寂しい憂鬱な日の過ごし方とふわふわトマトの煮込み(後編)
大好きだったのは本当だ。
けれど今自分の気持ちが、よく分からない。
それも本当だ。
サキュバス族のランシーと出会ったのは半年前だった。
ちょうどリペアーとしての修行を始めて、それなりに経っていて、誇り高い師匠や意識の高い周囲に疲れを覚えていた。彼女は近所に住んでいて、家の近くの公園でベンチに座って本を読んでいた。
のんびりすることが好きなイルペッタは、飲み物を作ってよく公園に行っていた。
最初に声をかけたのはどちらだっけ……イルペッタは毛布を抱き寄せながら思う。
あの日々が昨日のことのように感じながら、今は随分遠い。
マ モワティエ という言葉を教えてくれたのは彼女だった。
あなたは私の半分よ……そんな甘い囁きで、心が惚けた。
彼女の言葉は今、本当だったのかという疑念を持とうとすると、彼女を己の半分だと言い切れるまでに恋した我が身が哀しくなってしまう。
……彼女との日々はあっけなく終わった。
彼女には夫がいて、長い単身赴任が終わり帰ってくるのだという。
だから、だから……自分はゆきずりにすぎなかった。
そんなことは……彼女から聞いてない。
全部、彼女からいきなり連絡が途絶えた後で、自分の知り合いが調べて教えてくれたことだ。
サキュバスは、だからいけない。
いずれ契約した夫の元へ戻るのに、一時の恋に手を出してしまう。
そう訳知り顔で語る電話を一歩的に切った。今度会うことがあるとしたら、怒ってくるだろうか。
どうでもいい……彼女のために有給をとったことも……彼女の好きなビールも用意したことも……この日が来ることを楽しみにした自分でさえも……。
「ただいま、戻りましたわ。ムッシュ、イルペッタ……さっそく料理作るわね」
ループし続ける思考を止めたのは、勢いよくドアを開けて入ってきた
派遣料理人、リコッタだった。
リコッタはエプロンをつけ、料理に髪の毛が入らないように手際よくまとめた。
のっそりとした動き、暗い表情でイルペッタが出迎えてきたので、ニコリと微笑みかける。
「あら、またおやすみされていたのね……枕の痕がついてる」
「だろうね……ほんと今日は元気が出ないんだよ」
「そう、じゃあご要望通りに元気になる料理を作らないと!」
「そうしてくれると助かるなぁ……で、今日は何を作るの?」
「ふわふわトマトがセールだから買ってきたのよね」
リコッタはふわふわトマトを宙に浮かす。空気を大きく含んだトマトで、見た目が大きい。
実としては中央の部位以外は空気で食べられないが、その分食べられる部位は味が濃厚で、実の色も良い。
まるでお祭りで浮き上がる風船のように、ふわふわトマトはリコッタの周りに浮いた。
イルペッタはくすりと笑う。
「わー、すごい立派だねぇ。パスタにでも使うの?」
「いえ、鳥の煮込みに使うのよ。トマト煮込み」
「正直トマトは好きだけど、煮込みで元気になるのかな……」
「ちょっと変った煮込みにするのよ、鶏も骨付きの硬めの部位にしてるし」
リコッタは冷蔵庫を開けると、ソレを掴んでイルペッタに見せた。
イルペッタの表情が一瞬固まった。
「これ、ビールを使うの。ほろほろに柔らかくなるわ」
「ああー、言ってなかった? ボク、ビール苦手だって」
早口を回し立てるイルペッタに、リコッタはずいっと詰め寄る。
イルペッタの顔は困り切った子供のようだった。リコッタは小さく頷きながら言った。
「飲めないんだったら、いつまであっても困るでしょ……安心して、これはビールが苦手な人でも食べられるから」
「でも……」
更に言いつのらせようとするイルペッタ。
リコッタはニコニコした。
「ビールがね、苦手でもいいのよ。でもね……このビール、ちょっと悲しんでるの。どうして……用意したのにってね。どうか、この子の気持ちを汲んでくれないかしら……食べ物に、罪は無いはずよ」
イルペッタの表情が急にそれまで見せたぼんやりとしたものではなくなった。
まるで化粧をおとされた道化師のようだ。塗りたくられたドーランが消え去り、感情が表に出る。
そこにあるのは傷ついた瞳だった。傷ついたガラス細工のような繊細さを感じさせた。
「君はどこまで知ってるんだい?」
リコッタは目を瞑って頭を横に振った。
「いいえ、私は声を聞いただけ。あなたの口から聞かないかぎりは……何も分かってない。だけど、ビールがあげる悲鳴はとても聞こえたわ……私はそれを救いたいの、そして美味しい料理を作りたいの」
リコッタはぽんと、イルペッタの肩を叩く。
「料理は、作る人も食べる人も、楽しく愉快にしなくちゃね」
イルペッタの膝は崩れ落ちそうになり、その寸前でなんとか踏みとどまる。
力なく笑った彼は、ぼそりと呟いた。
「君って、ひどい人だね……そのくせ、いい人だ」
リコッタはその言葉の意味を追求せず、ただ凪の海のように、イルペッタの言葉を受け止めた。
ぷすっと、ふわふわトマトに針を刺す。
あうっという短い悲鳴が聞こえてきたが、これも料理のため、仕方が無いのだ。
空気の抜けたトマトにそのまま深く針を通し、皮を剥くための作業を始める。
同時並行で塩こしょうになじませていた鶏の骨付き肉を、焼き始めた。表面に焼き色がつくまで……こがさないようにして……だ。
ふわふわトマトはするりするりと皮がむけていく……肉も良い感じに焼き色がついた。
まずは第一段階が終わったというところで、リコッタが思い出したのはグレゴッタが料理している背中だった。時折、グレゴッタは真剣に料理をするあまり、怖くて声をかけづらいことがあった。だから料理本を両腕で抱えて、背中を見ていた。
グレゴッタにそのことを言うと、師匠は少し困ったように笑って――――
「私の作った食事が、特別なものになるかもしれない。そう思うと気が抜けないんだ」
「例えば、人生最後の食事になったり、恋人に指輪を贈る食事になったりするかもしれない……はたまた哀しい日のやけ食いかもしれない……私の食事が、食べる人の特別や人生を彩っているとしたら、気が抜けないんだ」
今……リコッタの背中は、あの日、師匠に声をかけられなかった自分から見て、怖いものなのだろうか。
真剣すぎるくらいに立ち向かっているのだろうか。
この食事で、イルペッタの心の在り方を変えるかもしれない。
そう思うと、我ながら震えそうだった。けれど、一心にリコッタは料理を作った。
ビールの口をあけ鍋に投入する。お肉よやわらかくなーれ、そう小さく歌いながら。
「おまたせしました、ふわふわトマトを使った、鶏肉のビール煮込みとガーリックトーストです。サラダと飲み物も今持ってきますね」
テーブルについたイルペッタはこくりと頷き、まじまじと煮込みを見た。
「あ、ああ……おいしそうだね……ビールの匂いが全然しない……」
「味も残っていませんよ、匂いも味も煮込んでいる間にとぶからね……だけどこの固い肉をやわらかくするには、やっぱり必要です……ビールとか」
「そうなのか……はあ……まさかこんな形で口にするとか思わなかったけど」
リコッタは逡巡するイルペッタの二の腕をツンツンした。
「もう、このままだと冷めちゃうから。ムッシュ、イルペッタ。口上はいいからお召し上がりになって」
「ああ……うん」
リコッタに促される。
それにイルペッタは意を決したのか、ほろりと崩れた鶏肉を口に入れた。
「ビールってそんなに美味しいのかい? 苦いのより甘い方が飲みやすくない?」
彼女にそう言った時、イルペッタが愛した女性は小さく微笑んだ。少し寂しげに見える笑みだった。
彼女はまるで一人言のように、言葉を吐いた。
――――だからいいのよ、苦くて刺激的で……一瞬でいろんなコトを忘れられる。
――――昔なら甘い方が良かったんだけどね、だんだん苦い方がおいしく感じるようになっちゃった。
彼女はあの時、何を見ていたのだろう。
何を味わって……苦いがおいしくなったんだろう。
分からないことばかりだ。まるで夏休みの宿題がいつまでも終わらないような……そんな途方に暮れた感じすら覚える。
彼女が大好きで、自分は飲めないビールは、今鶏肉の煮込みの一部になった。
肉を柔らかくさせ、トマトの酸味とコクを染みこませ、本当に美味しい料理だった。
桃のシロップをつかったカクテルやサラダを持ってきたリコッタをイルペッタは見た。
「ビールってずっと苦くておいしくないとおもってたけど、こうするとおいしいんだね……また、食べたいくらいだよ」
「そう言ってくれると、私もビールも大喜びよ」
「あーあー、なんだろうなぁ……はあ、なんか、なんだろうなぁ」
イルペッタは唇を噛んで、それから吐露した。
「愛してたんだよ……ボクは……彼女だってきっと、愛してくれてたんだよ……どんな真実があったとしても、ボクはそう思うんだ」
涙がにじみそうになる。ぼやけた視界で、イルペッタは言葉を続けた。
「あーあ、にっがい……苦いわけないのににっがい。これを本当に美味しく感じられるようになるのかな……そんなオトナに……ボクもいつかなるのかな」
「大丈夫よ……あなた、苦手なビールを食べたじゃない。オトナの資格、十分あるわ」
「はは、君がいたから食べられたんだよ」
ぐいっとイルペッタは目を擦ると、それからグラスを掲げた。
「マダム、リコッタに感謝を。素敵な料理をありがとう」
凜とした声だった。少しだけ何かを飲み込めた男の声だった。
リコッタはイルペッタを穏やかに見ると、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます。ムッシュ、イルペッタ……どうかあなたに、星の祝福を」
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