揺れのためか、免疫がないアルコールを飲んだせいか、僕は気づかぬ内に、夢のない浅い眠りに落ちてしまう。



 肩を揺さぶられて目を覚ます。初老の男が心配そうに僕の様子を伺っている。

 ――ば、爆弾!

 僕はぱっと腰を浮かすが、前の座席の下に置いたリュックが触られた形跡はない。バスはいまだに高速を走り、車内はうるさく賑やかだ。腕に巻いた時計を調べる。午前一時半。時限爆弾は二時にセットしてあるから、まだ多分ターゲットである橋は越えていない――と、思う。

「日本茶を魔法瓶で持ってきたのですけど、いかがでしょうか?」男は新品の魔法瓶を掲げて尋ねる。「昔はお茶なんて飲まなかったんですけど、定年を迎えてから緑茶にハマってしまいましてね」

「えっ、ええ」と僕は頷き、窓の外を確認する。外は暗く、バスがどこを走っているのかよくわからない。しかし例え予定より早くバスが橋を越えていても、もうどうしようにもならない。僕は座り込む。そのついでに後部席にも目をやる。双子は頬をすり合わせるようにして眠っている。

 男に紙のカップに入った緑茶を渡されて、僕は一口飲む。

「サラミもあるんですが、そちらの方はいかがでしょうか?」

 サラミ。聞いただけでも吐き気がして、好青年の表情が崩れそうになる。

「い、いえ、あまりお腹が空いていないので」

「ははあ。やはりサラミはバスの旅行には向いてませんよね」

 男は残念そうに空になった紙コップを受け取り、膝に置いたバックに仕舞う。

「ところでですね、私はこの歳で小説を書き始めてしまいまして」男は恥ずかしそうに切り出す。「今あるアイディアが思い浮かんだのですが、ちょっと聞いてもらえますかね。若い人の意見を参考にしたいので」

 僕は可能な限りの笑顔を見せて首を縦に振る。「どうぞ」

「ではお言葉に甘えて」初老の男はまたにこにこと微笑を浮かべる。「ある私と同い年ぐらいの男性は四十年以上働き、やっと定年を迎えます。これから仕事をせずに妻と一緒に老後を楽しめる、と男は浮かれながら家に帰ってきます」男はああ、と手を上げて、「と言ってもこれは私自身の話ではないですからね。私は生涯独身でしたから」とつけ加える。

「ええ」と僕は相槌を打つ。同時に窓から見える景色を確認し続ける。

「とにかく男は家に帰ってきます。しかしそこに妻の姿はありません。あったのは彼女からの置き手紙だけです。置き手紙には残った人生を楽しみたい――みたいなことが書かれているのですが、具体的なことは書かれていません。ですから主人公の男はなぜ妻が出ていったのかちょっと調べます」

 高速の表札が見えた。次の街までの距離が表示されていたが、この角度からではよく読めなかった。もし、あの街までの距離数が三桁だとすると、まだ橋は越えていない。僕は手のひらに爪を食い込ませる。あともう少しだけこの好青年のマスクを被っていなければ。男の方を向いたまま、僕は祈る。

 ――偉大なる主君……。

「人はみな仮面をつけて生きているものなのですね」

 初老の男が突然言い、僕は我に返る。

「え、えっ? い、今なんて言いました?」

 男は大きなため息を吐き出す。「妻は三十歳以上も年下の、若くて、まだ体力もあり、皺もないヤツに寝取られていたんですね。それを彼女は数年の間ずっと隠していた」

「ああ」と僕は内心胸を撫で下ろし、「それは――」と言葉に詰まる振りをする。

「ああ、いえ」男はにっこりする。「ですから私が考えた物語の中の話ですから。それでですね、主人公の男は生きる気力を失います。妻のためにずっと働いてきて、やっと静かに過ごせるかと思うと、彼女がこの数年不倫していたことがわかり、しかも相手は主人公の肉体ではどうしても敵わない三十代の男」

「それからどうなるんですか?」僕はストーリーのオチを知りたそうな顔で尋ねる。

「絶望した主人公は自殺することを考えます。もう生きる理由なんてありませんからね。しかし、自殺すればやはり妻は悲しみ、罪悪感を覚えることでしょう。それは避けたい。例え不倫した妻であっても、彼女のことを愛していますし、残された時間を楽しく過ごしたいという妻の考えもわからないわけではありません。主人公だって、もし自分に若い娘と浮気するチャンスがあったとしたら、そうしなかったと言い切れる自信はありませんからね」

 僕は眉間に皺を寄せる。「つまり主人公は自殺したいけれど、自殺はできない」

「ええ」と初老の男は頷く。人が良さそうなスマイルで。「ですから主人公は自殺相談所に電話をかけます。どうすれば妻がさほど悲しまないようにこの世から去ることができるか、と。そして――」

 そしてバスは唐突に止まる。バス停ではなく、高速のど真ん中で。驚いて前を向く。フロント・ガラスからターゲットである橋が見える。しかしバスは橋の上ではなく、その前で停車している。

 運転手は素早く立ち上がる。圧縮空気の音がして、バスのドアが開く。運転手が降りると、ドアはまた閉まる。

「ど、どうしたのでしょうか?」僕はバスから逃げるように離れる運転手を見つめながら隣に座る男に尋ねる。

「ここが終点ですからね」と男は言う。

「えっ?」

 横を向くと、男の顔から好感的な笑みは消え失せている。感情のない無表情が僕を見返している。

「さあ、さっさと起爆させてください」初老の男は叫ぶ。

 急にずっとお祭り騒ぎだったバスの中は静まり返る。自分の乱れた呼吸が耳に響くほどに。乗客の全員の視線を感じる。

 ――な、なにがどうなっているんだ?

 時計を見る。一時五十八分。爆発まで後二分。

「いくら待っても橋を爆破することはできませんよ。バスはこれ以上は進みませんから」

「な、なんの話だっ!」

「まだお気づきではない?」初老の男の無表情は、顔半分がぱっかりと裂けたような不気味な笑みに変わる。「このバスの乗客はみな自殺志願者です。ある意味あなたを含めて」

 喉が締め付けられたように痛む。「な、な、なに言っているんだ……」

「あなたの祖国はこうやって、この国でテロを行うことで、国家のメンツを保つことができる。この国は自殺志願者だけをテロの犠牲者にすることで、無実の国民を守ることができる。そして、私たちは自殺ではなく、テロの犠牲者として死ぬことができる」男はにっこりする。「まさに誰もが勝つシステムではないでしょうか。世は情けというのはこういうことですね。まあ強いて言うなら、あなたは無意味に死にますが」

「う、嘘だっ!」静寂なバスの中、僕は思わず怒鳴っていた。

「こいつさぁ、あんな下手な口説き方がこの国で通用するって思ってたんだよね」

「馬鹿だよねー。だからクソ童貞の外人カスは大嫌いなんだ。キモいし、鳥肌立っちゃう」

 寝ていたはずの双子が背後で言い、どっと笑いが溢れる。乗客全員が大声で笑っている。斜向かいの家族でさえ僕を指差し笑っている。

「嘘だ……」と僕は繰り返し、へなへなと座席に身体を投げ出す。「どうせ死にたいのなら――」僕は初老の男に向かって訊く。「どうしてわざわざこうやって僕を苦しめる必要が――」

「えっ? 疑問に思うのそこですかね?」男は人をいたぶるのが楽しくて楽しくて仕方がないというように口角を釣り上げる。「おまえが嫌いだからだよ。この国にこのようなテロ対策システムがなかったら、おまえのテロの犠牲になったのは私の妻かもしれない。どうしてこの国にわざわざやってきて人を殺そうとするんだい? ん? まあ、いい。君はここで無意味に死ぬ。どうせ死にたかった私たちを殺してね」

「い、い、嫌だっ!」僕は絶叫する。「死にたくないっ!」

 立ち上がろうとした。しかし後部座席から双子の四本の腕が伸びてきて僕を座席に押さえつけた。

「旅は道連れ」と右側の片割れが笑い、「世は情け」と左側が笑った。

 喉が破裂するような叫び声を僕は上げた。刹那せつな、足元に置いたリュックから閃光せんこうあふれ出すような気がした。



 ある夜、ある国のある場所で、一台の夜行バスが自爆テロによって爆破された。乗客三十一名全員および犯人と思われる17歳の青年、合計三十二名死亡。運転手は奇跡的に助かった。犠牲者を弔う花束が高速道路の脇に寄せられている。





















 特定の宗教を批判する意図はございません。

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旅は道連れ世は情け トポ @FakeTopology

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