語り継がれるお話 4

赤川ココ

第1話

 月のない夜。

 江戸からはるか遠い、南の国の村にある立派な作りの寺に、一つの集団が忍び込んだ。

 烏合の衆にしては、統率のとれた五人のその集団は、立派な作りの門の塀を軽々と越えて、音もなく中へと入って行く。

 本堂には見向きもせず、彼らが向かった先は奥にある小屋で、そこでしばらく中の気配を探り、頭領らしき人物が他の者達に頷いて見せる。

 合図を受けて、静かに抜刀した彼らと共に、先頭の人物も刀を抜き、小屋の引き戸に手をかけ、素早く開け放つと同時に、中に押し入って行った。

 いきなり入って来た者たちを迎えたのは、二人の人物だった。

 一人は、尼僧姿の老婆で、ここの住職だ。

「何事ですかっ、このような刻限にっ」

「ご無礼は、百も承知で伺いました。お許しください」

 行燈の明かりの中で、気丈に一喝する尼僧の前に膝をつき、その前に抜刀した刀を置く。

 そして、尼僧の背後にある屏風の後ろにいる人物に、声を掛けた。

「私は、江戸のとある方の使いで参りました、池上いけがみと申します。そちらにおられますな、セイ殿?」

 言葉は丁寧だが、一触即発の空気を放つ忍び装束の一団を、尼僧は顔を強張らせて見回し、それでも静かに答えた。

「お江戸の方の使い? わたくしは、江戸に知り合いはおりませぬ。お人違いでは?」

「……多恵たえさまとお呼びしましょうか? 私が使わされた相手は、そちらの御仁です。あなた様ではありません」

「このお人も、お江戸に知る者など……」

「セイ殿。いつまでも女子の、しかもこのようなご老体の後ろに隠れて、情けないとは思わぬか? 潔く出て来ていただきたい」

 池上と名乗った男は、尼僧の言葉を遮って、直接屏風の方へと声を掛けた。

「江戸の者ではありますが、そちらの容姿の事は話に聞いておりますので、余計な身支度は結構です」

 言いながら立ち上がり、男は老婆の方へ手にした刀の刃を向ける。

「無駄な殺生はしたくありません。ましてや、尼僧を斬るなど、気分のいいものではありませんが、そちら次第では止むを得ませぬな」

 立ち竦む尼僧の背後で、かすかな布の擦れる音が聞こえ、屏風の奥で誰かが動いた気配がした。

「いけませんっ。わたくしは、大丈夫でございますから、構わず逃げて下さいっ」

「……名前を知られているし、どうやら、こちらの姿かたちも、知られているらしい。逃げても意味がない」

 無感情な声が尼僧に答え、ゆっくりとその姿を見せた。

 池上の背後で、部下の男たちが、息を呑むのが聞こえる。

 池上自身も、息を詰めてその姿を見つめた。

 仄かな明かりの中、姿を現したのは若い男だった。

 この国では、大きな方の体つきで、ひょろりと背が高い。

 色白の透き通っているかのような肌色の若者が、着流し姿で立っている。

 木を彫って作ったように、綺麗に整った顔立ちは、女でもう少し背が小さければ、国の実力者たちを動かせる、悪女にもなれるだろう。

 だが、男たちが驚いたのは、そればかりが理由ではない。

 僅かな明かりの中でも、見間違えようがなかった。

 若者の背に流れる、真っ直ぐな腰ほどの長さの髪は、仄かな行燈の明かりを吸って、薄い金色に輝いている。

 どんな言い逃れも出来ない、間違うことない異人だった。

 薩摩の国の、仏教寺の中で、匿われている異人だ。

「初めてお目にかかる。私は……」

「二度も名乗るには及ばない。私の名も知っているようだから、名乗るにも及ばぬだろう。用件は?」

 無感情に切り出した若者に、池上は刀を引きながら答えた。

「そなたの力を、借りねばならぬ事態が出立した。我々と、江戸へ来て欲しい」

 目を見張る尼僧の後ろで、若者も首を傾げた。

「法に、触れているから罰する、というのでは、ないのか?」

「法に触れる教えを、広めている訳でも、法に触れる物を、持ち込んでいる訳でもないのであろう?」

「……法に触れそうな者は、一緒に来ているが」

「それは、この際目をつむる。出来れば、すぐに我らと共に来てほしい」

「ここから、江戸は遠い。話の端にも触れず聞かずで、黙ってついて来いと?」

「そういう事だ」

 応じた男の前で、若者は小さく笑った。

「お断りする。訳も分からずに話に応じるほど、私も愚かではないのでな。お引き取り願おう」

「それでは、法に触れる者として、堂々と引っ立てていくが。それでもいいのか? そうなると、そなただけの、話にとどまらぬが」

「今、ここにいるのは、私だけだ。他の者たちは他所にいる。連れていきたければ、力ずくで、連れて行ってみてはどうだ? 無論、私も、そこまで非力ではないが」

 緊張感が狭い室内に漂っても、若者はただ立ち尽くしている。

「……致し方ない。多少の怪我は、大目に見る」

 鋭い目で見返しながら池上が告げると、部下が再び刀を構えた。

「セイ様っ」

「多恵さん、下がって」

 無感情に言い、セイが静かに尼僧の前に立つ。

「いけませんっ」

 尼僧の叫びはむなしく、池上の命を受けた部下たちが、若者に飛び掛かっていく。

 刃を向けられ、斬りつけられても、セイの表情に変わりはない。

 丸腰のまま、一斉に飛び掛かる男たちと対峙し、襲ってくる刃を流していく。

 そうして、少しずつ前に足を踏み出し、池上が気づいた時には、その身を捕らわれていた。

 それに気づいた部下も、動きを止めて息をのむ。

「……引けと言った時に、引いて欲しかったのだが、仕方ないか」

 いつの間にか、首に刃物を突き付けられていた池上の目前で、セイが静かに言った。

「あんたを斬ってから、他の奴らの事は考えるよ」

「セイ様、いけませんっ」

 悲痛な声にも耳を貸さない若者を見下ろした池上は、口を開いた。

「……れん、と言う名に聞き覚えは?」

「……」

 僅かに目を細めた若者に、男は静かに続ける。

「その者に、貰ったものでしょう? その『苦無』は?」

「だったらどうだと?」

「どうもしない。ただ、こうなった時は、その事を耳に入れて見ろと、そう言われてきた。蓮殿に」

 黙ったまま動かない若者に、池上は懐から取り出した書状を、差し出した。

「その蓮殿より、文を預かっておる」

 表には、何も書かれていない懐紙に包まれた、文だ。

「……」

 それを見つめながら、セイはゆっくりと苦無を引き、文を受け取った。

 懐紙を開いて文を黙読する若者を、周りの者は緊迫した空気で見守る。

 やがて、セイが溜息を吐いた。

「……何やってるんだ、あの人は」

 綺麗に包み直してから文を懐に入れ、男たちを見回した。

「すぐには行けない。こちらは全く、旅支度が整っておらぬのだ。力ずくで連れてこいとは、言われていないのだろう?」

「今の非礼は詫びよう。我らの主が、是非にと頼む者がどのような者なのか、気になったのだ」

 ゆっくりと頭を下げて詫びると、池上が切り出す。

「どの位かければ、江戸まで辿り着けそうか?」

「京までの道行は分かるが、江戸の方は不案内だ。少し手間取るかもしれない。と言うより……」

 セイは首を傾げた。

「道案内をしてもらえるなら、有難いのだが」

「こちらは構わぬが……」

「それでは、頼む。助かった。私も、そいつらも、京に出た事はあるが、それより先には足を向けた事がないのだ」

 言って目を向けた先は、池上の背後だ。

「随分と栄えていて、京と並ぶ、この国の中心となりつつあるとか。楽しみですね」

「そんな事を言うなら、先に京へ行ったときに、もう一つ先まで足を運んで、江戸に出てみても、よかったんじゃないのか?」

 振り返った男の目線の先で、見知らぬ男が二人、呑気に話していた。

 岩のように大きな男と、細長い男だ。

 どちらも色白で、この国の者でないと分かる。

 振り返ったまま固まった池上と、ぎょっとして立ち尽くすその臣下達に構わず、細長い方がセイに声をかける。

「他の奴らは、すでに向かっているんだから、そろそろ出かけんとな」

「本当はもう少し、あの二人が、それらしくなるのを待ちたかったのですが、仕方ないですね」

 二人の話は、狼藉者である池上達には分からなかったが、セイも分からなかったらしい。

「あの二人って、あの二人の事か? それらしくって、何だ?」

「こちらの話だ、気にするな。すまんが、早急に旅支度を頼む」

 細い男が声をかけた先は、尼僧だ。

 老婆は寂しそうに頷きながら、答える。

「畏まりました。夜が明ける前には、整うよう支度いたします」

 静かに辞した老婆を追って、セイも手伝いに向かう。

「ま、座ってはどうだ? 茶ぐらいなら用意できる」

 座った細長い男の言葉を受け、大きな男も一度辞し、盆を携えて戻って来た。

 銀色の髪を流した大きな男は、その体に似合わぬ速やかな動きで、躊躇いながらも座った招かれざる客たちに接している。

 近くで見ると、どちらもこの国では珍しい色合いだ。

 大きな男の方は、髪色と同じ色合いの目で、客たちの目を見返す。

「江戸の、どの方に、仕えておられるのですか?」

「それは……」

「やめとけ、訊いたところで、本当のことを話すはずがない。忍びとは、そういう物だと聞いたことがある」

 緑色の目に、笑いを浮かべながら、細長い男が大きな男を窘めた。

 髪はこの国に馴染むが、異様な気配と目の色が、ただ者ではないと池上を身構えさせる。

「ところで、あなた方は、永くこの地に止まっておられるようだが、この地に何か気にかかる事でも?」

 何も話さぬのもおかしいと、池上は気になった事を尋ねた。

 数年前に一度この国を離れて、その三年ほど経った後に、再びこの国に入って来た。

 それから今日までの一年余り、のんびりとこの地に腰を落ち着け、動こうとしていないと言う知らせが、池上の耳には入っていた。

「ある女の頼みで、少し面倒臭い事するために、一度この国を離れた」

 不意に問われて首を傾げつつ、男は答えてくれた。

 そして、顔を顰めて続ける。

「何とかモノになったんでな、この国に戻って、その女に引き渡したんだが……」

「ああいう話になるなら、初めから姉弟一緒に、連れて行けばよかったんです。断った理由が、全く分からないです」

「なあ、あの親父の種にしては、甲斐性がなさすぎる」

 内輪の事情、らしい。

 全く話が読めない客たちに、今度は細長い男の方が訊いた。

「どういう事態が起これば、こんな襲撃の仕方をすることになる? 下手をすれば、お前たち、生きてここを出られなかったぞ?」

「よほどの仔細があるのでしょうが、我々二人が当番で良かった。他の者なら、あの人に刃を向けたと言うだけで、怒り狂うでしょうから」

「……当番?」

 和やかな空気が滲む役柄だ。

 寺子屋でのそれとは違い、この者たちの素性を考えると、和やかすぎる。

 見込み違い、と言う事はないだろう。

 どちらかと言うと、ここの若者を名指しした者の方が若く見え、一見すると頼りなくもあるのだ。

 自分たちと同じ裏の方で、確実な力を持つ若者だと言う事を知らなければ、その言すら怪しく思える所だった。

 一刻程の時を他愛ない話で過ごし、支度の整ったセイと共に村を出た。

 年老いた尼僧は、涙ぐんでそれを見送り、遠くで振り返った時も、暗い門前で立ち尽くしていた。

「……事を収めたら、戻る約束をした。それまでは、きっと、達者でいてくれる」

 同じように振り返った若者が、誰のともなく呟いた。

 少し早めに江戸に向かう旅の始まりは、こんな感じだった。


 江戸の住民を、苦しめていた政がなくなって、もうすぐ十年経つ。

 その間に、上に立つお江戸の殿は目まぐるしく変わり、当時は五代目だったのに、今ではもう八代目だ。

「ここまで目まぐるしく変わるんじゃあ、何か呪いがかかっているとか、そんな話が出そうだけど、そういう話は全く聞かないな」

 女は、三味線の弦の音を合わせながら、のんびりと呟いた。

「それだけしっかりと考えを持った者が、この国の上に立ったからか、呪いごとに怯えすぎて、箝口令を敷いているか、どちらだろうな」

 それに答える女は、片手に持つ扇子を閉じたり開いたり、手持ち無沙汰に繰り返している。

 二人共、色白の女だ。

 目立たぬ顔立ちを、化粧で際立たせ、殿方を魅了して金を稼ぐ。

「箝口令、の方がありがたいな。呪いごとを信じている殿方の方が、脅せるだろ?」

「……そうだな」

 扇子を開く手を止め、女が溜息を吐いた。

 八代目となる殿が、つつましい暮らしを目指している。

 民にだけ強要するのではなく、己の身の回りからつつましくなっているらしいと、風の噂で聞いた。

 今のところ、自分たちの暮らしにまでは及んでいないが、いずれは芸を見る事すら贅沢とされ、目くじら立てられるかもしれない。

「そうなると、『餌』が取れなくなる。いや、オレたちは慣れてるからいいけど、せんは……」

 二人の女は唸って、前で茶を啜る侍を見た。

 黒い艶のある髪を、無造作に後ろで束ねただけの、浪人者だ。

 化粧している二人の女より、遥かに色白のその侍は、顔を上げて笑って見せた。

「心配せずとも、食い扶持くらいは自分で探す。それに知っているだろう? 私は、人間の中にいれば、好きなだけ『餌』は手に入る」

「……それじゃあ、いつになったら、元に戻るんだか、分からないじゃないかっ」

 三味線を置いた女が、吐き捨てるように言い、切り出した。

「いい話が、舞い込んだんだ。黄金こがね、手を貸してくれるか?」

 黄金を呼ばれた女が首を傾げながら、話を促す。

「ある国がさ、それこそ五代目の殿さまの時から、秘かにやってる金策。それが、明るみに出そうなんだってさ」

 秘かにやっている、と言う事は、随分後ろ黒い金策の仕方なのだろう。

「探りの手を、そちらに向けない様、何か騒動を起こして欲しいって、そこの国の殿が」

「騒動? 白銀しろがね、そう言う目立つことは……」

 侍が目を剝くが、白銀と呼ばれた女は真顔で首を振った。

「少しでも糧になるなら、多少の汚い事も、やらないと。オレは、早くお前に元に戻って欲しい」

 戸惑う浪人に、黄金も頷く。

「いつ奴が、今のお前を見つけて、襲ってくるか分からない。その前に、力を取り戻さなければ……」

 真剣な二人の言い分に、千はその時、止める事が出来なかったのだった。


 長屋の壁は、薄い。

 夫婦の夜の営みも、隣近所には筒抜けだ。

 だから、京の知り合いに身元を引き受けてもらい、江戸の出て長屋に入った二人は、この半年余り、夜も眠るだけと言う、夫婦役にあるまじき暮らしを続けていた。

 だが、その暮らしを終わらせなければならない知らせが、二人の元に届いた。

「セイたちが、江戸に入ったそうです」

「え、早くない?」

 そんな言葉を交わした翌日の夜、男が仕事を終えて帰ると、土間に酒樽が一つ、鎮座していた。

「今夜は、飲もう」

 そう言う女の目は、心なしか据わっている。

 男の方も、何となく察して力強く頷き、肴になる物を買いに走ると、夫婦水入らずの晩酌が始まった。

 酔って勢いをつける、そんな意気込みで飲んだせいか、女はいつもより早く目を潤ませて、男の首に腕を回した。

「エン、好きだよ」

 そんな事を言いながら見上げる女、みやびを見下ろし、エンは思わず目を見開いた。

 何も答えない男に業を煮やしたのか、雅はすねたように口を尖らせた。

「あなたは、私の事、嫌いなのか?」

「いえ、そんな事は、ありませんよ」

 その珍しい仕草に見惚れてしまったエンが、穏やかに微笑んで返した。

「これ以上ない位に、大好きです」

 はっきりとした返しに、嬉しそうに笑った雅が、畳の上にゆっくりと倒れ込むと、誘うように男に手を伸ばす。

 その上に覆いかぶさり、エンは雅の耳元に囁いた。

「酔った振りがお上手なので、このまま続けてしまいたい気もするんですけど、来たみたいですよ、いつもの奴が」

「何のこと?」

 エンの襟元に手をかけて、次の動きに移っていた雅の、色っぽい問いかけに、男は申し訳ない気持ちで答えた。

「邪魔者、です」

 女の手が、止まった。

「一人二人ならまだしも、あんな大勢の中で、続けるわけには……」

「またかっ」

 床に手を落としながら、雅は思わず吐き捨てた。

 その声は、酔っているものではない。

「何でだっ? どうして、仲良くしてると、いつも変な邪魔が入るんだっ?」

「さあ」

 うんざりしている女に答える男の方は、こんなものだと諦めているようだ。

 不機嫌に、しかし少し息をひそめて戸口の方へ目を向け、雅が小声で尋ねる。

「で? 今度の邪魔は、八つ当たりできる邪魔?」

「さあ、ですけど、オレはいたって真面目に、仕事をしていたので、邪魔者が出来る余地は、無いはずです」

 エンは首を傾げて雅に目で尋ねると、それを受けた女も答える。

「私も、つつましく病弱なおかみ役をしていたよ。長屋の人とも洗い物や繕い物の時以外は、あまり話さなかったし」

 長屋のおかみさん方と触れ合う以外は、家からも出ていない。

「それは、逆に目立つのでは?」

「そうか? でも、どちらかと言うと、あなた絡みの邪魔、と考える方がいいんじゃないか?」

 その言い分に、素直に考え込んだエンが、目を細めた。

「もしかして、あれかな?」

「心当たり、あったのか?」

「いや、ですけど、あれは……」

 首を傾げてしまう男に、雅は身を乗り出した。

「何の話だ?」

「ほら、この間話したでしょう? この長屋の大家さんの娘さんが、不治の病にかかっていると言う話です」

「ああ、そんな話があったね」

 この長屋の家主は、材木問屋の甚兵衛じんべえと言う、五十代の男だ。

 その材木問屋の次女が、しばらく前から、病に伏せっていると聞いた。

「その話を、どこから聞きつけたのか、おかしなお武家様が、今日の昼間、あのお店を訪ねて来たんです」

 エンが、なぜそれを知っているかと言うと、その時偶々、振り売りの仕事でその傍を通ったのだ。

 小声で、店の者に発した言葉は、エンが思わず耳を疑う内容だった。

「そのお武家様、噂の狐憑きを祓う為に来たと、そう言ったんです」

「狐憑き?」

 雅は呆気にとられ、思わず感心した。

「それは、変わった狐もいるんだな。人間にとり憑くなんて」

「まあ、出所の分からない病を、狐や他の獣たちにとり憑かれたことにして得心するのは、何もこの国だけじゃないんで、それには驚いていないんですが……」

「材木問屋の旦那様が、狐憑きって言う言い分を信じた上に、私の事を知ったら……」

 顔を顰める雅に、エンは首を振った。

「それはないです。あなたの話は、一言もしていないですから。ただ、話を切り出しているのを聞く前に、そのお武家様に、すれ違いざまに、言われたことがありまして……」

 だから、ついつい小声でのあの言葉が耳に入る程、気にしてしまったのだ。

「話をしたのか?」

「いいえ、声をかけられて褒められたので、御礼を言っただけです」

「それって、目立ってるからじゃないのか?」

 思わず疑いの目を向ける女に、男は慌てて首を振る。

「そんなはずはないです。というより、あんな褒め方する方も、おかしいですよ、今考えてみると」

「どんな、褒め方をしたんだ?」

 話がそれているのは分かるが、気になって問いかけると、エンは穏やかに笑いながら答えた。

「素手で、魚がさばけるとは、包丁要らずだな、と」

 魚を売って生計を立てていたエンは、客の望みによっては、魚を三枚おろしにすることもある。

 勿論、包丁を使っていたので、よく分かったなと感心しつつも、御礼を言ったのだった。

「……それが、褒めていると、聞こえたのか」

 にこにこと笑いながら頷いた男を、雅は思わずしみじみと見つめてしまった。

 この男と初めて会ったのは、数年前の雨の時期だ。

 夜の山の中で、血にまみれたまま自分を見返したあの姿が、夜目にもはっきりと分かった。

 あれだけの事をしでかした後だからか、後ろめたそうにしていたが、自分の思うところは、はっきりと告げて去って行った。

 それが、心に残っていたわけではない、と思う。

 強くなりたいと願う自分と、それ以上に、同じ願いを持った弟のかい

 二人共を引き受けてもらうのは何だと、雅がこの国に残った。

 その間に、自己流で強くなろうと試みたのだが、父親の血は姿かたちだけだったようで、剣筋に見込みが出来なかった。

 戒がモノになって戻って来た時、雅は全く違う教えを乞うために、エンに声をかけた。

 剣を教えてくれと言う女の頼みを、自分は武器なしが主流だと断った男だ。

 剣ならと、仲間の内の二人と引き合わせてくれたが、ジュラと言う男は、雅を一目見て慌てて首を振った。

「教えるのは、無理だっ」

 余りの慌てように、何か父親と悶着でもあったのかと疑ったが、近くでそれを見ていたもう一人の剣の使い手のオキが、小さく笑いながら呟く。

「教えてモノにならなかったら、お前の父親に、申し訳ないと思ったんだろう」

 そんな気持ちにならないその男の方は、雑でいいなら教えると言ってくれた。

 だが、そこで戒が目を据わらせて、割り込んだのだ。

「オレにも、教えてくれ」

「無理だ」

「何でだっ?」

 勢い込む子供に、オキはきっぱりと言った。

「子供の世話は、嫌いだ」

「この一年で、背は伸びたんだぞっ、もっとでかくなってやる、だから……」

「おう、もっと、でかくなってからにしろ。間違って死なせたら、こいつに恨まれる」

 そんな二人の話を聞きながら、ああそうだったと思い当たる。

 剣を教わると言うからには、郷に入っては郷に従う、というのが鉄則だ。

 そうなると、戒一人をこの地に残すことになってしまう。

 かと言って、一緒に連れて行ってもらうのは、流石に甘え過ぎだろう。

 子供の戒の方が、強くなる見込みがある。

 そう申し出ると、オキはかなり頑固に難色を示した。

 が、最後には折れてくれ、戒は彼らと国を離れた。

 そして戻って来た時、雅が今度はエンに、教えを乞う事を切り出したのだ。

「ふざけるな、お前な、そこまで、何かを極めたいのなら、初めからこのガキと一緒に、ついてくればいいだろうがっ」

 オキが激高した。

 どうやら、恐ろしく大きくなった戒は、そうなるまで、随分世話が焼けたようだ。

 申し訳ないとは思ったが、数年待った後の雅も、引く気はなかった。

 だが、その後について行く気の戒に気付き、オキはまた頑なに首を振った。

「……じゃあ、あんたは、エンと、この国で修業したらどうだ?」

 そう言いだしたのは、数年前は全く話に混じらず、その時もそれまで見ているだけだった、セイだった。

 この数年、全く変わっていない若者は、無感情に続けた。

「折角だから、江戸の方へも行ってみたいと、話してたんだ。私たちは、後からゆっくりと準備して向かうから、あんたとエンで、修業でもしながら、江戸まで行ってみてはどうだ?」

「駄目だっ」

 戒が、直ぐに答えた。

「ふざけるな、ミヤを、そんな得体のしれん男と二人きりで、だとっ? それなら、オレも行く」

「お前な、馬に蹴られるぞ」

 揶揄いの混じったオキの宥める言葉に、戒は勢いよく返す。

「な、蹴られるかっ。どこにいるんだ、馬がっ?」

「お偉い人の屋敷になら、一頭くらいいるだろ」

 自分よりはるかに大きくなった子供に答え、セイは傍らに立つエンを見上げた。

 再会した途端、唐突な頼みごとをされ、その上セイがとんでもない話を切り出したことで、男の頭の中は、真っ白になっていたようだ。

 そんな兄貴分を、首を傾げて見やりながら、若者は声をかけた。

「得体なら、知れてるよな? うちの中では、一番人情がある」

 この一年、江戸に向かう道中で、その人柄は大体分かったが、偶にまだ分からない所もあった。

 ……そうか、そんな事を言われたら、礼を言いたくなるほどに、嬉しいのか。

 小さく唸った後、雅は何とか気を取り直した。

「この江戸には、それこそいろんな人が集まっているから、そんな話を耳にしたからって、夜中に近いこの時分に騒ぐとも思えないな……」

 男の足音が、数人分近づいてくるのを聞きながら、怪しまれたのは自分の方かなと、女が今迄の動きを思い返し始めた時、引き戸が乱暴に叩かれた。

「はい、どなたですか?」

 穏やかに返し、男は小声で女に言う。

「引き付けておきますんで、あなたは裏から……」

「何もしていないのに、逃げるのもおかしいだろ」

 優しい笑顔で遮り、雅は乱暴に開け放たれた、引き戸の方を見た。

 数人の、屈強な若い男を従えて立つ四十代の男が、静かに座る女を見つけた。

 女を見止めた若い男たちが殺気立つのを抑え、男がゆっくりと声をかける。

「お前さん、ここに住む者かね?」

「はい、ミヤと申します。何か御用でしょうか?」

 優しい微笑みを浮かべる雅を見下ろし、男はゆっくりと告げた。

「少し話があるのだが、これから一緒に来てはくれまいか?」

 唐突な申し出に、流石に目を見開き、女は答えた。

「ここでは話せない事ですか? そのような、大事な話をされる謂れは、私にはないはずですが……」

「そちらにはなくとも、私の方にはあるのだよ。あまり公にしたいことではないのでな、騒がずに、一緒に来てくれぬか?」

「そう言われましても……」

 困ったように首を傾げ、雅は男の顔を覗きこんだ。

「これより夜も深まる所です。明日の朝、そちらに伺う、と言う事では、いけないのでしょうか?」

「遅いに決まっているだろうがっ、立場をわきまえろっ」

 返したのは、男の背後に控えていた、若い男の一人だ。

 他の男達より一回り大きな、一番若そうな男だ。

 その怒号のような声に、女は目を細めただけだ。

「立場?」

「こら、やめないか。……おみやと言ったね、すまないが、それでは遅いのだ」

「なぜ、遅いのですか?」

 全く要領を得ない言い分から、何とか話を引き出そうとする女に、男は躊躇いながら答えた。

「……逃げられて、どうしようもなくなるのは、困るのだ」

「逃げる? 逃げなければならないようなお話を聞きに、私は、かどわかされそうになっているのですか?」

「黙れ、お前が直に話していいお方じゃねえんだよ。お頭、構うこたねえでしょう、言葉で言って分かる奴なら、あんなことしねえですよ」

 あんなこと?

 その言葉が気になっている女の腕を、若い男が乱暴に攫みかかったが、その前にエンが体を割り込ませた。

「うちの女房が、何か?」

 隣にいたのにも拘らず、エンがその場にいる事に、来訪者たちは今まで気づいていなかった。

 驚いた男衆の前で、主人の男が声を出す。

「お前さんは?」

「この界隈で、魚の商売させていただいてる、カエンと申します」

 丁寧に頭を下げる男に、ようやく男が名乗る。

「私は、甚兵衛さんと懇意にしている、松吉まつきちと言う」

「ああ、確か、大工の……」

 棟梁、でよかったか? と言葉を濁すエンに、松吉と名乗った男が問いかけた。

「その女子は、お前の連れ合いか?」

「はい。親の反対を押し切って、ようやく夫婦になれました。甚兵衛様は、事情を全て知った上で、我々に住むところを与えて下さいました」

 家主の名を出すと、若い衆たちの勢いが乱れた。

 差配の老人にも、伝わっている事情だ。

 真面目に働くエンの事を、二人とも気に入ってくれていた。

 知らぬふりを決め込んで、こちらの話を持ち出したのだが、男は知っていた。

 甚兵衛の二女と、この松吉の倅の一人が許嫁同志で、ゆくゆくは婿養子に出すと言う話になっていると。

 穏やかに笑いながら、エンは控えめに切り出した。

「私の嫁に、どのような嫌疑がかけられているかは存じませんが、明日の朝、共にそちらに伺いますので、今夜の所は、お引き取り戴けないでしょうか?」

 あくまでも下手に出た男の言い分に、松吉は首を振った。

「すまぬが、事は一刻を争うのだ。聞き分けてくれぬか?」

「では、私が得心いくよう、その一刻を争う事態とやらのお話を、お願いいたします。でなければ、こんな夜分に、そのような男衆に、連れ合いをかどわかされるのを、黙って見ている訳には……」

 言葉は、あくまでも丁寧だが、雅にはその声に、苛立ちが混じっているのがはっきりと分かった。

 だが、付き合いが永くなった雅なら分かるが、見も知らぬ者からすると、物静かな男の持って回った言い分など、鼻であしらえるものだった。

「夜に出歩いている女を、放って置いて、旦那もくそもあるのか?」

 鼻で笑いながら、先程から食ってかかる若い男が、吐き捨てた。

 他の若い男たちも、男を見下ろしながら笑う。

 そんな連中を穏やかに見上げ、エンは静かに返す。

「……昼間も、出歩かぬ人が、わざわざ夜に出歩くはずがないでしょう。夜は、私も傍にいるんですよ?」

「お前さんも、化かされてるんだろ」

「何の、話ですか?」

 笑顔のままの男に、その心境に気付かぬ男が答える。

「この女はな、夜な夜な、若い男を誑かして、腑抜けにしてんだよ」

「こら、まだあの侍の言い分が、決まったわけではないだろうっ?」

「いいじゃねえですか。この腑抜け野郎、女房がどんな奴かも知らねえで、四の五の言ってんですよ。本当のことを知れば、黙って引き渡しますよ」

 気になる言葉があったが、それを咎める暇はなかった。

 エンが、黙ったまま、笑みを濃くしたのだ。

 この、一年余りの付き合いで、分かった事がある。

 笑みを崩さぬこの男は、セイとは違う意味で、感情を表に出さないようにしているだけで、決して人が好い訳ではない。

 特に、怒髪天を抜くほどの怒りを覚えると、エンは深い笑みでそれを隠してしまう。

 その上で、怒りの矛先に、激しい攻撃をするのだ。

 穏やかに笑ったままの男が、静かに立ち上がろうとするのを、雅は焦って止めた。

「やめろ、頼むから」

「もういいでしょう、どうせ、ここも近く引き払うんですから。心配いりません、ちゃんと、片付けますから」

「いや、その怒りは最もだし、嬉しいけど、落ち着いてくれ。身元引受てくれた人に、迷惑をかけたくない」

 必死で男に言い聞かせ、女は振り返った。

 その間に、松吉が暴言を吐いた男を叱り飛ばし、咳払いをした。

「済まなかった」

「いいえ。分かりました、ご一緒いたしますが、うちの人も一緒でよろしいですか?」

「勿論だ。旦那持ちなのなら、心配されるのも致し方ない事だ」

 若い者たちは何かしらの疑いを、未だに持っているようだ。

 松吉は、もう疑いを捨て始めているようだが、念のために話を聞くつもりのようだ。

 行燈の火を消し、火鉢の火種を灰に押し込むと、雅はエンと共に小さな家を出た。

 長屋の住民が、こっそりと顔を出しているのを横目に、女は溜息を吐いた。

 これまで、慎ましく暮らしていたのに、最後の最後でどうしてこうなるのだろうか。

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