短編集

桔梗晴都

第1話 幼少期

「これからどうしようか」

 彼女が言った。透明な汗が彼女の白い肌を伝って、コンクリートのホームに一つ、小さな滲みを作った。今日はお盆最終日だからなのか、ホームにはたくさんのキャリーバッグやお土産を抱えた人たちで溢れかえっている。

「切符はもう買ってしまったし、とりあえず新幹線には乗ろう」

 僕は母親と手をつないで歩く小さな女の子を眺めながら返した。可愛い、短めのツインテールに赤いサンダル。つい最近いなくなってしまった妹の昔の姿を重ねた。

「一応終点まで行く?」

「そうしようか。終点で降りたらもう少し北を目指すことにしようか」

 人混みが騒がしい。流石に名古屋行とか都市部行ほどではないにしろ、こちらの方もそこそこ人がいた。慌ただしくホームを行き来するサラリーマン、楽しくおしゃべりに勤しむ女子高生、つまらなさそうに足元を見つめる少年。僕らが捨ててきた普通の日常の一ページがそこに存在していた。

「あ、来た」

 大きな音でホームに入ってきた新幹線からはホームにいる人たちの数にも負けないくらいの数の人たちが降りてくる。その波に抗うようにして、僕らも車内に入る。運よく席は空いていて、窓側に彼女、通路側に僕といったようすで座った。座るとすぐに新幹線が走り出し、僕たちが先ほどまでいたホームはみるみるうちに小さくなって、やがて視界から完全に消えてなくなった。

「泊まるところはどうしようか」

「まあ、何とでもなるよ」

 幸い、持ってきた金にはまだ余裕があった。彼女と二人だけなら、どうとでもなるような金額は残っていた。

 窓の外を一瞥して、僕の言葉に彼女は「そうだね」といつもよりいくらかやわらかく笑った。どうしてだか、僕には少し痛ましく見えた。


事の発端は至ってシンプルだ。蝉時雨が煩い夏の日、彼女と一緒に帰っていた時、ふと、彼女がなんでもない話をするように僕に提案したのだ。

「ねえ、寄り道して帰らない?」

 僕は驚きながらも頷いた。いつもはまっすぐ帰る彼女がそんなことを言うのは初めてだった。

 立ち寄ったのは、小さな商店街だった。小学生の頃はよく来て、なけなしの小遣いでよくコロッケを買った。その頃の活気は見る影もなく、足が遠のいていたうちにたくさんの店にシャッターが下ろされ、大好きだったコロッケを売っていた肉屋も閉店していた。シャッターが多く下ろされた寂れた商店街を彼女は突き進んだ。彼女のローファーの音がこだまするだけで、すれ違う人はいなかった。

 5分くらい歩いたときだっただろうか。彼女はある店の前で立ち止まった。ここだと教えてもらわなければわからないくらい小さな店で、店の中にはおばあさんが一人、年季の入ったカウンターの向こう側で座っていた。

「おばあちゃん、アイス二つ」

 親しげな様子で彼女はおばあさんに向かって指を二本立てて言った。おばあさんは一つ頷き、カウンターの奥に消えていった。

 数分して、注文した通り彼女にアイスが二つ手渡された。いつの間にか僕の分までお金を払っていたようで、僕は慌てて自分の分は払うと財布を出す。

「誘ったのはこっちだから」

 いつものように笑いながら、彼女はお金を頑なに受け取ろうとはしなかった。

 お金を受け取ってくれなくて眉を顰める僕に、彼女がアイスを渡してくれた。丸くクリーム色のアイスクリームがコーンの上にのったそれは、所謂アイスクリンと呼ばれるものだった。生まれてこの方、コンビニやスーパーで売っている安いアイスしか食べたことがなかったが、初めて食べたアイスは中々美味しかった。

 アイスを食べながら二人で店の外のベンチに座り、ぼんやりと僅かに行きかう人を眺めた。商店街は鳥の羽ばたく音がたまに聞こえるだけでどこまでも静寂に満ちていた。

「ねえ」

 突然、彼女が口を開いた。

「一緒にどこか遠くに逃げない?」

 それは、彼女からの魅惑的な誘い。死にたがりの僕を見抜いた、死に場所を求める彼女からの逃避行の提案だった。

 それからあとは、よく覚えていない。だけどその日の夜、僕は初めて親の財布から金を抜き取り、自分の口座から今まで貯めていた金を全額おろし、ありったけの金を掴んで彼女と共に、暗く澱んだ故郷を抜け出した。


「次は―仙台です―」

 機械的で抑揚のないアナウンスで目が覚めた。夢を見ていたような気もするが、僅かに懐かしさが残っているだけで、夢の内容を思い出すことはできなかった。

 あくびを一つしながら彼女に目を向けると、寝る前と変わらず窓の外を眺めていた。

「…子どもみたいね、私たち」

 彼女が呟いた。ちらりと見た、窓に映った彼女の表情はなにも感情を宿していなかった。彼女のいつも輝いていた瞳は、気を抜けば吸い込まれてしまうのではないかと錯覚してしまうほど、暗闇だった。

「…こういうのも、別にいいと思う」

 彼女より良くない頭で、寝起きの頭で必死に考えて口から出てきた返事はどこまでもありきたりな言葉だった。彼女は僕の返事に何も言わなかった。

 『子どもみたい』。確かに彼女の言うとおりだと思う。子どもみたいに耐えきれないからと狭い世界から逃げ出して、駄々っ子のように迫りくる大人に抵抗している。僕等はもう大人にならなきゃいけないのに。大人になりきれないまま、世間という鳥籠から抜け出したいと願っている。

 それは、大人が見ている世界を早く見たいからと駆け出すませた子どものように。色褪せていく思い出に恐怖し、いつまでも思い出に執着する青年のように。僕等は子どものまま大人になれなかった。そんなに器用にできてはいなかった。

 だけど、それでいいじゃないか。子どものようにわがままを突き通そうとしたっていいじゃないか。

 僕らはきっと、あのままじゃ救われなかった。惨めな僕と醜い彼女。狭い世界は僕らを他人と少し変わっているというだけで追い出すほどに、残酷だった。

 僕は初めて彼女と会った日に思いを馳せる。絹のように陽の光に輝くほど白く、雲を細く伸ばして作ったかのように柔らかそうな、世にも珍しい髪色をした彼女は僕を容赦ない子どもの世界から救ってくれた。血まみれの僕の手を躊躇せず、周りの大人のように追いやりもせず握ってくれたのだ。あの人の温もりは今でも忘れられない。それだけで、僕は悪夢から救われたのだ。

―あの日から、僕には彼女がすべてだった。彼女だけがすべてだった―。

 醜いと後ろ指をさされる彼女を僕は誰よりも愛していた。彼女を指さす奴らに向かって中指を立て、めいいっぱいの気持ちを込めて彼女に綺麗だと叫んだ。それに意味があったかどうかは、分からないけれど。

 だから僕は彼女の提案に乗ったのだ。どこまでも美しい彼女を、僕は独り占めしていたかった。

「…降りようか」

 終点の駅に立つ。故郷とは違う、少し涼しい風が僕らの頬を撫でた。駅から見える風景は、故郷より幾分か緑が多い気がした。

 次はどこへ行こうか、もっと北を目指すか、それともこの町をしばらく探索するか、なんて考えながら足を踏み出す。見知らぬ土地の空気が、街並みが、人が、日常の風景が、やけに新鮮だった。

 あと何時間、僕等はこの逃避行を続けられるだろうか。

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短編集 桔梗晴都 @sasakuri

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