第2話
江戸に住まい始めて、数か月。
あてがわれた住まいは、江戸の中でも人通りのない山の中、だ。
大きな無人の寺は広々として見えたが、この夜揃いつつある連れたちで、座敷は埋まりつつあった。
酒盛りが始まり、直ぐに足りなくなった酒の買い出しに、珍しく陽気になったオキと戒の師弟が向かったと思ったら、半刻して戻った時は、戒が一人で手ぶらだった。
何を、やってるんだと眉を寄せたセイに、ここ数年で大きく育った男は、身振り手振りで外へと手招きする。
妙に慌てている男に、若干嫌な予感がしたが、傘を片手に外へ出、山を下りた。
そして、そこに残っていたオキがほっとして指さす方を見て、目を凝らす。
人が余り行きかわないこの山の中腹に、誰かが倒れていた。
暗闇に慣れた目は、それが女の着物を、辛うじて羽織っているのを見止める。
「……」
何から訊けばいいのかと、そろそろ眠ろうかと言う刻限の頭を、セイがゆるゆると動かしている間に、オキが躊躇いがちに声をかけた。
「こう言う時は、どうすればいい?」
途方に暮れた声だ。
同じように途方に暮れた戒と、男を交互に見てから、セイは無感情に切り出した。
「こういう、見ただけで分からない事で呼ばれても、困るんだが」
「仕方ないだろう、オレも幾多の事を見てきたが、こういうのを見たのは、初めてなんだ。だが、放って置いたら、目立つ話になるだろう?」
「こういう事の片づけは、お前が受け持っているんだろっ?」
師弟の言い分に、若者は頭を掻いた。
「まあ、片付けろと言うのなら、やらない事もないけど、一つだけ確かめるぞ?」
「な、何だ?」
二人を見据え、セイは問いかけた。
「あんたらが、何かしたわけじゃ、ないんだな?」
「当たり前だっ」
二人の声が揃った。
「オレが、こんな年端もいかん娘を、相手にせんと言うのは、知っているだろうっ?」
「オレだってそうだっ。オレらが通った時には、ここに倒れてたんだっ」
「それなら、只の行き倒れじゃないか。わざわざ私を呼ばなくても、あんたらがどこかに置いて来ればいい」
当然の返しに、二人は何故か詰まり、仲良く顔を見合わせた。
何だか、仲の良くない二人のその仕草は、不気味だ。
「それは、な、もし生きていて、途中で目覚めて、騒がれでもしたら、何だろ?」
「あんたら、まさか、確かめてないのか?」
妙な言い分を聞き、目を見開いた若者の問いに、オキが首を傾げた。
「何を?」
「その娘の、生死、だよ」
男は目を丸くし、次いではっと思い当り、手を打った。
「そうだ、生きてるかもしれないんだったなっ」
動転し過ぎだ。
「あのな、それ位確かめてから、慌ててくれよ。もし生きてたら、この寒さの中じゃ、本当に命が危ないぞ」
呆れたセイが前へ進み、倒れた娘の傍に近づいた。
こんな山奥で、娘が着物を乱して倒れている。
なぜこんな所に、と言う不思議は兎も角、セイは寒そうな姿の娘に触れた。
冷たくなってはいるが、息はしている。
夜露に濡れた体に、自分が羽織っていた羽織をかけてやりながら、後ろで見守る二人に声をかける。
「寝てるだけだ」
二人が揃って肩を落とした。
「そうか、ったく、はた迷惑な所で、寝ているものだな」
寝たくて寝た訳ではないだろうが、黙ったままセイは聞き流し、娘の体をそっと起こしてやる。
寺で自分たちの身の回りの世話をしてくれているのは、ある隠居した武士の家人の女人だが、そこまで手間をかけさせるのも心苦しい。
かと言って、今日やっと追いついたジュリ達に、こんな厄介そうな娘を託すのも躊躇われ、若者はしばらく考え込んだ。
その耳に、師弟の声が入る。
「しかし、江戸は女子が少ないと聞くのに、男どもは強気だな。惚れた女子は慰み者にして手に入れる、か」
細長い背丈のオキが、独り言のように言うと、それより一回りほど大きくなった戒が、鼻を鳴らした。
「強気? たった一人の女子を、あんな大勢で慰み者にしようとしていたのに、か?」
「大勢だから、強気になるのだろうな。でかい獲物を狙う時の狩りでも、そうするだろう? その娘が、大物に見えないところが、気になるがな」
そう返したオキが、振り返って自分たちを見るセイに、気付いた。
「ん? どうした?」
「……大勢の男が、ここにいたのか?」
ゆっくりとした問いに、戒があっさりと頷いた。
「ああ。オレたちが、荷を運んでここまで来た時に、逃げてしまったがな」
「顔は?」
「暗くてはっきりとは見えなかったが、明るくなった時に、会えば分かる位には、見えた」
戒が正直に話す中、オキは若者の意を察し、顔を顰めた。
「おい、オレたちに向こうの顔が見えたからと言って、向こうにオレたちの顔が見えたかは、分からんぞ?」
「でも、見えたかも知れないんだろ?」
「まあ、絶対見えていないとは、言えんな」
頭を掻きながら呟き、オキはセイに近づく。
「離れに、休ませてもいいか? 明日、その娘を家に送る段取りを、考える」
「そうしてくれ」
頷いて立ち上がり、若者は男と共に娘を寺の離れに運び込んだのだが、酒の肴を用意したり、初めて会う者たちに、明るく挨拶していた女人がそれに気づき、手伝っていた大きな男と共に離れにやって来た。
ぐったりとしている娘に慌て、男たちを外へと追い出して、甲斐甲斐しく世話を始める。
汚れた着物を脱がせて洗いざらしの着物を着せ、顔を改めて見た女人が、小さく声を上げた。
「あら、この娘さん……」
「ん? 知ってるのか?」
戒が気楽に問いかけると、その母親の年代の女は頷いて答えた。
「この山に近い町の、商人の娘でございます。確か名は……
「商人? 上等な着物に見えたけど、それなりに裕福な家か?」
「はい」
セイが外で上を仰ぎ、その隣でオキが唸る。
「箱入り娘なら、今頃大騒ぎだろうな」
「遊んでいる娘でも、この時分に出歩くのは、おかしいだろうな」
「遊ぶにしても、危なすぎますね。妖しに魅入られるとは」
女と共にやってきた男が、何でもないように続けた。
戒よりも大きな、岩のような男だ。
髪も目も銀色がかっている為、余計に岩のように固く見えるが、体つきに似合わぬ器用な男だ。
気安い男の意味ありげな言葉に、オキが目を細めた。
「妖し? 見た限りでは、いなかったはずだが?」
「いたはずですよ。ただ、妙に弱そうで、女の妖しであるようなのが、気になりますが」
「女?」
その場を見た男二人が、顔を見合わせた。
あの場にいたのは、この国でも珍しい、大きな体つきをした男たちだった。
「……陰に隠れていた、か。気配が分からない位だから、かなり弱い奴か」
「そんな奴、気にしてどうする? 足がかりになどなるまい?」
「お前な、こういう些細な事から気にせんと、大事な事を取りこぼしてしまうぞ」
師匠然とした言葉で諭し、オキはセイに切り出した。
「この娘が目覚める前に、戻しに行こう」
「どうやって?」
大事になる前に、騒ぎの元を返してしまいたいと言う、切実な思いを受けて頷きつつも、若者は首を傾げた。
「それを、お前が、考えてくれ」
真顔で言われ、思わず顔を顰めたが、セイが考えるまでもなかった。
池上家の若い男のご母堂で、
オキとセイが池上家の家臣に扮し、娘の両脇を支えて連れ、伊都が商家の主に表立った挨拶と、適当に作った事情を話す。
材木問屋だと言うその商家の主は、池上家の隠居の妻に丁寧に礼を言い、疑うことなく娘を引き取った。
「……」
おかみとともに現れた材木問屋の甚兵衛を、傘を目深にかぶった蔭から伺い、セイは眉を寄せた。
すぐに暇を告げ外に出た後、若者がオキに呼び掛ける。
「……しばらく、あの娘の様子を気にかけてくれ。気になることがある」
「気になる事?」
小声で話す若者の言葉に耳を澄ます伊都だが、どこか別の国の言葉なのか、何を言っているのか全く分からない。
が、話を聞いたオキは分かったのか、顔を顰めながら頷いた。
「そういうことなら、仕方ない。いいか、決して一人で動くな。目立つような場所は避けて、ゼツを連れて歩くんだぞ」
「それは、余計に目立つ」
意外にも、心配症になってしまった男を見送り、セイは女とともに山へと戻った。
たまに戻って来るオキの話では、あれからも娘は、一度も自我を取り戻さず、ただぼんやりと、壁を見つめ続ける日々が、続いているらしい。
その間に、かき集めた話は入り組んだもので、若者はゼツと共に、裏付けとこれ以上大きな話にならぬよう、人目を避けて動いていた。
大きな動きがあったのは、それから数日後だった。
「……妙なお武家が、あの店に訪ねて来た」
オキが言うには、狐憑きになった娘を見に来たと、訪ねて来たお武家がいたらしい。
「浪人者のようだったが、追い払われる前に、妙な事を、捨て台詞に吐いて行った」
払いたければ、許嫁との婚姻を、白紙に戻すことだと、浪人は言った。
「そのお相手が、狐に魅入られているせいで、娘がそう言う病になったんだと」
「……狐って、人に憑けるのか?」
「そんなわけあるか。人間どもの、思い込みだ」
ふと浮かんだ問いに、オキはすぐに返す。
「縁起でもないと、店の者が、主に会わせずに、追い返したんだが……昨日、な」
急に、話す声から力が弱まった。
見下ろすセイに、オキはもう一つの動きを、知らせた。
七不思議、と言うものが、江戸の至る所で語られているらしい。
「何で、七不思議?」
「七つの不思議が、あるからでしょう」
数が足りなくても、数が足りないのに七不思議と言われているのが、不思議な事の七つ目だ、と言う話もあるらしい。
「そういう風に盛り上がれるのも、こちらからすると、不思議なんですけど。作る方は楽しいんでしょうから、いいのでは?」
そんな話をしたのは、大工の面々と話した翌日の昼過ぎだ。
松吉の家で待ち受けていたのは、その家族だけではなかった。
貫禄のある男たちが、一つの座敷に通された二人を、一斉に見つめた。
どの男も松吉と同様に親方と呼ばれる立場か、大きなお店の主人と見える。
「……何を、やったんですか」
小声ながらも、冗談めかしたエンの問いに、雅も小声で返す。
「さあ、何をやった事に、されているんだろう」
心なしか棘のある目線を受けながら、二人は集まった男たちが座する、座敷の真ん中に座らされる。
これは、話がこじれたら、無事にここから出られない。
内心身構えながらも背筋を伸ばし、雅は正面に座ったこの家の主を見返した。
松吉は咳払いをし、静かに切り出す。
「カエン、お前さんにとっては、寝耳に水の話であろうが、何も言わずに聞いてほしい」
「……はい」
何を言われるのか、秘かに身構える男の前で、松吉は雅に向かって尋ねた。
「おみや、お前さんは、狐、なのか?」
「はい?」
つい、間抜けに返してしまったのは、ここまではっきり、しかもこんなにお偉そうな男たちの前で切り出されるとは、思わなかったせいだ。
「ど、どういう経緯で、そのような、突拍子のないお話が?」
次の言葉が出てこない雅に代わり、同じように呆気にとられたまま、エンが訊き返した。
「いや、あの話を信じた訳ではないのだ。だが、ならず者に近いとはいえ、お武家の方の言葉なのでな、一度確かめてから、話をしようと思ったのだ。狐憑き、と言われれば、そう思えるのでな」
答えた男は、その二人の様子に、別な得心を得たようだ。
頷いてから周りの男達を見回し、無言で頷き合う。
そして、再び雅に問いかけた。
「狐ではないのなら、私やこの方々の倅たちに、いつ、色目を使ったのか、教えてもらえぬか?」
ますます話が分からなくなるが、このままエンに答えさせるのもおかしいと、女は静かに口を開いた。
「その前に一つだけ。私が狐であろうがなかろうが、あなた方のお子様方を篭絡させた、と言う疑いは、晴れない、と言う事でございましょうか?」
「お前さんが、旦那持ちであるから、そうはっきりとは言いたくないのだが、お前さん程の器量なら、幾多の男を虜にするくらい、造作もなかろう?」
褒められてるのか?
つい唸った雅の横で、エンが小さく笑う。
「……言いたくない割に、はっきりと言い切られましたね」
「あのお武家の話で行った先で、このような器量よしが待っていたのだ。疑うしかあるまい」
「まあ、お褒めの言葉には、礼を言っておきます。どのような理由での訪れであれ、この人が美しいのは、本当のことですから」
どさくさに紛れて、何を言っているんだっ、と身が縮む思いをしながら、雅は咳払いをした。
胸の内を隠して、優しい声を作る。
「幾多の男と言う事は、この方々のお子様方も、篭絡したと疑いなのですか?」
「ま、まあ、そうなるか」
後ろめたそうに答える松吉とは違い、周りに座る大店の主らしき男たちは、険しい目で女を見ている。
やってもいない事で、こんな大勢の男の目に晒され、つるし上げられるところだったのかと、雅は呆れてしまっている。
「お尋ねいたしますが、あなた方のお子様方は、見目がよろしいのですか? そうなのなら、よほど御父上に似なかったのですね。私は、見目よりも人柄に惚れてしまう質なのですが、好いたのはこの人だけ。他の殿方のことなど、考えたことなどございません」
暗に、エンを持ち上げているその言葉に、隣の男が目を見開いて女を見た。
見返して笑い、そっと三つ指をつく。
「顔を知らぬ方々を篭絡するなど、出来ようはずもありませぬが、お疑いを晴らす証はありません。ですが、あなた方も、疑いの証はないのでございましょう?」
「白黒つける方法は、一つだけある」
松吉が、静かに答えた。
その後ろに控えていた若い男が、膝を立てる。
「私の倅がいる部屋へ、入ってもらう。それで、はっきりとした証を、立てられる」
「……女子一人を、男のいる部屋に、入れると?」
雅が答える前に、隣の男が返した。
穏やかな声で、エンは松吉を見据えていた。
見据えられて詰まる男の後ろで、若い男が睨む。
「造作もねえだろうが。その女が、夜ごとにやっていたことを、オレたちの前でやればいいだけだ」
「狐に取り憑かれたと、そう思うくらいなのですから、その倅殿、乱心しているのでしょう? そんな中に女子一人を入れて、何かあった後に違いましたでは、困るんですが」
「坊ちゃんが呼んでる女なら、困りゃあしないんだよ」
鼻であしらうように言い切る男に、エンは穏やかに返した。
「違ったらどうするのかと、尋ねているんですが、耳が遠いんですか?」
「何だとっ?」
「あり得ないからこそ、私は言い切るんですが。あなた方も、自信はおありなのですよね? 命を懸けられるほどに?」
周りに座る男たちが、どよめいた。
「そ、そんな大袈裟に、庇わずとも、なあ?」
慌てた声で言い出したのは、この座敷にいる中でも、年かさの男だ。
「そうですか? ここまで大袈裟に集まって、女子一人を責め立てようと呼び出した方々が、何を寝ぼけておられるのだ?」
あくまでも穏やかに言われ、ようやく、何かがおかしいと思い始めたようだ。
座敷内が、静まり返った。
「穏便に事を済まそうと、この人が大人しくしているので、私も我慢しようと思いましたが、これ以上はもう無理です。……すみません」
「……いいけど、落ち着いてくれよ」
「勿論です」
雅の小声の頼みに、エンは穏やかに頷いたが、張り付いた笑顔が、信用できない。
声を上げる事が出来ない面々に、男は静かに切り出した。
「詳しいお話を、伺いたいのですが、よろしいですよね?」
完全に、エンのただならぬ気配に呑まれてしまった松吉がまず頷き、他の者も慌てて頷く。
笑みを更に濃くしながら、男は切り出した。
「まず、皆さまの倅殿方が、その狐憑きに似た病にかかったのは、いつごろでしょうか?」
「はっきりとは言い切れないが、数日前に怪我をした後である事は、間違いない」
「怪我?」
ある日遊び仲間たちと歩いていたら、突然の突風が襲い、足をざっくりと切られたのだそうだ。
「風が? そんな器用な風が、吹きますか?」
「知らぬのか? この頃、読売ではその話で、持ち切りだ」
「神の童と共に、な」
聞いたことのない話に首を傾げる二人に、大店の主人らしき羽織を着た男が、苦い顔でその話を始めた。
「数か月前から、若い男を狙って風が襲ってくるそうだ。襲われた者たちがそう言っているだけで、我々は一度も、そんな質の悪い風に吹かれたことがないのだが。読売では、鎌鼬が、金持ちの男たちを襲うようになったと、煽り立てていた」
「鎌鼬……確かそれは、冬場に現れる、不思議だったのでは?」
今はまだ、秋口だ。
頷いたのは、飾り職人の親方らしい、年かさの男だ。
「だが、現れ始めたのは、今年の春口、だ」
切られた傷は永くうずき、動くのも辛くなるようで、襲われた男たちは家に籠っているしかなくなる。
「儂から、話した方が良いかの」
一番年を重ねている大店の男が、静かに口を開いた。
「数か月前、遊び仲間たちと風に襲われた倅は、家に籠っている間に、豹変した。最期は、女を連れてこいと喚き散らし、狂い死にした」
「……」
目を見張っている雅を見る目は、子供に先立たれ、諦めきった目だ。
「ようやく、悪い遊びをやめてくれるかと、喜んでいたのだがな」
「悪い遊び?」
どこぞの旗本の中間に誘われ、遊び仲間と共にそこに通っていたのだと言う。
「怪我のお蔭でそれが止んだ。ほっとしたのもつかの間、今度は、何かに憑かれたように、暴れるようになった」
「私の倅も、まさに今、同じようになっている」
少し若い男が、静かに言った。
「狐憑きとは思わんまでも、恋煩いなら、得心できると、そう思ったのだが……本当に、お前さんは、知らぬのか?」
「はい」
「お前さんをどこかで見初めたか、松吉さんの所に来たお武家が、いい加減な事を言ったか、だな」
苦い顔になったが、男たちは松吉を責められない。
その話を聞いて集まり、女を連れて来て詰問する、そう決めたのはこの場の全員だ。
「その、先程からお話に出て来る、お武家の方ですが……もしかして、背はこの人と同じくらいの、色白のお浪人ですか?」
「その通りだ。倅の許嫁にまで害を及ぼしている狐だと、そう言われた」
すぐに頷いた松吉が、不意にエンを見つめた。
「その頭、まさかとは思うが、お前さん……」
昼間は頬被りをし、傘を被って魚を売る男だ。
だが、明るいこの場で見る男は、総髪の黒髪を、ただ後ろで束ねているだけで、町人には見えない。
「一体、お前さんは、何者だ?」
「それは今、気にする事ではありません。他の方々のところも、同じなのですか?」
少しも動じない男の問いに、男たちはいっせいに頷いた。
「亡くなられたのは、そちらのお子様だけですか?」
「いや、そこのお三方も、同じように亡くなられた」
目で指されたのは、端の方で小さくなっていた、三人の男だ。
大店の主人のようだが、妙に落ち着きのない様子で、急に振られた話におどおどしながら頷く。
その様子を見つめ、エンが小さく笑った。
「成程、そちらの方々は、他の方々程、このお話を真に受けてはいないようですね。安心いたしました」
「……お前、さっきから、何を訳分からんことを……こちらを混乱させて、女を逃がす気じゃないだろうなっ?」
「やめないか」
若い男が、懲りずに罵声を浴びせるのを、松吉が短く制すが、エンは穏やかに笑って返した。
「どうぞ、構いませんよ。力任せに、この人を連れていきたいのなら。ただし、私も全力で、この人を守りながら、ここを辞させていただく。それを許すあなた方とも、話す謂れはなくなりますので、その方がありがたい」
「この、言わせておけば……親方、話すだけ無駄だ。こいつ、力づくででも黙らせねえと、何を言い出すか、分かったもんじゃねえ」
「
松吉が鋭く名を呼ぶが、仁平は立ち上がり、その後ろの若い男たちも勢いよく立ち上がった。
大男たちのその迫力に、集まった男たちもすくむ中、エンは正座したままだ。
これは、まずいな。
秘かに身構える雅に向かって、勢いよく迫る男を止めたのは、初めて聞く男の声だった。
「いい加減にしろよ、仁平。親父の言う事が聞けないなら、さっさと辞めちまえと、言い含めていたはずだな?」
静かな、若い声だ。
松吉の後ろで、静かに座したままの、幼さの残る若い男だった。
「お前たちもだ。親父の言う事が、聞こえなかったか?」
「い、いえ」
「なら、さっさと引け」
静かな言葉なのに、男たちは顔を強張らせて、元の場所に座り込んだ。
振り返って固まった仁平も、雅を見下ろして舌打ちしたが、大人しく戻っていく。
それを見守った男が、松吉を見上げる。
「親父、こいつらもう少し、躾けろよ。旦那方との付き合いがこじれちまったら、いくら人気の仕事とはいえ、食いっぱぐれちまう」
「ああ、そうだな」
気楽な言葉に笑い返し、松吉はまず、身をすくませてしまった客たちに、詫びを入れる。
「驚かせてしまって、申し訳ない。後できっちりと、締めておきますので、この場はどうか」
深々と頭を下げた後、目を見開いたまま動かないエンに、目を向けた。
「お前さんにも、嫌な思いをさせて、すまなかった。話を、続けさせてはくれまいか?」
エンは目を見開いたまま、松吉の後ろに控える若い男を見つめている。
ゆっくりと松吉を見返し、男は微笑んだ。
「こちらこそ、大人げない返しをしてしまいました。申し訳ありません」
その後するすると話はまとまり、何故か件の女とやらを、エンが探すと言う話に変わっていた。
一夜明けて気になるのは、松吉宅で聞いた不思議話だ。
エンは朝方、仕事がてらに松吉の家に再び訪ねていき、詳しい話を聞いて来た
「七不思議の中に入りそうなのは、鎌鼬の方ですね。どうも、冬場にはよくある話のようです」
「よくある? 風が、人の体を切って行くことが?」
「昨夜の話とは違って、狙われるのは、慎ましい暮らしをしている人、らしいですけど」
だからこそ、この話を、読売はこぞって取り上げているのだ。
「羨んでるからこそ、裕福な人が狙われるのは、嬉しいんだろうね……というか、冬場に、風でって……」
「働き者からすると、気づかぬうちに
暮らしの中の些細な苦労の話からも、不思議話を作り上げる人間たちには驚かされるが、そんな作り方の話ならなおさら、昨夜の話は不思議と言える。
「松吉親方のお子さんは二人。一人は病に倒れた、
「……松、梅、竹……順番、逆だね」
竹蔵は、昨夜、父親の代わりに仁平たちを止めた、若い男だ。
「梅吉さんは、しばらく前から質の悪い友人が出来て、働かなくなったそうです」
そんな、働かずに生きている者たちを襲う、鎌鼬。
これは、只の風ではない。
「只の風ではないですが、不幸中の幸いだった、と言うのが、オレの感想ですね」
「どうして?」
「のめり込む前だったから、まだ、命の危険が少ない症状なんですよ、梅吉さんは」
悪い遊びを始めた時期は、親にもはっきりとは分からない様だったが、命を落とした四人の男の倅たちは、既にやめても遅いところにまで、それが染み込んでしまっていたのだろう。
「……それは、病の話か? 病を、どこかで拾った、と?」
「病なんかじゃ、ありませんよ。あれは、薬の吸い過ぎ、です」
薬? 吸う?
雅は、薬に使うにしてはおかしい言葉に、ついきょとんとしてしまった。
いや、煙状の薬なら、吸う、になるだろうか?
その様子に、思わず顔を緩ませてしまいながら、エンが言葉を続ける。
「煙草の様に、煙管に詰めて口から吸う薬も、あるんですよ。あまり、知られていないですが、国によっては、身近にある薬です。この国では、ご禁制の物のはず、なんですけどね」
気晴らしに、もしくは、痛みを和らげるために、少量のそれを吸う分には、害はない。
だが、量を増やし過ぎると、どんどん見境がなくなり、少し欠かすだけでも我慢が出来なくなる。
「狂人じみた行いが目に付くようになり、その力も化け物かと思う程に、見境がなくなります。体に染みつきすぎて、吸うのをやめたとしても既に手遅れな事も、当然ながらあります」
そうなると、周りが成す術は、ない。
「そんな人たちが一様に呼ぶ女が、その薬をしかるべきところに持ち込んでいたんでしょう」
「と言う事は、その、旗本の中間部屋が、怪しい?」
「ええ。ですが、その女は捕まえられても、件の旗本にまでは、手は出せないですね」
だからこそ、あり得ない狐憑きと言う話に、つい飛びついた。
「亡くなった倅のせいで、お店を潰す訳には、いかないでしょうから」
「……つまり、あの亡くなった人の親御さんは、気づいてて私を、槍玉にあげようとしてたって事か?」
やれやれと首を振る女には、呆れた様子はあるものの、怒っている様子はない。
「……」
そんな雅をしんみりと見つめるエンに、女はふと思い出して尋ねた。
「そう言えば、鎌鼬の他にも、読売で騒がれてるって言う、子供の話は?」
「神の童、ですね。聞いてきましたよ。初めて聞く話だったので」
聞きはしたが、不思議でもなんでもなかった。
「朝、名医の家の前に、小判数枚と眠り込んだ子供が置かれている、そんな話が、何件か続いているそうです」
不思議ではないが、その名医たちが、こぞって奉行所に秘かに届け出たと言う話が、引っかかる。
「まあ、その辺りの所も、これから少しずつ、調べ上げます。次に、セイと繋ぎが取れるまでには、こちらの事も、収まっていればいいんですけど」
弟分に目立つ動きはさせたくないエンは、そう笑って外へと繰り出していった。
残された雅は、手持無沙汰である。
洗い物も終えてそれが乾くまでにと、小さな部屋の中も掃除した。
長屋のおかみさん方とも、洗い物の時に話したのだが、知っている話は雅と似たり寄ったりだった。
家の中にいても、あまりエンの探索ごとの手伝いにはならないようだ。
「……行って、見るかな」
昨夜の話で、気になった事があった。
梅吉の許嫁である、材木問屋の娘も、狐に憑かれたと言う話だった。
病になっていると言う話は聞いていたが、それが心の病とは聞いていなかった。
気になる、と言うのもあるが、何よりも、狐憑きと疑われる病状と言うのを見てみたい、と言うのが本音だった。
雅は、大店の店先に行っても恥ずかしくない様に、出来るだけ身づくろいすると、そっと長屋を出た。
怪しくないか心配しながらも訪ねたのだが、意外にあっさりと招き入れられ、娘の座敷に通された。
聞けば、女相手なら、少し安心して、見舞われた後も休んでくれるのだと言う。
つまり、男の見舞いでは、気が休まらないと言う事で、穏やかでない話が思い浮かんだ。
もしや、そういう事か?
舌打ちしそうな気分を振り払いながら、優しい笑顔で娘の待つ座敷に入った雅は、その娘を見た途端、顔が崩れてしまった。
「長屋のおかみさんが、お見舞いに来てくださいましたよ、お紺」
お
なぜだ、と言う思いが、頭を混乱させていた。
寝具の上に身を起こした娘の傍らに、黒い猫が丸くなっていた。
この国では珍しい、ふさふさの毛並みの、緑色の目をした猫だ。
顔を上げて、傍に座った雅を見上げた猫の方も目を丸くしたが、何も言わずに顔を伏せた。
当たり障りない話をしたが、娘は何処を向いているのか、目は虚ろのままだ。
「……ずっと、ああなのです。起きる事も食べる事も、今は出来るようになりましたが、何も話してはくれません」
「そうですか。きっと、大変な思いをされたのですね」
帰り際、藤が涙声で、深々と頭を下げた。
「松吉さんから聞きました。昨夜は、とんだ事に巻き込んでしまったと」
「ご存知でしたか。では、私がここに来たわけも、お分かりですか?」
文句を言いに来たわけではないのだが、藤は身を縮めた。
「どう、お詫びをすればいいものか……」
「いいえ。ただ、疑われても晴らす術がありませんので、困っただけです」
優しく返してから、雅はそのまま尋ねた。
「娘さんの傍にいる猫、こちらで飼われているのですか?」
「ええ。数日前に迷い込んできまして、なぜか、娘を守るようにああして傍にいてくれるので、そのまま……」
「数日前、ですか?」
何かがおかしい、そう感じたが、そのおかしいところが分からない。
家に戻り、洗い物を取り込みながら、先日からの出来事を思い返していた雅は、ある話を思い出し、つい手にしていた着物を取り落とした。
我に返って着物を拾い、土を払う。
そうだ、エンの話では、一昨日セイたちは、江戸に着いた、そう言う話だった。
どこから、そんな繋ぎが取れたかも不思議だが、その話すら実は嘘だとしたら?
考えてみたら、自分が昼間、何をやっているのかエンが分からないのと同じで、雅もあの男が何をやっているのか、知らない。
それに気づいて憮然としたが、すぐに笑ってしまった。
もし、自分に知られぬように、弟たちと繋ぎを取っているとしても、文句を言える程、親密な間柄ではない。
むしろ、自分がどう動いているのかも、あの黒猫から伝え聞いてしまうだろうから、エンに気遣って動くことはないと言う事だ。
少し気を楽にして、雅は男の帰りを待つことにしたが、払っても払っても、胸に蟠った陰りは晴れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます