46 声援


 ロサ・ルゴサのメンバーが甲子園球場に到着した準決勝第1試合の10回裏、それまで晴れていた空は雲が立ちのぼり、夕立の前触れのような風が吹き始めていた。


「なんか嵐の前の静けさって感じだよね」


 すず香のこんなときの予感は往々にして当たることがあって、しかもそれはたいがい吉事ではない。


「すず香先輩、あんまり変なこと言うとマジで負けるからやめてください」


 冗談まじりに沙良が言うと、


「分からないよー」


 明日海が笑いで切り返してみせた。


 試合開始は14時予定だが、第1試合の神奈川代表・湘陵しょうりょう高校と広島代表・たかはし高校の試合が延長戦に突入しており、どうやらこのままでゆけば後ろ倒しになりそうな展望である。


「でもさ、遅くなったらナイターだよね」


 まるでプロみたい、と耀が言うと、


「しかも全国に生中継だしね。うちらでさえネット配信で地上波じゃなかったのにね」


 明日海は小さな愚痴をこぼした。




 湘陵対鷹野橋の試合は延長14回裏、湘陵のサヨナラタイムリーでようやっと決着し、アルプススタンドにロサ・ルゴサ

やMarysを始め神居別高校の応援団が入れ替えで入り終わる頃には小雨が降り始めていた。


 試合は16時開始。


 雨は小降りながら止むことはなく、レインコートを着た応援団はメガホンを手に、先攻の神居別高校は攻撃とともに声をあげた。


「かっ飛ばせーっ、りょーたろっ!」


 2番の星原涼太郎の打順が来た。


 送りバントがフライになりキャッチャーミットにおさまると、


「何か今日は勝手が違うみたいだね」


 雨のアルプススタンドで慶子とすず香は、吹奏楽部隊の席から戦況を見つめていた。




 試合は雨で度々中断し、しかし対戦校の和歌山学院大学高校はキビキビした動きでエラーもなく、まだ点数も取られていないのに、和歌山ペースで進んでいるように映った。


 雨で涼太郎は体力を奪われているのか、ボールもいつものキレがない。


 次第にストライクとボールが4回あたりからハッキリしてきたところを打たれ、毎回ランナーを背負ってゆく。


「…ノンタン」


 すず香が見たのは、雨の中レインコートを着て手を組んで祈る慶子の姿であった。


 もはやそれは好きとか嫌いとか、そんな感情はどうでもよく、ただ一心不乱に勝利を願う背中に、


「だから涼太郎が惚れちゃうんだよ」


 すず香は階段を登っていった。




 5回を終了する頃にはあたりも暗くなり、カクテルライトが点灯しナイターになった。


 点数は0対0で、しかし80球近く投げていた涼太郎が疲れているのは、遠目に眺めていても明らかであった。


 それでもフォアボールを出しながらも要所は締め、互いに譲らないまま、雨も止まないままついに8回まで来た。


 8回裏の和歌山学院大学高校は5番からの打順で、その初球をバッターが振り抜いた。


 カキン、という甲高い音だけを残して、打球は星もない雲だらけの夜空へ放たれ、やがてレフトスタンドのギリギリに吸い込まれてゆく。


 歓声がわく。


 その歓声で糸がぷっつり切れたのか、慶子がうなだれて肩を震わせている後ろ姿を、すず香は見た。


 凄絶であったのはここからで、涼太郎はこのホームランで覚醒したのか、人が変わったように打者の膝元へ容赦なく投げ込んでは、和歌山打線を腰砕けにして三振を連続で奪ってあっという間にイニングチェンジにシャットアウトしてみせた。


 そのあまりの迫力に、対戦相手であるはずの和歌山のアルプススタンドからも拍手が湧くほどであった。





 結果から記すと、1対0で神居別高校は敗れた。


 しかし強打の和歌山学院大学高校打線にヒット11本も打たれながら失点はわずかにホームランの1点だけで、130球近く投げ抜いた星原涼太郎に、甲子園の観衆は敗戦投手ながら満場の拍手を贈った。


 試合が終わる頃、雨はようやく止んで、雲の裂け目からは金星がかすかに見えている。


 帰り支度がアルプススタンドで始まる中、慶子だけは泣いていた。


 かつてスクバンの予選で負けた日も、花の通夜のときも、どんなときでも泣かなかった慶子が、人目を憚らずに泣いている姿を見たすず香は、


「…何か、私ってちっぽけな人間だなぁ」


 椿が慶子に気づいて肩を抱き、促されるように慶子はアルプススタンドの階段をたどたどしく降りていく。


 すず香は、それをなすすべなく眺めていた。





 ホテルに戻ると、目を真っ赤に充血させた慶子は、


「お腹空いたからなんか食べよ?」


 とすず香を誘い、ホテル近くのコンビニへ連れ出して夜食用のカップ麺と麦茶を買い、部屋に戻ると、


「…なんか不思議だよね。敗けてもカッコいいって、ホントにあるんだね」


 慶子はカップの焼きそばを頬張りながら、しかしどこかしらスッキリした顔になって、


「…さ、これで次は私たちがMarysをスクバンで優勝させる番だね」


 あれだけ泣いたからか、すっかり前向きになっていた。




 それぞれ神居別へ戻ると、校舎の近くではススキが穂を出し始め、校門の脇にあったナナカマドの実がいつの間にか赤くなっていた。


「今回は全道予選をしっかり見学して、来年ワタワタしないようにさせとかなきゃ」


 慶子は少し性格が明るくなったようで、もともと面倒見は良かったのであったが、さらにあれこれ気を配るようになっていた。


 帰って来てしばらくして、菱島飛鳥が小さな袋を手に部室にやってきた。


「今回はみんなにほんとにお世話になりました」


 飛鳥が渡したのは、甲子園で買ったらしき神居別高校のユニフォームの形をしたキーホルダーで、


「一応、メンバー全員分買ったのでみんなで」


 こういう細やかなところが飛鳥にはある。




 慶子はねぎらう意味を込めて、


「…飛鳥ちゃんこそマネージャーお疲れ様」


 飛鳥も、これで野球部のマネージャーを引退する。


「とりあえず少し休んだら、受験考えなきゃ」


 屈託なく笑う飛鳥に、


「飛鳥ちゃんは明るいなぁ」


「そういうノンタン部長だって、一生懸命応援してくれてありがとう」


 飛鳥は両手を広げ、慶子は応えてハグをした。


「…多分わたし、進学はしないと思う」


 そういえば飛鳥の家は漁師で、しかしさまで裕福ではないから、せいぜい専門学校であろうことは過去に語っていたのであったが、


「…ノンタン部長は進学?」


「学芸員になるには、まず教師免許が要るからね…」


「そっかぁ…」


 お互いに頑張ろうね、と飛鳥は慶子に手を振り、この日はそれぞれ別れた。










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